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消える足跡(17)

 ギードが目覚めたのは、地面がにわかに揺れ動いたためだった。そのときすでにアルは立ち上がっていた。顔色はまだ青い感じだったが、その回復ぶりにギードは思わず大きな声を出して喜んだ。


「嫌な感じですね」とアルはひそめて言った。

「ええ、でも地震なんてここじゃしょっちゅうありますから。それより、もう体は大丈夫なんですか?」

「ええ、少し眠ったおかげなのか、体が嘘のように軽くなりました」

「良かった……本当に良かった。俺はてっきりあのまま……」


 ギードの泣きそうな声に、アルは笑顔で答えた。

「心配かけてすみませんでした。行きましょう」


 奥から数本の道が伸び、トロッコ用のレールが走っていた。気持ちが緩んだ二人は好奇心から奥に向かって進むことにした。大きく開けた空洞に出ると、その宙空には索道が渡され滑車に垂れるロープと木製のバケツが湧き上がる蒸気に揺れていた。ギードは顔を出して下を覗くと、落ちている小石を溶岩へ投げ入れた。短く焼ける音がした。

「こいつはすげえ……落ちれば一発で死にますよ」

 ギードは興奮した様子でロープの手すりにつかまっている。凍りついていた皮膚が一気に解け、額に汗がにじんだ。するとアルがマスクと帽子をつけるように言った。


「誰かが来ます」


 壁沿いの道は溶岩流の川の上を渡す道に続いており、その先は再び坑道になっていた。そこから兜を被ったトラークが現れた。ギードは慌てふためいたが、アルはギードに堂々とするよう耳打ちした。トラークは革のリュックを背負い、剣を腰に下げ、書類を読みながら歩いている。


 アルとギードは、顔をしっかりと覆うと、伏し目がちに敬礼をしつつトラークに道を譲った。トラークは書類をみながら難しい顔でそのまま通り過ぎた。ギードは全身に汗をかきながら男爵を目で追っていた。そこから数歩でトラークは立ち止まった。

「おい、貴様ら。私が気づかないとでも思ったか?」

 トラークはめくった書類を丁寧に戻しながら言った。ギードは全身に電気が走ったように背筋が伸びて固まった。

「そんなマスクは外したらどうだ。なぜここにいる?」

 アルは観念してマスクを取ってため息をついた。

「よくわかりましたね」

「この山に管理している人間の顔はわかっているつもりだ。それに、画家というのはものをよく見るものだ。しかも、貴様のような小さい兵士はここに出入りしておらん」

 そう言われてギードはますます小さくなった。

「貴様ら、どこで兵装を手に入れた?」


 アルが黙っているのを見て、ギードは不安に顔が歪んだ。近づいてくるトラークに、ギードはとっさにあの手紙を差し出した。

「そうだ、これを!」

 トラークはギードを睨みつけながら手紙をひったくった。手紙を乱暴に開いて目を通すした。そして、ぐちゃぐちゃに丸めてポケットに突っ込んだ。ギードが恐る恐る声をかけると、トラークはさらに怒りのこもった顔を見せた。ギードは恐れおののいて小さな声で謝った。

