消える足跡(16)
アルは意識を失った。海に飛び込んだ彼は、海流でもみくちゃにされ平衡感覚を奪われると、肺の中の空気を吐き出させられた。意識が戻ったとき、アルは黒い多孔質の岩礁に横たえられ、打ち寄せる波の砕ける音にぼんやりとしていた。靄がかりの視界に見えたのは、巨大な鳥の姿だった。鳥はすぐそばの岩場で佇み、波しぶきを浴びながらアルをじっと見つめている。アルの全身に痛みが走る。彼は反射的に瞬きをすると再び意識を失った。次にアルは海水を吐き出して目覚めた。押し寄せる波と岩場の黒い光景が遠くなった。アルは洞窟の内部にいた。背後から近づく足音がする。アルの上から巨大な鳥が顔を覗かせた。ヨタカがゲヘナの炎を見つめるような顔、煉獄を流れる河のように澱んだ瞳の周りには象徴的に炎の隈取りがされ、頭を飾る長い羽は紺碧のグラデーションに染まっている。巨大なくちばしを革のマスクが口を覆っている。開かれた口の中には、食べ物をこそげ落とすために並ぶ鋸歯が顔を覗かせていた。
「気づいたかね」
グロテスクな、丸く奇妙な目がアルをためすすがめつ見つめている。アルは起き上がろうとしたがその体は震えて力が入らなかった。それを見た鳥男は喜ばしき鳴き声で応えてみせた。
「その状態で起き上がろうとするとは、君の生命力は素晴らしいな。だが無理をしないほうがいい。起き上がることは出来ないだろう。念のため私がそのようにしておいた」
アルの首筋には赤い点が二つ付いていた。
「わかるかな。君の怪我はたいしたものではなかったよ。崖から転落して、凍てつく海に入ったにも関わらず、ほとんどかすり傷だった。君は運がいい。いや、私が運が良いのだな。材料を採りに来たら、別の材料を得ることになろうとはな。理由はよくわからないが、一命を取り留めることができて良かったじゃないか」
アルは言葉を発しようと震える舌を懸命に動かした。しかし喉を鳴らすことすらままならなかった。
「しかし不運もある。薬の持ちあわせがひとつしかないのだ。色々と試す良い機会なんだがね。ここのところは私も調合ばかりで飽き飽きしていたんだ。大型の哺乳類で実験を執り行えるチャンスはそうそうないし、行き詰まった状況に倦んでいた。せっかくの機会だというのに……」
鳥男は真緑の澄んだ液体の入った小瓶を傾けながら目をぱちくりさた。
「……いずれにしても、君に選択肢はない。私の手には薬がひとつしかないのだから」
鳥男はアルの前に屈みこんで仄暗い瞳をぎょろつかせている。瓶を小刻みに振ってから封を開けた。鳥男はアルの髪をつかんで頭を起こすと、口に瓶を突っ込んだ。瓶の中身がアルの口の中に入ったが、アルには飲み込む力がなかった。鳥男はアルの喉をつかむと強引に開けさせて、液体を飲むように仕向けた。アルの喉が動くのを確認するとその手を離した。
「さて、私は本来の仕事に戻ろう。また君とはすぐ会うことになる。どうなるかな。実に楽しみだ」
鳥男はそのまま洞窟の奥へと消えていった。アルは腹の中に熱を持ち始めると、唸り声を上げた。体が痙攣を始めた。体を起こそうとするが、無数の手につかまれているような感覚に苛まれると地べたに落ちた。全身が汗まみれになってどろどろに溶けていくような感覚になった。鳥男の軽やかな鼻歌が聞こえた。
朦朧としたアルはうつ伏せに倒れたままじっと地面を見つめ続けていた。激しい風が貝の中の音のように洞窟を響かせた。体は燃えるように熱く、全身から止めどなく汗が滲んでいる。視界も意識もぼんやりしたまま時間が過ぎていく。
間もなく鳥男が戻ってきた。鳥男はアルの前でほんの少し立ち止まった。アルは顔を動かすこともできずに視界に入るその足だけを見つめている。鳥男が外へ出ていくと、山全体を震わせる地鳴りに合わせて高らかに鳴き、大空へ飛び出した。
ギードは眉をひそめながら恐る恐る崖下に顔を出した。ロープが外れ、自分が手を離してしまったためにアルが落下した責任を感じて恐怖に苛まれていた。崖下から吹き上げる風がギードの髪を激しく乱した。止めどなく押し寄せる波はアルの一切の痕跡を飲み込んでいた。突如爆発音がしたかと思うと、大地が唸り声を上げて揺れだした。ギードは崖から離れて頭を守った。山の上から大小の岩が転げ落ちて海へ落ちていった。地震が収まるとギードは呆然と山の上を眺めた。
