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消える足跡(15)

 翌朝、食事を終えた二人は部屋で作戦会議を開いた。といっても、ギードの作戦にアルはうなづくだけだった。


「見張りになりすますのがいいんじゃないかと思いました。村の中央、村長の屋敷の東側に兵の詰所があるんです。交代の連中にはちょっとばかり眠ってもらって、俺たちが入れ替わるんです」


 それから貰った地図を確認した。最もはっきりと書かれている主坑道らしきところにチェックを入れた。


「ここが中心です。とにかくここを見失わないようにしましょう」

「わかりました」

「この主坑道から西側へ回りこむように一旦外へ出て、北側に回ります。北側からまた山の中央に向かって掘り下げられています。その先に金が出る場所があるそうです」

「霧燕の巣はどこですか?」

「その北側の山肌沿い。崖になっているところだそうです」

「わかりました。それじゃ準備をしましょう」


 二人は小屋に向かい犬ぞりに隠しておいた兵装を来た。背の低いギードには多少大きく、明るいところで改めて見ると不格好だったが、服を余計に着てごまかすしかなかった。

 早速二人は村の東側に向かった。そのすぐのところでゼブル教の僧兵とすれちがった。二人は緊張しながら僧兵の動きを注視していた。僧兵も目だけが出た完全防備の格好で、マスクから白い息が漏れ出ている。


「見回りかい? 今日はどか雪だ。大変だね」


 ゼブル教の僧兵は目元に笑い皺を作った。アルとギードは軽く右手を挙げて挨拶をして通り過ぎた。二人は角を折れて背後をうかがったが、僧兵の姿はどこかへ消えた。


「どうやらバレてないみたいです」

「良かった。兵舎へ行ってみましょう」


 兵舎は二つに分かれており、入口の詰所には五人ほどのメナスドール兵がたむろしていた。その斜向かいにはゼブル教会があり、教会内部を僧兵が歩く姿が見られた。


「このまま付いて来て下さい」


 アルはギードにそう言うと、そりで兵舎前を通り村長の屋敷の手前で南側の教会横の狭い通りに入っていった。そこで中年の太った女性にすれ違ったが、狭い通りだったので体を避けること以外に、二人にこれといった反応を示すことはなかった。住宅街の適当な角を折れて二人は立ち止まった。


「そろそろ昼ですか?」アルはギードに訊ねた。

「飯は食ったばかりでしょう。もう腹が減りましたか?」


 ギードの返答にアルは吹き出してしまった。


「冗談言ってる場合じゃありません。違いますよ。番兵の交代時間なんて朝昼晩のいずれかが相場ですから、頃合いかなと思ったんです」

「なるほど。それで確認なんですけれど、実際、交代の段になったとしてどうするんです?」

 アルは袋の中からロープを取り出してギードに渡した。

「魔法のロープですか?」

「いえ、これは狩った獲物を縛るのに使っているものです。これで縛り上げます。気絶させて適当な場所に縛って置きましょう」


 二人は来た道を戻り、兵舎の裏手にある民家の敷地に侵入し目立たない箇所に身を潜めた。アルは犬を引き寄せ毛布を被って兵舎の方向をうかがい、ギードは背後を警戒した。十分ほどすると、兵舎に動きがあった。八人の兵士がぞろぞろと出てくると彼らは村長の邸宅へと向かった。程なくして村長邸の玄関扉が開かれる。ゼブル教僧兵を六名引き連れたジアン・レドレとノリフ・トラーク・ギューベルトンが出てきた。村長と男爵は兵たちの敬礼を受けると、歩きながら返礼しそのままヴィジラント山へ向かった。レドレの一団はアルとギードの目の前を通り過ぎた。彼らは雪の中、酒場の帰りの男たちがするように賑やかしく話しながら歩いて行った。話し声が完全に消えるとアルは毛布を払いのけ、通りに出て足跡を眺めた。