「問題はなにも解決しておらんぞ。部外者の貴様らが、我らの公文書を預かっているとはどういうことだ?」


 アルが観念したように話し始めた。


「すみません。その手紙は山の入り口で預かりました」

「兵装は?」

「ある人にいただきました」

「誰だ?」

 アルはやにわにギードと視線を交わした。トラークが怒鳴った。

「誰にだ!」

「アニー・クロンダです」

「アニー・クロンダ、クロンダ家の? 一体どういうことだ? 聞いた話では確か首都に住んでいると話していたが……」


 トラークは思慮しながらも抜け目なく二人の一挙手一投足に目を光らせた。


「どういうことだ。何を知っている?」

「あなたがクロンダ家を排除したというのは本当ですか?」

「だとしたらどうというのだ? 貴様にはなんら関係のない話だ」


 アルが口ごもっていると、ギードが横から話し始めた。


「確かにそうです。はっきり言って関係ありませんよ。でも、まあもし仮に、仮にですよ。あなたがクロンダさんにちょっと謝ってくれれば、あっちも――」

「謝るだと? 何を? 貴様、誰に言っているのかわかっているのか!」


 トラークは烈火のごとく怒りながら、人差し指をギードの胸に突き立てて喚き散らした。ギードはその圧力に後ろに退き、山も鳴動した。


「馬鹿げたことを! ここはメナスドール公国だ。私は男爵だ。私がクロンダに謝る? ふざけたことをぬかすな!」

「落ち着いてください、トラークさん。僕らはただ――」

「誰が意見しろと言った!」


 騒ぎを聞きつけた鉱夫と兵士たちが遠巻きに坑道のあちこちから顔を出して様子をうかがっていた。しかし、激怒するトラークの迫力に誰も近づこうとはしなかった。


「貴様らが外で何をしようと構わん! 俺には関係ないからな。だが、ここで、この場所で、二度とこの俺に軽々しく意見しようとするな! しょせん貴様らは、あちこちうろついて日銭を稼ぐ根無し草にすぎん。野良犬と一緒だ。吠える野良犬がどうなるか知っているか? 野良犬は吠えると餌をもらえるとでも思っているのか? うるさい犬は始末されるだけだ!」


 地団駄を踏んで、一気にまくし立てたトラークの目つきはまさしく狂犬だった。今度は坑道すべてに響かせるように言った。


「何をしている。仕事に戻れ! 増産命令が出ているんだぞ!」


 トラークは手紙を握り締めて振り回した。鉱夫たちはモグラが頭を引っ込めるように消えていった。トラークは鼻を鳴らして向き直ると、改めてアルとギードを睨みつけた。


「貴様らには目的を白状してもらう」


 興奮したトラークは立ち止まっていることができずに二人の前を行ったり来たりしている。往復するたびに苛立ちが募っていくようだった。答えようとしない二人をもう一度怒鳴りつけた。


「さっきまでべらべらしゃべっていた意気はどこへいった?」


 何かを話そうと口を開けたギードだったが、トラークに睨まれるとうつむいたまま動けなくなってしまった。


「貴様らのような卑しい人間が考えることはひとつだ。どうせ霧燕を採るなどというのは嘘で、レフォードでここの金の噂を聞きつけやってきたのだろう」

「違います」


 アルは暑さと緊張で張り付いた喉をはがしてようやく絞りだすように言った。トラークは頭を振った。


「まず、勝手に山に入ったことは謝ります。それに、金を盗むために来たんじゃないことははっきり言っておきます。僕らは金に一切手を付けていません。どうか見逃してもらえませんか?」

「この後に及んで――。いいか、よく聞け。貴様らには助けてもらったからある程度のことを世話してやった。しかし無許可でここに入ったということは、国家の財産に手を付けたも同罪だ。それは反逆罪だぞ。メナスドールに弓を引くということだ」