「やべえよ。どうしたら……」
ギードは高鳴る心臓を落ち着かせようと拳で胸を叩きながら小走りに元来た道を戻った。犬のところまで戻ると、二頭の犬は吠え出し再度地震が発生した。ギードは犬を抱きかかえると岩壁に張り付いて身を縮こませた。下山しようかと考えたが、遠くに鉱夫たちの騒ぐ声がした。ギードは周辺の様子を伺おうと震える犬を抱きながら這い出した。
ギードの場所からは人影は確認できなかった。ゆっくりと少しずつ這うように移動した。分かれ道の手前まで来ると、鉱夫の怒鳴り声がした。車輪の軋る音が聞こえると、ギードは近くの岩陰に身を隠し、壁にへばりついて自らの口を両手で押さえた。徐々に遠ざかる声にギードは岩陰から顔を出した。
「おい、早くしろ!」
忙しない声と動きを探ろうとギードはさらに身を乗り出そうとした。その肩を手がつかんだ。ギードは悲鳴を上げたが、即座に手がその口を塞いだ。
「静かに!」
アルの顔は死人のように青ざめていた。ずぶ濡れの毛皮の大半には霜が降っている。じっとしているだけでもかすかに唇は震えていたが、目の輝きだけは異常に鋭かった。アルはギードに向かって人差し指を口に当ててみせた。ギードが何度も細かくうなづき、アルは手を離した。
「生きてたんですか!」
「何とかね」
「でも、どうやって?」
「自分でも何だかよくわかりません。落ちてから気を失って、記憶が曖昧で、気がついたら洞窟に倒れていたんです」
ギードは何度もうなづいた。
「……光が見えて、それで、ここまで戻ってこられました」
「良かった、本当に無事で良かった……」ギードは鼻水をすすった。
「そうですね。それで途中でこれを」
アルはかじかむ手で袋を取り出した。
「これは……?」
「霧燕の巣です」
「これが霧燕の巣!」
袋の中に収められていたのは水浅葱から白藍に階調した糸で編んだ綿菓子のような塊で、ギードはその繊細な輝きに目を奪われた。
「運良く、その洞窟で拾いました」
「それじゃ、これはどうしましょう」
ギードはトラークへの手紙を取り出した。アルは頭が働かなかった。目をつぶると、頭を振ったが脈打つたびに鈍痛が走った。
「少し休めるところへ行きたい」
ギードはアルの体を支えながら心配そうに顔を覗き込んだ。アルの顔色が灰色がかっているのを見てギードは少しばかり臆した。そして、体の熱のなさと重さに驚いた。ギードは辺りをうかがい、必死に思考を巡らせた。ギードはアルをその場に座らせると、犬を連れに走った。戻るとすぐにアルに犬を抱かせたが、間もなく犬が震えるようになった。その状況にギードの表情も青くなっていった。
「ちょっといいですか?」
震える声でアルが言うと、ギードはすぐに飛んできて耳を近づけた。
「ここは溶岩が湧いているって言いましたよね。鉱山内部に侵入しましょう」
「俺も、俺もそれがいいと思いました! 暖を取るならこれ以上ない場所ですもん!」
アルもギードも互いに目を合わせて微笑んだ。二人はすぐに出発した。真ん中の山道を夢中で進んでいくと鉱山の入口にたどり着いた。かなり幅広にとられた入口には炎が潤沢に焚かれて赤々と内部を照らしていた。二人は迷わず中へ侵入していった。
「誰もいませんね」
ギードの小さな声が坑内に反響した。内部も外と大差のない寒さがあちこちに蔓延っている。道はいくつも分かたれていたが、二人はとにかく太い本坑道を真っ直ぐに進んでいった。奥に進む足はどんどん早くなりやがて鉄柵の扉にたどり着いた。鍵を差し込んで押すと、軋む音を立てた。扉の先を行くと辺りが暗くなっていった。大きく曲がる道を進んでいくと、一気に空気が暑くなった。何かが生まれるような泡ぶく奇妙な音が聞こえ始める。五十メートルほど進むと大きく開けた赤い空間に出た。
「ここが……溶岩地帯。暑いですね」
ギードは帽子と脱ぎ、それからシャツの首元を開いて仰いだ。道の下、十メートルほどは赤く燃える溶岩流が湧き返っている。鼻をつく硫黄の臭いがした。
「この辺で少し休みましょう」
二人は人影がないのを確認して側道に入り、くぼみの影に隠れるようにして座った。二人は目を閉じるとつかの間のまどろみに落ちた。