「あの様子じゃ兵士の交代という訳ではなさそうですね」

「金の運び出しかもしれません」

「それにしては人数が少ないですね」

「すでに中にいる鉱夫を使うんじゃないですか?」


 アルはうなづいたが、その後どうするかを決めあぐねて立ち往生した。するとすぐ後ろからメナスドール兵に声を掛けられた。


「おい、おまえら」

 アルは思わず肩に手をかけられたのを振り払った。

「おいおい、何だよ」

「すみません。急につかむものだから」

「そうだぜ、びっくりするじゃねえか」

「俺は別に。何だよ、二人して……悪かったよ。ところで、男爵たちはもう行っちまったか?」

「ついさっき行っちまったよ」

「そうか、おまえらこんなところでサボってるんなら、ちょっとこれを男爵に持って行ってくれよ。犬ぞりもあるし、いいだろう?」


 メナスドール兵はギードに黒い筒を手渡した。


「なんだこりゃ?」

「レフォードから送られてきた文書だ。中身は今回の出荷計画数量に関することだって話だ。おっと、封蝋してあるから破るなよ。とにかく男爵宛てだから、男爵に直接渡してくれ」


 筒の継ぎ目にまたがる赤い蜜蝋の滴りが血のように見える。ギードは朝飯前の仕事だと言わんばかりにその筒を弄んだ。


「間違いなく男爵に渡すよ」

「良かった。俺はなんとなく男爵が苦手でな」

「そうなんですか?」

「一介の兵士から成り上がった人だし、腕は立つってわかるんだが、昔気質の人だろう? 俺にはどうもね。わかるだろう?」

「ああ、まあそうかもな」とギードがさもありなんとうなづいた。

「だよな。ちょっと緊張するっていうか、そういうことだよ。あんまり人に言うなよな」

「わかってるって」

「よし、じゃあ頼んだぜ。さて、俺は飯に行くとするか」

「何、俺たちを使いっぱしりにして自分だけ飯だと?」


 ギードは手にしていた筒でメナスドール兵の胸を小突いた。


「夜番でずっと山で採掘してたんだぜ。これくらいいいだろう?」

「それは大変だったな」

「本当だよ。それにも書いてあるだろうけど、急な増産に対応するのは結局現場の人間だしよ。これで俸給が上がるわけでもないんだぜ? 勘弁しろよって。鉱山の中は溶岩のせいで熱くてたまらんし、外に出ればこの寒さ。体がおかしくなっちまうよ」

「ああ、全くだ」


 メナスドール兵はそういうギードの胸を拳で叩き返した。


「でも実を言うと、俺はあのふらっと来る感じが好きなんだよ。ちょっと気持ちよくないか?」

「さあ、どうだろうな」


 ギードはごまかすように引きつった笑いをしてアルに振った。アルも首を傾げてみせた。そんな二人に、メナスドール兵はがっくりとした。


「まあ、いいや。とにかく俺は飯に行くから、それを頼んだぜ」

「おう、任せとけ」


 ギードは気を取り直して明るく答えた。メナスドール兵はふらっと手を振りながら去って行った。


「ちょっと不用意でした」

「でも、思いがけず、これを手に入れちまいました。使えませんか?」

「そうですね。これで堂々と侵入できるかも知れません」


 二人は一瞬の吹雪に顔を覆ったが、すぐさま顔を見合わせてほくそ笑んだ。村を抜けてヴィジラント山へ向かう上り道に残されたレドレたちの行跡をたどる。スキーをハの字に開いて進むギードをアルの犬ぞりが追った。ヴィジラント山へ渡る手前に建てられた警備兵の詰所は、村長の邸宅よりは一回り小さいものの、三階建ての堅牢な石造りの建物で一般兵の詰所としては充分過ぎるほどしっかりしたものだった。周辺は石の土台に鉄柵がそびえ、犬連れの警備兵が三、四人うろうろとしている。アルとギードは詰所に至るまでに数人の兵士とすれ違ったが、気楽な挨拶を交換するだけで、正体が暴露されることも疑いを持たれることもなかった。


 ヴィジラント山へ通ずる道は柵で止められていた。二人はその手前にある小さな詰所の窓ガラスから中を覗いた。兵士が二人でカードゲームに興じていた。アルが窓を叩くと、兵士のひとりがやってきた。