 ギードは生唾を飲み込んだ。


「あの、ひとつ聞いていいですか?」と口を開いたギードの声はガラガラだった。

「言ってみろ」

「俺たちが捕まった後はどうなるのかな、なんて……」

「この場で切り捨てても構わんが、尋問してからだ。死刑でなければ、強制労働だろうな」


 ギードは思わず笑顔を見せて現実逃避したが、トラークが真剣な表情のままだったのでその笑顔はまたたく間に消え失せた。

 目をつぶってじっとしていたアルが、「トラークさん」と呼びかけたとき、山の鳴動がなって声が飲み込まれた。アルが今度は怒鳴るように言うと、トラークは睨み返した。

「なんだ。おとなしくしていろ」

「僕らは帰らなきゃならない」

「それは無理だな。自分のしたことを省みていろ」

「あなたは、なぜチカート・クロンダ村長とガレーノ・クロンダさんを殺したんですか?」

「貴様に何の関係がある?」

「僕はイジャ・クロンダさんに、あなたを殺してくれって頼まれましたよ!」

「ほう、それで私を殺しに来たのか、傭兵よ」トラークの顔は不遜に歪んだ。

「いいえ、断りました。僕はあなたにお世話になったし、そう悪い人間には思えなかったからです」


 トラークの顔に思わず侮蔑的な笑いが浮かんだ。


「教えてください。なぜクロンダさんたちを殺したんですか?」

「そんなことは貴様らになんの関係もない」

「村を乗っ取って、神聖な山をこんなに掘って金を奪うなんてひどいと思いませんか? なぜこんなことをしたんですか?」

 トラークの導火線に火がついたのか、彼のこめかみがうごめいた。

「ちょっと、ちょっとアルさん! 何を――」

 アルはギードがつかむ腕を振り払って続けた。

「おかしいですよ。そんなやり方!」


 アルはトラークに殴られて吹き飛ばされた。


「さっきの忠告を忘れたのか? ここで私に意見するな!」


 トラークはアルの胸ぐらをつかんで引き起こすと、さらに一発見舞った。それから倒れたアルの腹を思いっきり蹴り上げた。


「なぜ殺したかだと? 貴様も傭兵なら人を殺してきただろうが。仕事だからだ。国の命令だからだ。そんなこともわからんのか!」


 トラークは起き上がろうと四つん這いになったアルの顔面を踏みつける。


「僕だって……人を殺してきましたよ。でも……それでいいのかって、考えてしまうんです……。覚悟を決めているのに」


 アルが咳き込みながら言うと、トラークは呆れたように頭を振った。


「わかりません……一体なぜそんな考えが頭をもたげてくるのか。なぜそう思うのか……覚悟を決めて仕事をしても、一人で布団に入るとき考えてしまうんです。生きるためだってわかっています。僕には……この仕事しかない。こんな僕でも、必要としてくれる仕事はこれしかないんです……でも、人を殺すたびに、ヘドロが溜まっていくみたいに……」

「ガキだな。そんなものはガキのたわごとだ。貴様には覚悟も意志もないのだ。誰かに言われたことをはいはいとやっているだけ。自分でものを考えていない。ただ漫然と流されているだけだ」トラークは咳払いをしながら乱れた服を整えた。「言いたいことはそれだけか?」


 アルの顔は驚きに引きつった。


「いいだろう、教えてやる。お前たちの殺しは単なる人殺しだ。しかし、国家による殺しは正義による人殺し。いわば神の代執行だ。貴様が人を殺して、罪の意識に苛まれているのは当然だ」


「……単なる、人殺し?」

「そうだ。誰かが身勝手に貴様に人殺しを依頼し、貴様は金欲しさに受ける。貴様は依頼者になぜそいつを殺さねばならないのか訊ねたことがあるか?」

「ありますよ。金を騙しとられたとか、家族を殺されたとか……」

「普通ならその揉め事は兵たちがあたるべき仕事の範疇だ。それが傭兵たちになぜ仕事が行くということを考えたことがあるか?」


 アルの目がみるみる赤く充血していった。


「貴様らの仕事というのは結局欲でしかない」

「そんな馬鹿な……あなたに僕らの何がわかるっていうんですか!」

「私は元は鍛冶職人の息子だったが、騎士を志して一介の夜警からここまでたどり着いた。貴様ら同様に苦渋を舐めたさ。しかし耐え忍んで、人に認められてここまでになった。それに比べて貴様はどうだ。自分のしていることすらわからずに、そうして這いつくばっているではないか。やはり貴様は野良犬だ。地面を鼻でかぎながら、餌を探してうろついているだけだ」

「……クロンダさんはなぜ殺されなければならなかったんですか」アルの唇は震えていた。

「奴は国家に歯向かった。警告を無視して何度もな。処刑されて当然だ!」

「それのどこが正義なんですか!」


 トラークは膝を折ってアルの前に屈むと、その目を真っ直ぐに見据えた。


「正義はお前が決めるのでも、ましてや私が決めるのでもない。正義は国家にあり、国王が決めるのだ。お前がここでどれだけ喚こうが、それが揺らぐことはない」

 アルは地面をじっと見つめて動かなくなった。

「下らぬ問答だった。潜入のことを聞こうと思ったが、クロンダのことがわかっただけで充分だ」

トラークは手に唾を吐いて擦ると、腰から剣を抜いた。

「もう言い残すことはないな」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ!」


 ギードはアルをかばうように割って入って両手を広げた。トラークは意に介せず剣を構えた。


「もうよい。貴様らが考えなしの単なる賊だとわかった。後はこっちで調べよう。最後の情けだ。苦しまぬようにしてやる」

「ちくしょう、ふざけんなよ!」

 やぶれかぶれになったギードはトラークの顔に唾を吐きかけた。唾はトラークの顔をしかめさせた。さらにギードはその顔に砂を投げつけた。思わず顔を背けるトラークにギードは金的を見舞った。トラークの悲痛な呻き声が響いた。ギードはトラークに組み付いて馬乗りになると爪を立てて顔中を引っ掻いた。


