消える足跡(14)
「これからどうするつもりだ?」
吹雪が強く吹き付けてトラークの声は切れ切れになっていた。アルは腕で顔を隠しながら身をかがめて歩いていた。その時、地面の奥深くで一瞬何かが爆発するような音を感じて立ち止まった。
「今のは?」
「地震だろう。たまにあることだ」
アルはすぐにトラークに追いついた。
「別の方法を考えますよ」
「霧燕はあきらめなさい」
二人は強く吹き付ける風に身をすくめた。
「魔女に会うためといっても、別の方法もあるはずだ。魔女が実際にいればの話だが」
アルは何とも答えられずにいた。そしてそのまま二人は宿に急いだ。宿に帰るとクリームシチューの匂いが漂っていた。
「あら、タイミングがいいわね。ちょうどでき上がったのよ」
ギードはすでにテーブルに着いており、夕飯を待ち構えていた。トラークは夕飯に誘われたものの、別の用事があると断った。
「天気も良くないし、泊まっていけばいいのに」
「そうですよ。それに聞きたいこともありますし」
「なんだ?」
「トラークさんは貴族だったんですか?」
「あら、そうよ。ギューベルトン男爵なんて呼ばれてね」ノラーナはもったいぶって言った。
「止めてくれ。そう大したものじゃない」
「何かあったんですか?」
「何もない」
「あら、でも――」
「止めろと言っているんだ」
「はいはい」ノラーナはいたずらっぽく笑った。
「さて、もう戻る。やるべきことがあるんだ」
「あら、また芸術?」
トラークは胸を張って自慢気に鼻を鳴らした。
「ああ、そうだ。インスピレーションが降りてきたぞ。すぐにでも仕事に取り掛かりたい」
「今度はどんなものを描くの?」
「それは未だ言えない。楽しみにしておいてくれ」
トラークはアルをねぎらった。
「まあ、あんたにとっては残念だろうが、私の言ったとおりになったろう?」
「村長に会わせていただいただけでありがたいですよ」
トラークはうなづいた。
「それじゃあ、元気でな」
「ええ、ありがとうございました」
「おい、ギードと言ったか。おまえさんもな」
ギードは口にしたパンを食みながら牛のような返事をして手を上げた。トラークは気の抜けた笑いを見せて出て行った。すぐに夕食になり、アルはギードに村長との会談について話をしたが、ギードは「でしょうね」とそっけない返事をするだけだった。アルは夕食を終えて部屋に戻ると、することもなく窓の外の暗闇を見つめる。やがてまぶたに重みを感じるとろうそくの火を吹き消してベッドに潜り込んだ。
真夜中になっても風の弱まる気配はなく、ガラスのがたつき音が続いていた。宿屋内の明かりはほとんど落とされ寝静まっている。アルは廊下を歩く音のない気配に目を覚ました。気配はアルの部屋のドアに手を掛けた。アルは布団の下でナイフを手にして目をつぶっている。音無く押し開けれたドアのすき間から気配が滑りこんで来る。それはアルのベッドに音を立てないように一歩々々慎重に足を運んだ。ベッドの傍らで動きが止まると、影の手は伸ばされた。その手はアルに触れる寸前に捕らえられた。アルはそのまま関節をきめるとナイフを押し当てた。
「俺ですよ、俺!」
低く抑えた声で必死に痛みを訴えたのはギードだった。アルは呆れた様子でギードを突き飛ばすようにして解放した。
「何を……」
ギードは咄嗟にアルの口を塞ごうとしたが、アルは軽くかわした。ギードはベッドに突っ伏したが、すぐさま人差し指を口に当てて必死に声を落とすように言った。アルは両手を広げて頭を振る。
「一体何をしているんですか?」
「説明は後です。行きましょう」
アルはため息をつくと、寒さに体を震わせた。ギードは歯を見せて笑顔を見せると、窓を開けて用意していたロープを外に垂らした。二三度引っ張って、フックにしっかりと結ばれているのを確認すると下に降りていった。アルは仕方なしにギードに続いた。ギードはアルを待って走りだした。一旦、南へ向かって村を出た。森に少し入ったところに犬ぞりが用意してあっり、人の気配に気づいた犬が喜びに吠えた。
「どこへ行くのか教えてくれませんか?」怪訝な面持ちでアルは言った。
「行けばわかりますから」
ギードはスキーを履いた。そして木に繋いであったロープをナイフで切り離すと、犬が走りだした。村を左手に捉えつつ東に向かう。犬は吹雪をものともせずにそりを引いていく。イェシル村の姿は消えて、二人は森の暗闇の奥に進んでいく。光の点が揺れるのを見つけたギードはアルに指差した。アルは後ろ足でそりを蹴って加速した。徐々に大きくなる光点は、鬼火のように揺れる。ギードが手を挙げて止まった。ギードが指笛を短く三回吹いた。少しの間をおいて、再び繰り返した。光の方から短く二回返事が響いた。ランタンの光に怯えるような二つの目が浮かび上がる。
