夜明けへの斥候兵
「ひょっとして、最初にこれを話せば、少しはスムーズに信頼してもらえたのかな」
ミハルとは別の気づきを得て、魔王が顎に指を這わせる。
ミハルはただ呆然と、目の前に出された現実に圧倒されていた。
色々な人の人生が狂った闇の拡大が、魔王の暇つぶしから始まったというのなら。
「どれだけ、自分勝手な」
思わず言葉が漏れた。震えた声を聞き、魔王がこともなげに受け流す。
「そうだね。でも、こればっかりはやめられない。
楽しくて、楽しくて、仕方がない。あるいは私は、このために数百年をこの世界で過ごしてきたのかもしれない」
言葉は届かない。心の距離が遠すぎる。
こちらからでは音が届かぬほどの年月が、彼の中では既に経ってしまっているからだ。
ならばもう、道なんて、選べるわけがないじゃないか。
「戦おう」
「……」
「私は夜の始まる場所で君を待つ。爪を、鱗を、そして時が経てば新たな魔族を産みながら、辿り着く日を待ち焦がれる。
そして、君たちが訪れたなら、全力でそれを迎え撃つ。一切の手加減無く、闇を広げて立ちはだかる。
ミハルよ。暁の勇者の使徒、夜明けへの斥候兵よ。どうか、私の向こうに広がる世界で一番綺麗な夜明けを望みたまえ」
魔王はそういうと立ち上がり、背を向けた。
聞きたいことは聞き、話したいことは話した。
これ以上は必要ない、ということか。
「……いや、待て」
だが、足が止まる。
どくりと心臓が鳴った。
人間と比べても相違ないその背に何かが満ち、悪寒となってミハルの体を襲う。
「ゼット、ギラン・ミルジット、ドーク……それに爪と鱗たちか。
彼らでは、あるいは……あるいは、がありかねない。それは非常に、つまらない。
安寧の中で力を蓄えられるのは、私は全く面白くない」
振り返った魔王は、とても優しく微笑んでいる。その微笑みは、刺激に夢を見る魔族の、会った時から変わらない魔王の微笑みだ。
反射的に立ち上がる。だが立ち上がったところから体が動かない。椅子から伸びた闇がミハルの手足を飲み込んで拘束していた。
「バルテロ」
『ここに』
「右手に宿れ」
『仰せのままに』
ぐわんと混沌とした空間が裂け、瞳らしきものが魔王を見つめる。
魔王が右手を宙にかざせば、混沌が収縮するようにその右手にまとわりついていく。
ぐるぐる、ぐるぐると。
渦を巻いて、混沌は次第に球体を形作っていく。
「ミハル、私は君が大好きだ。
私を見つけるその力も、私と対するその心も、私を受け入れ真実を話してくれたことも、ヒトを思い私の勝手に憤る姿も、愛しくてたまらない。
だから、君ともう一つ、取引をしようと思う」
声が出ない。口が闇によって無理矢理に広げられている。
うーうーと唸るばかりで意味のある言葉を紡ぐことは出来ない。
「残った魔族たちは、弱かったり、ヒトとの関わり方が特殊だったりと、ヒトが落ち着きかねないものが大半だと気づいたんだ。
折角身を晒し、折角待ち焦がれているのに、相対するのが数年、数十年後なんていうのは、許せない。
だから、絶対に私を打ち倒してもらうために、君にバルテロを預けよう」
球体が収縮し、飴玉のような形になる。
「君が夜明けに向けて歩き続けるなら、バルテロは何もしない。ただ、君の体の中で眠り続ける。
君は労せずして『魔王の影』を抑えつけ、勇者の障害を一つ排することが出来る、というわけだ。素敵だろう?」
飴玉のような混沌が、ミハルの口に運ばれる。
体の全てが固定され、拒むことは出来ない。
「だが、君がもし……
夜明けに向かうその歩みを止めたなら。
闇を受け入れたなら。
夜明けを諦め、膝を折ったならば。
バルテロは君の体を奪い、君に成り代わり、世界に闇を広げ、ヒトの全てを闇に飲み込もう」
舌の上に載せられる蠢く球体は、意志を持ってミハルの体内に落ちていく。
喉を下り、体の中央に届き、そこから、どす黒い混沌が体中に広がっていく。
闇の拘束が解け、体に篭めていた力のすべてが開放されて勢いがついたまま足場に放り出される。
痛み。苦しみ。体を襲う不快感。吐き気、頭痛、痺れ。不調は収まらず、もんどりうつ。
「バルテロ、君に使令を与えよう」
声に自然と顔が持ち上がる。
自分以外の何者かが体を動かす感覚は、ただひたすらに恐ろしい。
「ミハルが膝を折ったなら、全てを奪い世界の敵となれ」
「『御心のままに、我が王』」
臓腑の底にあった闇が喉まで這い上がり、ミハルの声で答える。
「ついでに、ミハルと共に世界を見てくるといい。闇の中から出ない君は、少し世界が狭すぎる。
世界と関わり、ヒトと関われば、新たな発見もあるだろう」
「『仰せのままに』」
「そうだ、なんなら私を裏切って、勇者側についてもいい。
世界に守るべきものを見つけたら、ヒトと共に私に抗え。それもまた、刺激的だ」
聞き届け、再び体に闇が溶けていく。
謀反の誘いに答えることすら不敬とでも言いたいように、心も闇に溶かしたままだ。
体に闇が染み渡り、ミハルがついに気を失う瞬間。
魔王は体を翻し、歩き出した。
闇の中へ。
夜の始まる場所へ。
いつか決着を結ぶ地へ。
「素敵な物語を、期待しているよ」
背に隠れて見えなかったが、その顔はきっと、微笑んでいた。