「調子に乗るなよ、小僧!」


 トラークは拳でギードの鼻を打った。彼が怯んだその頭を両手で捉えると、頭突きを食らわせた。ギードの両鼻から鼻血が滝のように流れた。トラークは立ち上がると苛立ちながら袖で顔を拭った。ギードはそれでも短剣を抜いて構えた。


「爺さん。あんたこそ調子に乗ってんじゃねえぞ! アルさん。立ってください。こんな野郎に、勝手なこと言われたからって関係ないですよ」


「何だと!」


「あんたは成功者なんだろうよ。人生うまくいって、高みの見物をしてやがる。あんたが成功できたのは俺たちみたいなゴミみたいな人間がいるからなんだからな!」


 トラークは手で顔をぬぐいながら立ち上がった。


「あんたは弱い人間を蹴落として偉くなったんだ。他人を蹴落としたから、うまい汁が吸えるんだ。だから弱い人間に感謝すべきなんだよ!」

 トラークは心底から馬鹿にしたような顔をした。「弱くてありがとうと感謝をして欲しいとな。初めて聞いた意見だ。そして人生で聞いた中でも、もっとも愚かな意見だ」


 トラークはフクロウの鳴くような笑い声を出して胸を上下させた。「貴様は努力をしたことがあるのか? 必死に働いたことがあるのか? なにもせずになにかを得られるとでも思っているのか? 農夫は手にマメを作って耕し、日が暮れるまで腰を曲げて落ち穂を拾っているし、漁師は荒波でも潮を浴びながら網を引く。鍛冶屋は重く熱い鉄を相手に一日中槌を振るうし、商人は魔物と盗賊に襲われる危険を冒してでも、人々に物を届けるべく村々を行き来する。いいか。人は誰しも最初は弱い。だが強くなれるのだ。生きるとは強くなることだ。それこそ血のにじむ思いをしてな」


「わかってねえのは、あんただ。ジジイ! 人はな、努力なんかじゃどうしようもないことがあるんだよ! 俺だって真面目やってたころくらいあるよ。鍛冶屋で仕事してたさ。親方はな、頑固で厳しかったが面倒見のいい人で、軍にも鎧を納品してたくらい腕のいい人だった。でもな、働いても働いても生活が楽になることはなかったよ。なんでかわかるか? 戦争のせいで税金を馬鹿みてえに取りやがったからだ! その日暮らしが精一杯だったところで、肺を病んじまった。どうなったと思う? 金がねえから食べ物は買えねえわ、寒さで体の肉が腐っちまうわでさ。俺は親方が哀れで仕方なかった。国の連中に助けも頼んだよ。でも、みんな苦しいって、みんな我慢してるって言って一銭も貸してくれなかったよ。あんたら兵士や貴族ってのは国のためってかこつけて、誰も救っちゃいない。税金をがっぽりむしり取って戦争、戦争で自分の名前を上げるのに夢中になっている。それがあんたらの正体なんだよ。俺が泥棒になったのは、親方に食いもんをやるためだったんだ。なんでも知ってるような振りして決めつけやがって! 俺はな、あんたみたいな野郎が最高に大嫌いだ!」


「今度は不幸自慢か。呆れてものも言えん。まったく最近の若いものは……」


「アルさん! この爺さんに勝手なこと言われたって、俺たちの立場が良くなることなんてありません! 俺たちはやらなきゃならないんだ。約束したでしょ、ベオのおっさんとクーロちゃんのために!」


 トラークは足を広げて腰を落としギードに向かう。剣先がうなる。上段から振り下ろされた剣をなんとか受けたギードだったが、短剣は打ち砕かれ胸を縦に斬られた。トラークはギードを前蹴りで突き飛ばした。そこへ突きを放つ。それはギードの心臓を捉える直前、下からすくい上げられ、ギードの顔の横に逸れていった。


「下がっていてください!」


 アルは緊張した面持ちで肩で息をし、剣を右手に、ナイフを左手に構えていた。口の中で「やるんだ、やるんだ」と何度も反すうした。トラークの服の胸の部分が一文字に斬り裂かれて口を開けた。