「……つけられてない?」
若い女はアルとギードの後ろをしきりに照らしながら言った。
「この天気だ、大丈夫だろう」
女はうなづいて二人を森の奥へと先導した。乱れる吐息が吐き出されるたびに吹き付ける風がさらっていく。突如出現したのは木のすき間に朽ち果てたあばら屋で、女は中へ入るように促した。かつては台所横の貯蔵庫だった箇所に入ると板べりをどかした。その下には小さな穴があり、女は奥から火かき棒を取り出してその穴に引っ掛けた。アルとギードは持ち上げられた床蓋を両手で持ち上げた。女が地下へのはしごを下りる。ギードとアルが続き蓋が閉められる。女は少し安心したのか一息ついた。彼女の顔も手も黒く汚れており、そこにさらに真っ黒い瞳が取り憑いている。草土色のローブは重々しい。彼女はアニーと名乗った。
「ここは?」
地下道は寒さはましだったが、狭く湿気ており時々かがまなければ進めない箇所があった。壁を触るとじっとりとした冷たい汗をかいていた。
「私たちの家よ」
いくつかの分かれ道を進むと道幅が広がり、壁にろうそくが掛けられて明るさが増した。洞窟の息苦しさから幾ばくか開放され、かすかに風の抜ける冷たさを感じた。
「私よ、アニーよ」
アニーは後ろの二人を振り返ってうなづくと、また歩き出した。八本の分かれ道にたどり着くと、左から二番目の道に入っていった。その最奥には細木を組んだ扉があり、それを開けると部屋のような空間になっていた。壁には粗末な棚が並び、欠けた食器類やたたまれた衣類が置かれている。ゴザの敷かれた地面にひとりの老婆が寝転んでおり、アニーが老婆を抱き起こした。
「お婆ちゃん、連れてきたわ」
老婆は目をこすって起き上がると、アニーから水差しを受け取って喉を潤した。
「この婆さんが前の村長のお母さんだ。それでそっちのアニーは村長の娘」ギードが紹介した。
「イジャ・クロンダだ」
「アルと言います。こんばんは。その、お休みのところを申し訳ありません」
「ここじゃ昼も夜もわからないから構うことはないよ」
イジャは笑ってから、もう一口水を飲んだ。
「それともうひとつ。実は、ここに連れてこられた目的をまだ聞いていないんです」
「まあ、突っ立ってないで座りなさい」
アルは促されるままにゴザの上にあぐらをかいた。膝を突き合わせて見るイジャはくたびれて古ぼけた人形のようだった。
「あんたは霧燕の巣が欲しいんだって?」
「ええ、そうです」
「それじゃあ巣をやる。代わりに仕事をお願いしたい」
アルはギードを見た。ギードはイジャに続けるように言った。
「そうだね、最初から話さなきゃいけないだろう。始まりは今から七年ほど前。それまで、イェシル村は私らレーゲラット族の住む何の変哲もない漁村に過ぎず、場所も今よりも西に下った海辺にあった。村長をしていたうちの息子のガレーノ・クロンダとうちの旦那のチカート・クロンダ、それとゼブルの導師オールヴト・レドレ他数名でヴィジラント山に霧燕の巣を採りに入った時のことだ」
「霧燕の巣を採りに? ああ、それでヴィジラント山が噴火したんですよね?」
「ああ、噴火した。よく知っているね」
「ちょうど今日聞きました。そのせいで入山規制をするようになったんですよね?」
「ヴィジラント山の噴火は度々起こってきた話で、霧燕がその原因になるなんてことは、私らからするとおかしな話にしか聞こえない」
「どういうことですか?」
「最後までお聞き。霧燕の巣はゼブルの教えにおいて神事に用いる重要なもののひとつだ。毎年それを採りに山へ入るんだが、その時は山に入って二日後、山の中腹に差し掛かったところで山が火を噴いた。溶岩が山の南側、つまりこちら側に大量に流れたおかげで逃げられなくなってしまった。一行は洞窟に避難した。そこは噴火の衝撃によって新たにできた洞窟で、奥に入って行くとそこで金鉱脈を発見した。一行は幸運がもたらされたと喜んだ。だが、そこから村は狂っていった。いや、人が狂ったのか。とにかく金は、富と別の問題をもたらした。うちの旦那はあくまで村のために秘密裡に動くべきだと言ったが、オールヴトはメナスドールでのレーゲラット族の地位向上を図るため、スヴィア人と手を組むべきだと主張した。反対を叫ぶチカートが邪魔になったオールヴトは、レフォードに助け舟を求めた。大公ガリウスの右腕で、ジャンレット・モーラン侯爵とかいう男さ。そいつは直属の配下のノフリ・トラーク・ギューベルトン男爵を遣わした。軍の一団と共にね。メナスドール軍がイェシル村に入ると反対派は急速に支持を失った。みんな怖いのさ。がっしりと鎧で固めて、武器を持った連中にかないっこないってね。それに気を良くしたオールヴトは金鉱の実地調査を実行した。チカートは飛び出していったよ。勝手は許さないってね」