「どうした?」

「男爵はもう山に入りましたか?」

「ああ、今日は搬出日だからな」

「レフォードから手紙を預かってきたんです。行ってもいいですか?」


 アルはギードの手の黒い筒を指差した。


「それはもちろん構わないが、預かっておこうか?」

「いや、直接渡せって言われてさあ。通してもらえるか?」ギードはそれをこれみよがしに振っている。

「何だおまえ、小さいな。どこの出身だ。ラシュ族か?」


 兵士がゲラゲラ笑い出したので、もうひとりの兵士が奥からやってきた。


「何があった?」

「見てみろよ。小さ過ぎて制服が合ってねえ」


 最初の兵士がギードを指差して再び笑うと、後の兵士もつられて吹き出した。


「てめえ、笑いすぎだ!」ギードは憤慨するが、二人の笑いは収まらなかった。

「悪い悪い。でも笑えるぜ」最初の兵士は笑いすぎて涙を拭った。

「クソッ、男爵だってチビじゃねえか!」


 ギードがそう行った途端に後の兵士の表情が変わった。


「おい、おまえ。男爵になんて口を利きやがる?」

「そうだぞ、滅多なこと言うもんじゃねえ」


「すみません、こいつも興奮してつい」アルは執り成そうと謝ったが、ギードはふてくされていた。

「男爵にそんな口を利いてみろ。おまえら二人とも真っ二つだぞ」後の兵士は若干の興奮が見られた。

「あの人は、そんなに強いんですか?」

「当たり前だろう。腕っぷしひとつでのし上がった一代貴族だぞ」

「すみません。僕ら新人なもので」

「新人ったって、レマグナ戦役くらい知っているだろう?」

「レマグナ戦役?」

「常識だろうが、北壁のだ」


 先の兵士が補足した。アルはギードに助けを求めた。


「北壁のな。知ってるよ。当たり前だろう」ギードが吹雪にかき消されないように大きな声で答えた。「スメイアのヘインズワース軍三万に対してこっちは二万四千。レマグナの谷に軍を構えて二年半に渡って戦争を繰り返したんだよ」


「そうだ。その間に三度押し込まれたが、レマグナ山中の叢林でヘインズワース軍を撃退したのがジャンレット・モーラン侯爵の軍勢。その配下にギューベルトン男爵がいたのさ。山中の戦闘では右に出るものはいない。あの小さな体でムササビのように木から木へ飛び回って急襲する。”血まみれ梟”だとか”黄金の蚤”だとか言われてる。森の中をスメイア兵の血で真っ赤にして回ったらしい」


「ラシュ族狩りの雪崩乗りも知っているだろう?」

「ああ、もちろん」ギードは相手を乗せるように言った。

「キーンヒル山を猛吹雪のなか夜通しの強行軍で反対側の中腹まで行ったんだ。翌日の天候は晴れ。急激に気温が上昇すると雪崩が起こると読んだ男爵は、火薬を仕込んで雪崩を誘発した。発生と同時に男爵たちもスキーで滑走して、ラシュ族を急襲。二十人で百人を超えるラシュ族を殲滅したんだ」


「雪崩に乗るなんて、俺にはそんな自殺行為は無理だね」

「誰だってそうだ」

「でも、貴族になるほど武勲を上げた後、悠々自適になったと思ったら今度は金山発見だぜ。こんなこと言ったら怒られるんだろうけど、実力も運も持ちすぎだぜ」

「いや、実際そうだと思うぞ。ちょっとは俺たちもご相伴にあずかりたいよ」

「イェシル村の建物は金のおかげじゃねえのか?」

「そうだが、それだけだ。中では朝から晩までがっつり作業してるが、採掘量管理がガチガチなんだぜ。律儀すぎるんだ。中の奴らは、うるさく言われ過ぎてうんざりしてるってよ」

「そりゃ平民から貴族になった人だ。上から睨まれないようにしてるんだろうぜ」

「男爵はもういい年だろう。あっちの方にしても、なあ? それに奥さんを見たことあるか? すげえ美人だったんだぜ」

「ああ、もちろんだとも。男爵夫人はモーラン侯爵のいとこだからな」

「そうだったのか?」

「おまえ、知らなかったのか? 有名だぞ」

「若い嫁さんをもらうってのも大変なことだな」


 兵士二人の話が延々と続いていく。


「男爵の英雄譚はともかく、その男爵にお届け物があるんだよ。行っていいかい?」ギードは両腕を抱えて寒さに震える演技をしてみせた。

「ああ、そうだったな。ちょっと待ってろ」


 先の兵士が上着を着込んで外に出てくると、「寒いな」と体を震わせた。兵士は愚痴りながら鉄柵の扉に鍵を差し込んだ。鍵が外れるとアルとギードも手伝って扉を開いた。ヴィジラント山へ伸びる一本道は幅十メートル、長さ一キロメートルほど。高さは三十メートルほどで、崖下に伸びる橋脚は補強工事が進められていた。道の両側には詰所周りと同じような二メートルほどの高さの鉄柵欄干が備えられていたが、吹き付ける潮によって至るところが赤茶け錆び付いていた。強風が吹き付けるたびに、アルもギードも滑るように体がずらされた。


「これは……きついですね」


 アルはつぶやくように言い、ギードの背中には届かなかった。ヴィジラント山の津波のようにそびえる岩肌が迫る。


「さっきは助かりました」


 今度は、アルはギードに近づいて言った。


「なにがです?」

「レマグナ戦役のことです」

「ああ、さっきの。むしろ知らないってことにちょっと驚きましたよ」

「すみません」

「別に謝るようなことじゃないですけどね」ギードは恥ずかしがるアルを見て笑った。


「スメイアとメナスドールの戦争の原因ってなんだったんですか?」

「そりゃ焔芯ですよ」

「焔芯?」

「焔芯も知らないんですか? 熱くて火の出る石です。でも、採掘量が少ないですし、全部国が完全に管理してますから、他所の国の人は知らなくても仕方ないか……」

「そんなものがあるんですか。それじゃあ冬を越すために必須なものですね」

「平民にはほとんど出回りませんよ。実際、俺も実物を拝んだことがありませんからね」

「その石を欲しくてスメイアが攻めてきたんですね。でもスメイアでは必要なさそうですけれど」

「それは俺に言われても知りませんよ。そう言われているって話でね。ちょうど北壁の北側に鉱山があります。その前には十字路みたいに谷があって、北壁は南、西、東の三つがあるんです」


「他にルートは?」


「北側からは険しくて難しいですね。西も行けますが、東か南側が楽みたいですよ」

「なるほど」


 たどり着いた二人はあらためてその巨岩壁の壮大さに息を呑んだ。そのすぐ手前にある山側の詰所に向かって手を振った。詰所から漏れる光が揺れると中から兵士が二人出てきた。村側と同じ鉄柵の扉が開かれる。


「予定にないが何かあったのか?」


 兵士の口から漏れる真っ白い長い息は出たかと思うとすぐに風にさらわれていった。


「男爵へ手紙を預かってきたんだ。何だか急ぎみたいでな。どこへ行ったかわかるか?」


 ギードは懐から黒い筒を少しだけ見せながらそれを叩いた。


「今日は搬出日だから主坑道に行ってるだろう」

「そうか。何せ俺たちは配属されたばっかりでよ、まだここらがわからねえんだよ」

「ちょっと来い」


 兵士らはアルとギードを詰所に呼んだ。詰所の中は絶えず焚かれている暖炉の炎によって暖かかった。壁際にはずらっと兵士たちの装備や衣服が置かれていて雑然としている。手前にあるテーブルには飲みかけの茶の入ったカップがいくつかならんでいる。こちらの休憩中の兵士も奥のテーブルでカードをしている。また本を読んでいたり、ヤスリで爪とぎをしているものもいる。アルとギードは手前のテーブルで待つように言われた。兵士のひとりがすぐそばの棚にあった地図を持ってそこへ広げた。


「今はここにいる」


 ヴィジラント山の地図が広げられると、兵士は地図を指で叩いた。山の道は三本に分かれており、北側へ続く道は一番右手の道だった。山肌を登りながら洞窟を二つ抜けると北東部に出る。そこからは徐々に下りながら北側に抜けていく。


「ほとんど一本道だから迷うことはないだろう」


 二枚目の地図が出されると坑道が複雑に入り組んでいることがわかった。主坑道から入って溶岩地帯に向かうまでに分かれ道が十本以上あり、そのうちの半数は主坑道に戻る道があったが、もう半数は外に出るか行き止まりだった。