「めそめそしておればいいものを!」


 トラークの上段斬りがアルを袈裟斬りに襲いかかる。アルは交差させた剣とナイフで挟みこむように受け止めた。トラークは少し驚いた顔になった。が、すぐにアルの懐に飛び込み、革ベルトからナイフを引き抜いた。アルは、横薙ぎのナイフを上体をそらしてかわし、顔を狙って突いてきたナイフを左の手のひらで受け止めた。アルの膝蹴りがトラークのみぞおちに刺さった。


「歳の割りに反応がいいですね。それに、これは私のナイフですよ。あなたも手癖が悪いんじゃありませんか」


 トラークは身をよじって膝蹴りの力を逃していた。


「さっきまで私の説教でべそかいていたと思ったら、仲間に励まされたら急に元気になるのか。一番上に塗られた色に染まる画布みたいだな。やはり貴様には自分というものがないのだな。空っぽの人間だな」


 アルの服はトラークと同じように斬り裂かれてめくれ落ち、さらには頬から血が滲んだ。


「あなたになんと言われようと,どうだってよくなりました。僕は半端な人間です。意志も思想もなく漫然としているって言われても、それでも生きていくだけです」


 トラークはナイフをアルに向けて構えた。アルは兜を脱ぐと、溶岩に投げ捨てた。それは炎を上げて直ちに燃え尽きた。


「それが最後の決心とはな。虚しい男よ」


 アルはまっすぐトラークを見据えて、大きく息を吸った。トラークは苦々しい表情になった。


 アルは地面を蹴って剣を振り上げた。トラークは堂々それを真正面から受け止めた。アルはもう一度上段から抜き胴を狙う。トラークは大股に踏ん張って受け止め弾き飛ばした。


 そこで、竜のうなり声のような音が坑内に響いた。地面が無くなったかのように縦揺れが起こった。壁に悪魔が引っ掻いたような何本も亀裂が走り、天井から拳ほどの大きさの石が落ちてきた。地震はつかの間一瞬だったが、鉱夫たちの大騒ぎが始まっていた。幾人もの男たちが次々に顔を出して叫んだ。大脱走が始まっていた。ギードはアルの腕をつかんだ。


「チャンスですよ。逃げましょう!」


 トラークがナイフを投げつける。ナイフは回転しながらアルの足元に突き刺さった。アルはトラークから目を離さなかった。


「行ってください。すぐ追いつきます」

「なに言ってんですか! やばいですって!」

 アルは血の滴る手を突き出してギードを制した。

「帰してくれそうにありません」

「おい、爺さん。これって噴火すんじゃねえのか? 危ねえって!」

「これくらいの地震なら何度もあった。山を降りるのはお前たちを始末してからだ」


 アルとトラークはほぼ同時に斬り込んだ。トラークはアルの上段を弾き、薙ぎ払った。アルは剣を立て受ける。鍔迫り合いになると、トラークはアルの左手を握った。アルは歯を食いしばりこらえるが、徐々に手を捻られた。トラークは、片膝をついたアルを押し切ろうと、上から体重を掛けた。

「どうした、傭兵。老いた画家相手に情けない」

「単なる画家が、金鉱山の管理者ですか。この山は元々イェシル村のものの聖地。それを金が出るからと横取りして、欲に目がくらんでいるのはスヴィア人の方じゃないんですか?」

「それがどうした。ここは紛うことなくメナスドール国の一部なのだ。レーゲラット民族の協力と合意によってこの鉱山は共同管理されている」

「本当にそうならね!」


 アルは体をぶつけてトラークを突き飛ばした。


「誰しも都合よく自分が正しいと正当化を図る。貴様もクロンダもそうだ」

「そのセリフはそっくりそのままあなたにお返ししますよ」

「勝手なことを!」


 アルが袈裟斬りに振り下ろす。続けてなぎ払い、さらに上段から斬りかかった。トラークは後ろに下がりつつステップを踏んで攻撃をかわした。アルはトラークの眉間を狙って剣を突いた。トラークは突き出された剣を殴るように柄を当てて、振り払った。