「止めなかったんですか?」
「止めたさ。止めたとも! 行くなと言ったさ。でも行ってしまった。気づいたらいなくなっていたんだ! 何度後悔したか。なぜ縛ってでも止めなかったのかと!」
アニーは大声を上げて咳込むイジャの背中を抱いてさすってやった。アルは謝った。
「大丈夫、大丈夫だよ……。チカートは数人の仲間を連れて、山の入り口の前で待ち構えていた。私たちが向かうと、揉み合いになっていたよ。それからはあっという間さ。チカートら男たちは崖に突き落とされて海の藻屑。それに怒って向かっていったガレーノは、ギューベルトンに剣で突き殺され、崖に捨てられた。そんなことってあるかい? 私は泣くことしかできなかったよ」
イジャは自然と溢れ出る涙を拭った。
「そうしてオールヴトは、村を今の位置へ移転した。反対するものはいなくなっていたよ。ヴィジラント山は開発されて、ゼブルの教えはゼブル教と名前を変えられた。なにもかもスヴィア人のものになってしまった。それから、子どものいなかったオールヴトは、ギューベルトンの紹介でジアン・ケラーニという男を養子にした」
「今の村長ですね」
「そうだ。今の村はもうイェシル村ではない。村はスヴィア人に乗っ取られた。イェシル村は死んだ」
「……ひとついいですか? あなたのお孫さんのイミク。彼は村にいましたよ」
「祖父も父親も奴らに殺されたというのに……金に目がくらんで魂を売った馬鹿者だ」
イジャは水を飲み干すと、アニーにおかわりを持ってくるように言った。
「およその話はわかりました。仕事の依頼とは?」
「オールヴト、ジアン・レドレとギューベルトンの三人を始末しておくれ」
アルは息が詰まり押し黙った。
「どうかしたか?」
「……別の方法はありませんか?」
「私らの望みは村を取り戻すことだ。そのためには、奴らを排除せねばならん」
「ギューベルトン男爵はたしかにどこかとっつきにくいところがあります。でも僕はあの人に良くしてもらったんです。それを殺すだなんてできません。別の方法を一緒に考えませんか?」
「あの男が人助けだと? 気まぐれで誰かを助けたとて、それが何だというのか。そんなことで私らの恨みは消えはせん」
「それはそうかも知れません。あなた方には同情します」
「あんたが断るというのなら、もう出て行ってくれ。私らに構うな」
アルとギードは仕方なくアニーと共に外へ出た。アルはそこでアニーに謝った。
「別にいいよ。仕方ないことだし。それに奴らを暗殺なんてできっこない。兵士たちがたくさんいて警戒しているから」
「別の方法を探すべきです。絶対に何かあるはずですから」
アニーは首を振った。
「母さんはそんなこと考えられないんだと思う。恨みが深すぎて」
そこに吹く風はかつてないほどに凍てついて、立ちすくむ三人を凍えさせた。
「……ちょっと待っててよ」
アニーは一旦地下へ戻ると、大きな木箱を抱えて帰ってきた。
「これは?」
「メナスドール兵の装備だよ」
「どういうことですか?」
「残りがあるからまだ待ってて」
アニーの運んできた木箱の中には水色のチュニックと鎧一式が揃えられていた。
「兄さんに頼んで貰っておいたものなんだ。母さんの依頼を受けてくれる人に渡すつもりのものだけど、あんたたちにあげるよ」
「どうしてですか?」
「さっきも言ったでしょ。私は始めっから暗殺なんて無理だと思ってる。こんなところにやってくる人なんていないと思っていたし、来たとしても私たちなんかのために危険をおかしてくれる奇特な人なんているわけないって思っていたから」
「すみません」とアルは下を向いた。
「謝らなくていいよ。それに、私はそもそもあいつらを殺して欲しいなんて思っていないしね。静かに暮らせればそれでいいの。仕方ないって思っている。力がないんだから。だからそれは持って行ってよ。おばあちゃんには上手くごまかしておくから大丈夫」
アルは寒さに凍えながら礼を言った。彼は兵装に着替えながら訊ねた。
「ここではどうやって暮らしているんですか?」
「ここにはいる人たちは、みんなおじいちゃんやおばあちゃんを支えてくれ続けた人たちで、新しいイェシル村に反対の人たち。みんなで協力して、狩りをしたりして暮らしているわ」
上着を一枚脱いだだけでもアルは凍り付きそうな感覚に襲われた。
「あとは、私のお兄ちゃんがこっそり色々なものを流してくれるの。おばあちