逆恨み
○ニイル
信じられない光景が広がっている。
ミハルが、ミハルだった誰かへと変貌し、粘ついた黒い糊のような物を大量に、それこそ闘技の舞台を埋め尽くす程に撒き散らした。
自然の摂理に抗い、意志を持つように壁を登り、観客席をも満たしていく『それ』は、ニイルにある種の懐かしさを喚起させた。
纏わりつくこの嫌な空気。
魔族が生み出す闇の根本と似たものだ。
ならば、あそこに居るのは……
「ミハル、くん―――」
○
ミハルと別れて、ニイルは、どうしても一人で逃げることが出来なかった。
砕かれた自信が足裏を縫い付けたように、ほんの少しの距離を駆け抜けることすら許さずに、ただ立ち尽くさせた。
その後は、なにもない。ただ光が闇に飲まれるように、街の者に見つけられ、連れられ、混乱渦巻く街中を駆け回らぬようにと他のコガレたちと一緒に建物に詰め込まれた。
しばらく後に連れ出され、闘技場の観客席に並べられた。
手には槍を持たされ、観客席と闘技の舞台とを区切る壁のように、一列に男が並んでいる。
逆らう男は誰も居ない。逆らうそぶりを見せればその場で眠らされ、舞台の上に投げ込まれることになるからだ。
客席側に立つのは初めてだが、これから起きることには想像がついた。先日までニイルが受けていた仕打ちと、きっと同じだ。
ミハルとコマチが舞台に現れ客席が割れんばかりに湧く。
ニイルは、「ああ、そうか」と思った。
彼ならもしかしたら、と思った瞬間もあった。一緒に生きて逃げ出せる未来を見たこともあった。
だが、結末は望みばかりが反映されるものではない。強いものに、望みは勝てない。
(なあ、ミハルくん……俺は、逃げなくて、良かったのかもな)
無数の機転を重ねて編んだ起死回生の一手が、『崩拳』でねじ伏せられる。
そこから先のコマチに遊びはない。一方的な蹂躙が始まる。
驕り高ぶった者の末路は、死を懇願するほどの痛みと、死を許されぬ繋がれた生涯。
(せめて、君の優しさに、答えるよ)
服の内側に隠したままの毒の小瓶を握りしめる。
これから数日、ミハルの心が完全に折れるまで日を変え人を変え闘技は続き、最後にミハルはコガレに落とされるだろう。
元勇者団同士。ニイルの時にも居たギラついた征服欲を持つ者が、二人揃えて仕事に呼ぶことは、きっとある。
その時に、一緒に死のう。
一緒に逃げられないならば、ミハルが施した優しさでせめて一緒に死のう。
それが、ニイルに出来るせめてもの恩返しで、ミハルとニイルがつかめるせめてもの救済だ。
「『今が、そうか。
今が貴様の歩みが止まる時か、ヒト』」
空気が塗り替わる。
伏せていたはずのミハルが起き上がり、コマチを圧倒し始める。
溢れ出す闇。身に纏った流動体の鎧。まったく異なる戦い方。振りまくのは、コマチを超えた理不尽な蹂躙。
生み出された魔物が観客を襲う。街を統べる魔族が一呑みにされる。波打つように闇が暴れ、全てを破壊していく。
ニイルは、ただ立ち尽くし。
「ミハル、くん―――」
持たされた槍が、きいきいと、泣くように足場を削り。涙の代わりに闇の飛沫を振り散らす。
どうして。どうしてこうも。
せっかく、一人じゃなくなったのに。
手を繋いで逃げる時、不安はなかった。
二人で死のうと心に決めた時、迷いはなかった。
なのに、なぜ。
なぜミハルはこの手を振り払い、別の場所へと逃げていく。
ニイルに光を見せたまま、勝手にどこかへ駆けていく。
「行くな」
すがるように一歩を踏み出した。
動き出した足を止めるものは、なにもなかった。
「行かないでくれ」
駆ける足が、止まらない。
手に持った槍が体の一部のように馴染む。
目の前に立ち塞がる剣から生まれた魔物が一薙ぎで両断できた。
消えゆく魔物の身体の向こうで、ミハルだったものが笑っている。闇で象った口を裂いて笑っている。
「勝手に、行くなよ」
身体を突き動かしたのは、矜持でも、プライドでも、優しさでも、勇気でもない。
共に地獄を歩くはずの仲間を求める、弱者の逆恨みだった。
精神のタガが外れ恐怖すら逆恨みで踏み越えた。
「俺を置いて行くなぁッ!!」
もう勝手に一人で先へは行かせない。
光を見せた責任を、今度こそ取らせる。
そのために、ニイルはミハルを取り戻す。