「霧燕の巣は手に入れたのか?」


 トラークの突きはアルの脇腹の鎖帷子を斬り裂いた。アルは前蹴りを放つと、トラークはすかさず飛びのいた。


「ええ、おかげさまで」


 トラークは笑った。「馬鹿者だな、貴様は。盗るものを盗ったならば、さっさと逃げればよいものを」

「そうしたかったんですけれどね」

「ならば判断を誤ったな」


 トラークは上段から飛び込んで来た。アルが受け止めようと剣を横にすると、トラークは剣を引いて突いた。アルは地面に飛び込むように転がった。トラークは短い脚で蹴りを放った。それはアルの腹に直撃した。アルは丸太を突き刺されたような衝撃を受けた。すぐに立ち上がったが、二、三歩後ずさり、膝をつかざるを得なかった。アルは腹を押さえると、緑色の濁った液体を吐しゃした。トラークはアルを見下ろして鼻を鳴らす。


「ひどいものを食ったようだな。ゴブリンのゲロよりひどい。だが手加減などせん。私はここの責任者として山を守る。レーゲラット族とイェシル村がこの山のおかげでどれだけ潤ったのか知る由もあるまい。寂れた漁村に過ぎなかった村が、これほど発展を遂げたのだ。村のみんなが、長く辛い冬を暖かく安全な家で過ごせるありがたさを享受できるようになったのだ。貴様には我らの偉大な功績がわかるまい」


 アルはひとしきり吐き終えると、上目遣いにトラークを睨みつけた。


「心は未熟とて、惜しい腕をしていると思ったがここまでだな」

「そんなに動けるんでしたら、あの時のラミールも助けはいらなかったんじゃありませんか」アルは立ち上がるとつばを吐いた。

「少しは顔色が良くなったか?」トラークは挑発的に笑い、額の汗を拭った。「歳のせいか寒いと体が強張っていかんものだよ。体調に波もある。しかし、獣よりは人間のほうがやりやすい」

「それは良かった」


 アルはトラークに突っ込むと薙ぎ払った。受け止められても構わず、思い切り振りぬき、激情に駆られた熊のように左右から次々と斬りかかった。トラークはアルの連続攻撃に押し切られると飛びすさり、大きくジャンプして空中に渡された索道のロープにつかまった。

「勢い任せに馬鹿振りしおって!」

 アルは胸を大きく開いて息を吸った。

「吐いたおかげですっきりしましたよ」


 アルは水筒を取り出すと口をゆすいだ。アルは水筒を洞窟の入口でかがんでいるギードに投げ渡すと、トラークにナイフを投げつけた。ナイフは真っ直ぐにトラークのつかまっているロープへ飛んで断ち切った。トラークは体を振って本道へ飛んだ。アルはタイミングを見計らって斬りかかる。トラークは受けきれず剣を飛ばされる。トラークは追撃を転がりながら避けた。そのまま四肢で這いつくばるように道の反対側まで駆け、別のロープに飛びついた。


 アルは再び胸のベルトに刺さるナイフを取った。トラークは揺れるロープを振り子に、すぐさまアルに飛びかかって突き倒した。トラークは馬乗りになってアルの顔面に拳を何度も叩き込んだ。アルは両手でガードした。トラークはガードの上からがむしゃらに殴りつけた。アルはナイフをトラークの左脇腹に深々と突き刺した。アルはそのままナイフをかき回そうと力を込めた。トラークは両手でナイフをつかむアルの手を押さえた。傷口から血が滲みトラークの顔が怒りと苦悶にゆがむ。トラークは吠えた。アルは下からトラークの顔面を殴りつけ、怯んだところを突き飛ばした。


「クソッ、本当にクソったれだな……」

「お互い様でしょう?」


 トラークは歯を食いしばってナイフを引き抜くと崖下の溶岩へ投げ捨てた。アルは手鼻で鼻血を飛ばすと、再び剣を構えた。

「画家になったということは隠居したんですよね。なのに、なぜ鉱山管理者として国に戻ったんですか?」

「そんなこと聞いてどうする」トラークは手のひらについた血を確認した。

「国ってそんなに大切なものなのかなと、思ったんです」

「国家大義のために忠誠を捧げる以上の誉れはない。私はそうやって生きてきたのだ。人にはたとえ裏切られても、捨て去っても、ついて回るものがあるのだ。私にとってはそれがこの国だったということだ」