「中も結局は太い道が奥まで続いているから、迷ったら太い道を行け」

「そういうことなら簡単だ」


 ギードは気安く答えた。


「霧燕っていうのがいるって聞きましたが、どこで見られるんですか?」

「霧燕? それなら山の真北だ。波に削られた崖になっているんだが、そこに巣を作っているらしい。俺たちも行ったことはないよ。鉄柵で閉まっているしな」


「そうなんですか」

「見たってしょうがねえだろう。鳥なんて」


 兵士は地図を棚にしまいながら言った。アルとギードは兵士に礼を言って外へ出た。二人がそれぞれそりとスキーを準備していると、その兵士が顔を出した。


「待っていれば男爵は戻ってくるぜ。どうする?」

「急ぎだって言われたので届けますよ。ありがとう」

「それじゃ鍵を渡しておくよ。開けたらちゃんと閉めてくれよ。終わったら帰りに返してくれ。気をつけてな」



 アルは鍵束を受け取ると犬ぞりを走らせた。真っ直ぐに洞窟のような入口に入る。黒く険しい岩壁に青く澄んだ氷が層を作り外部からの僅かな光を貪欲に反射している。雪のない氷の足元に犬二頭は滑りながら進む。ギードは慣性を利用して快走していくと、アルはギードを呼び止めた。その声は氷壁に延々と増幅されてこだまするように反響した。


「どうしました?」

「ここからは慎重に進みましょう」

 ギードは手綱を持つ手を持ち直した。

「もっともです。絶対燕の巣を持って帰りましょう!」


 洞窟を抜けると山道に出た。目の前の光景が一瞬真っ白になる。上から吹き下ろす風は奈落へ引きずり込む亡者らの腕のように吹き付ける。岩壁にも崖側にも杭が打ち込まれ太い縄が張られていた。中ほどの杭は外側に傾いている。ひとつ目のトンネルを抜け、ふたつ目のトンネルに入る。アルはトンネルの出口から空を眺めた。明るい灰色に染め上げられた空に低い煙のような白雲が南東に向かって流されていく。チラチラと舞い散る粉雪がどこかへ消える。さらに進み急坂に差し掛かったところで男たちの声が響いた。ギードはアルを振り返って指示を仰いだ。アルは前を指差してそのまま犬ぞりを進めた。山のめぐる道を登って行くと掛け声が近づく。


「ちょっとどいてくれ!」


 先頭の男がギードとアルに大きく手を振った。二人は崖側に寄るとロープをしっかりとつかんだ。掛け声がかけられる。


「ゆっくりな!」


 吠える声で先頭の男は指示を出した。そりの前に二人の人間が配置され、そりが落ちていかないように押さえている。荷台には帆布でカバーが張られて中が見えないようになっている。鉱夫たちは掛け声に合わせてそりを進める。彼らはアルとギードとすれ違うが、二人にはほとんど興味を示さなかった。誰も話しかけようとせず、何人かがちらと二人をうかがっただけだった。


「金の運び出しですね」


 ギードは生唾を飲み込んだ。思わず口角が上がり、顔に欲が漏れた。


「こっちには関心がないみたいですね。このまま早く行きましょう」


 ギードが金の行方に立ち止まる横を、アルはそりに足をかけると逆足で蹴って追い抜かした。二人は三本の分かれ道にたどり着く。左と真ん中は洞窟の中へ、右はそのまま山道が続く。真ん中が一番太い道だった。


「こっちですね」


 アルは山道を選んだ。


「え、こっちなんじゃないですか?」ギードは真ん中の道を示した。

「霧燕が先ですよ。そっちは恐らく金鉱に続く道です」


 山道は急激に幅が狭くなった。断崖をくり抜いて作った細い道になると犬の足が震えて動かなくなった。岩壁の少し大きな窪みの箇所に行き着くと、アルはロープを肩に担いで、犬とそりをそこへ待機させた。ギードもスキーを脱いでそりに置いた。


「急ぎましょう」


 アルは大きく息を吸っては吐いた。肺に入る空気は厚手のマスクを通していても胸を冷えた鉄棒が貫くようだ。アルは念の為にギードに訊ねた。


「待っていてもいいですよ」

「いえ、行きます。大丈夫です」


 二人は壁面にたゆたうロープをがしとつかんで一歩々々慎重に足を運んだ。崖下には氷塊がはびこる。点々と北に見える島々はヴィジラント山と同じ黒く険しい木々のまばらな小島だったが、それでも岩場には白い鳥が風読みをするように翼を広げて空中に静止している。遠い蒼黒の白波には魔獣の慟哭のような哀しみが轟く。道幅が広がり、垂直にえぐれた崖にたどり着くとアルは立ち止まった。霧燕らしき鳥は見当たらなかった。


