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八月十二日

作者: 大地凛

提灯鮟鱇は空を飛ぶものである。

 夕焼けの空に提灯鮟鱇が浮かんでおります、というのも、毎年この時期ともなりますと、提灯鮟鱇が空を泳ぐのであります。初めは驚いていた人もいたそうですが、何百年と経つ内に、この町に提灯鮟鱇の空泳ぎに喫驚する者はいなくなりました。勿論、この湊の外から来る人の中には、それを知らぬ人もおりますで、まったく我が目を疑うといった風で、空を眺めるのであります。


 提灯鮟鱇は触れることができません、万が一触れようとすれば、祟りが起こるとよく言われております。提灯鮟鱇の遊泳を邪魔した家には死人が出るとか、提灯鮟鱇に当たった車は事故を起こすから乗ってはいけないとか、そういう噂は跡を立たず。だから、悪いように言われるかと言えば、実はそうではありません。提灯鮟鱇が多く飛べば、向こう一年豊漁と言われております。しかし、魚を取りすぎることは、提灯鮟鱇を怒らせることになりますので、漁師たちは、わざと網に穴を開けたりするのであります。




「君は、私をからかっているね」


「教授、僕を信じてくださいよ。僕の故郷の隣町なんですよ」


 一通り、吉見の言う事を聞いてみたが、荒唐無稽が過ぎる。一体、どういうつもりで彼が、自分にその話を語ったのか、皆目見当もつかない。


「君、地元はどこなんだい」


「はい、岩手です」


 吉見は、その割には綺麗な標準語を喋る。確か、研究室に入った時に聞いた記憶が正しければ、彼が三歳かそこらの時分に東京に引越してきたそうである。


「それで、提灯鮟鱇を祀る夏祭りがあると。いつからさ」


「はい、えぇと……。八月十二日からですね」


 とりあえず手帳を捲ると、丁度その日は空いていた。その翌日は、世間一般で言うところの盂蘭盆であったが、私には、実家に帰る義理もなければ、存在しない妻の故郷に帰ることもない。実に意味のない盆の休みであったから、少し考えてから、吉見の提案を受け入れることにした。



 東北新幹線やまびこ号は、さりさりと音を立てて走る。終点の盛岡まで眠っていようかと考えていたが、吉見は地図を広げては、私を寝かせるまいと、必死になってその集落の説明をしてきた。


「六時位から、飛ぶそうなので」


 矢庭にそのように言われても、混乱するだけである。吉見は分かっていない。信じないぞ、私は。長く民俗学に携わってきた私だ。フィールドワークは世界中でこなしてきたが、そんな話は聞いたことがない。そのような前近代の信仰というか、思想というか、観念というかが、戸板に泥が爛れるようにこびりついていたとしたら、と考えると、成程、興味は湧くかもしれない。いや、信じないが。


「そういえば、教授はコンタクトですか?」


「そうだが」


「絶対外してくださいね」


 そうか、分かったよ吉見。



 さて、その集落は、異様な活気を帯びていた。肌脱ぎの若者たち、漁師逆立ち、振り乱したじろぎ、酒奉り祝い、或いは集団幻覚の中にいるのかと言う風な、人、人、人の嵐。前後不覚、意識は深く潜り込む一点。嬌声、目の座った男の視線の先は何処にか求めんや。


 動く達磨、稲荷、そして狛犬が独りでに闊歩する商店街。空には太陽が三つ、内一つは海にダイブする。


「やぁやぁ、巨星落つ」


「ふいね、かいね」


「どうどう、しんめいな」


「やっしやっし、どうどう」


 成程、これが祭なのだな。おい吉見、私はとんでもないところに来てしまったようだぞ。私は今、祭を外から見ているようで、祭の輪の中に入ってしまった、どうやら夜明けまで抜け出せないぞ。


「教授、まぁ、こういうことです」


「そうか、この祭か。私は提灯鮟鱇より不思議なものを見たぞ」


「いいえ、提灯鮟鱇を見てから決めてください」



 嗚呼、夜更けよ。六時から始まった謡は、住人全員の参加だ。歌声に海が盛り上がると、噴水のように提灯鮟鱇が吹き上がった。何だこれは、いや、これは提灯鮟鱇だ。いつしか自分は祭の一部となっていた。元よりそうだったのかもしれない。初め生まれた時はバラバラだった私が、吉見によって連れ戻された。気づきが私の私たるところを掻き消していく。砂の城が、波に攫われて消えていくように。



 いぇんいぇんやぁ、はいおぅ、いっさぁりいぃやぁ、おいおい……。


 口ずさむと、見ろ、提灯鮟鱇が寄ってきたぞ。大きな顔と大きな口があって、目だけが小さな顔だ。ぶら下がった房は、提灯というより幣だ。


 いんさんちん、くぇくぇ、ろんさんちん、ふぇふぇ……。


 或いは生き、或いは死に、提灯鮟鱇は空を舞う。力尽きて落ちるものは、落ち切る前に塵に戻る。やがて没入から舞い戻り、朝日が昇る。



「提灯鮟鱇は飛ぶのだね」


「当たり前だと思っていましたが、珍しい習俗かとも思いましたので」


「提灯鮟鱇が飛ぶのは珍しいね。ところで、何故コンタクトを外せと言ったんだい」


 吉見は口を大きく開けて笑った。


「何故でしょうねぇぇ」


 私には、そう言って笑う吉見が、何よりも不気味に見えた。ただ、彼は視力がいい。嗚呼、ではやはり、はっきりと見えぬ方が良かったのかもしれないね。意地を張って、つけたままにしたから私は、こうしてぷわぷわとしているんだね。



 この話を聞いた弘中は笑ったよ、だから、この夏に連れて行こうと思うんだ。

提灯鮟鱇は空を飛ぶものだ。

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