 アルは上段斬りをいなされると、下から斬り上げた。トラークはそれを打ち払うと飛び退いて距離を取った。


「力によって人を支配する。それだけじゃないですか」


 今度は、アルが上段をフェイントにして突いた。トラークの左腕をわずかに斬り裂いた。トラークは剣を薙ぎ払ってアルを退けた。


「中と外では風景が違う」

「だとしても!」


 トラークはアルの脚を狙う。ひと振り、ふた振りをアルはジャンプでかわす。トラークはすぐに胴を突いた。アルは剣で払いのけた。アルの前蹴りがトラークの胸部を捉えた。トラークは自ら後ろに飛んだが、威力を殺しきれずに尻もちをついた。


 アルは剣で払って構え直した。トラークに切っ先を向けてゆっくりと近づいた。トラークは倒れたまま後ずさる。顎を汗が伝い胸元へ垂れた。脇腹の傷口が熱く広がる。アルはとどめを刺そうと踏み込んだ。トラークは地面に刺さっていたナイフを取ると、踏み込んできたアルの太ももに突き刺した。アルの剣はトラークの肩口に突き刺さった。トラークは引き抜こうとする剣をつかんだ。


「離せっ……!」


 トラークはそのままアルの襟首をつかんで顔面を殴りつけた。素早くアルの顎を二度、三度叩くと、アルは膝が落ちた。トラークはアルの太ももに刺さるナイフを逆手で引き抜いた。そのままアルの左目を狙った。ギードがアルの後ろから飛び出す。目をつぶったギードはトラークにぶちかました。石同士をぶつけあったような鈍い音と共に、二人は激しく頭同士をぶつけた。地面に転がったギードは頭のてっぺんから突き抜ける痛みを抑えてうめいた。トラークもうめき声を上げ、目の奥に星を見ていた。


「痛ってえ、ちくしょう……じいさん、いい加減にしやがれ!」

「邪魔を……この……クソガキどもっ!」


 アルは脚を引きずって走りだした。ギードをかわしてトラークに迫った。そして、突き上げる轟音と縦揺れ。下を流れる溶岩が贅言豊かに歌い始めたかと思うと、猛烈な熱気と蒸気が吹き上がる。大地は千人のオークの群れが怒れるように唸りを上げ、空気は怪鳥の鳴くように震える。三人のとどまる岩道にヒビが走ると、あっという間に支柱がへし折れた。ギードは悲鳴を上げながら洞窟に向かって体を投げ出し、アルとトラークは激走した。銅鑼を激しく叩くような音と共に道は崩落し、溶岩の海に飲み込まれていった。洞窟の縁でギードはアルの腕をつかまえた。ギードは引っこ抜くようにアルを持ち上げるとへたり込んだ。アルは、道がなくなり崖となった縁から下を覗いた。

 杭状に突兀する岩の影に足が見えた。巨竜の咆哮のような音が轟く。ギードは天井を仰ぎながら荒い呼吸を繰り返している。

 アルはロープを自分に括りつけるとにロープの反対側をがっしりと縛り付けた。


「トラークさんがあそこに!」

「爺さんは敵ですよ。ちょっと何を!」


 ギードの静止を振り切ってアルは崖を一気に降りていった。焼けるような熱風が吹き付け、むせ返るような濃密な蒸気が湧き上がる。頻発する地震動の間隔はどんどん短くなり、空気が震えた。アルは足を踏ん張るたびに走る鈍痛に歯を食いしばりながら体を下ろしていった。トラークは十メートルほどにできた岩壁のへこみに何とかへばりつくようにしてとどまっていた。彼はアルに気づくと拳を繰り出した。アルはトラークの拳を捕まえた。トラークはアルから拳を引き抜くと、諦めたように肩を落とした。彼の顔は青白く目の下に昏いくまが見えた。爆音の溶岩が伸び上がる。


「さあ、早く!」


 アルは怒鳴った。トラークは矜持を持った目で睨みつけていた。巨人の金床で振るわれる槌の叩くような音がして、背後に火柱が上がった。岩が崩れ溶岩の中に飛沫を上げる。地震が起こり、トラークは降り注ぐ石から頭を守り顔をしかめた。アルは無理矢理トラークに縄をかけると担いで崖を登り始めた。ロープは叫ぶような軋みを上げている。ギードはアルが一歩踏み出すタイミングでロープを引いた。ギードは崖を登ってきたアルとトラークの背中をつかんで引っ張りあげた。爆音と共に火竜の吐く息のような火柱が立ち上がり、はじけ飛ぶ岩石弾と衝撃波が三人を洞窟の奥へ吹き飛ばした。


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