「……ここがストゥアルトの断崖……霧燕を見たことはありますか?」

「いいえ、話に聞いただけです」


 アルは吹き付ける風を手で防ぎながら崖に近づいた。膝をついて下を覗く。重く激しい波の砕ける音と波の泡の消えゆく淡い音が山のそびえるのに響かせる。とどまることのない自然の協奏がアルに底の見えない穴をのぞくような恐怖を覚えさせた。アルはギードの元へ戻った。


「それらしいのは見当たりません」

 今度は二人で崖を覗き込んだ。

「ここじゃないんじゃないですか?」

 二人は道の先を探ったが、そこより先に道はなかった。アルは魔法のロープを体に結び始めた。

「どうする気ですか?」

「崖の下に降ります」


 アルは岩壁の杭にロープを結ぶと何度か力いっぱい引っ張って強度を確認した。


「ロープが絡まなように送り出して下さい。行ってきます」

「気をつけてくださいよ」


 アルは崖の縁に足をかけてロープに体重をあずけた。落ちる小石はあっという間に消えてしまった。凍った岩壁に滑る足元を、巌の削れたすき間に差し込むように置いていく。百メートルを超える崖へアルは歩み始めた。最初の数メートルはゆっくりと慎重を期して進んだが、コツをつかみ出すと十メートルほどをテンポ良くするすると降りていった。


「いましたか?」

 ギードは風に目を細めながら叫んだ。アルは周囲を見回す。

「何もいません!」


 アルは次の十メートル降りて同じように周囲を見回した。崖の鋭い断面には白く霜がへばりついている。その奥に見える黒い岩壁は深い暗闇を湛えている。さらに十メートル、次の十メートルと進んだところでアルは横に移動を始めた。縦に走る亀裂の線に足を踏ん張る。風の音が鳴くのうるさいはずなのに、ロープの軋る虫の声のような音のほうが大きく感じた。ギードは何度も上から声をかけてくる。そのたびに何もいない、と同じ返事を返した。。さらに下へと降りていく。崖の半分の高さへ到着するが、霧燕の気配はなかった。アルは左右に移動しようとしたがロープが引っかかった。そこで跳ねる蜘蛛のように岩壁を蹴った。上から岩の欠片が落ちる。アルは跳ぶようにして移動して崖のすき間を探っていく。手を岩壁に添わせるたびに、暗がりの影に潜む冷気が指先の熱が奪っていく。手が震え始める。アルはロープにぶら下がったまま後ろを振り返った。群島の白い鳥もいなくなって、風と海だけが渦巻く灰黒い光景が広がっていた。


「一度戻ります!」


 滑る足元に気をつけながら勢いをつけてロープをたぐっていく。足幅ひとつ分の足場を見つけて休みながら、下りる倍以上の時間を費やして上を目指した。残り二十メートルの地点で白い息を吐きながら休憩しているとアルは上を見上げた。墨割り雲の灰色が西から東へ急速に流れている。雷らしき光が白く辺りを照らし、雨のつぶやきがアルのまぶたに落ちた。瞬きをして目を拭うとアルは再び上空を見た。ギードの心配そうな顔がアルを見つめている。その背後に白い影の一瞬の閃きを見た。アルは瞬きをして目を凝らすとギードの顔がぼやけた。彗星の尾のように白い影が空に走る。体中に白い霧を身にまとった小型の鳥が縦横無尽に弧を描く。


「霧燕だ!」


 アルがそう叫んだ時、体に衝撃が走った。魔法のロープのテンションがふわっと緩んだ。ギードは驚いて背後を見ている。ロープの結んだ先端と杭がヘビがのたうつようにして崖下へ向かって吹っ飛んだ。勢いよく飛んでくる杭からギードは両手で頭を守った。バランスを崩したアルは足を踏み外した。アルは両手を泳ぐように空中をかいた。脇を通り抜けるロープをつかみ取ると同時に胸の革ベルトからナイフを取り出した。アルは目の前を通り過ぎる岩肌にナイフを思い切り突き刺した。だがナイフは柄の部分からへし折れて岩壁に弾かれた。アルはもう一本取り出したが、手を滑らせてナイフは宙を舞う。両手でロープを輪に構えると岩に叩きつけるように何度も振るった。ロープが崖の出っ張りに引っかかる。アルの両腕を自身の体重と落下速度の衝撃が襲った。岩が砕け、破片がアルの顔に当たる。アルは背中を引っ張られ体勢を崩すと、崖下に消えた。

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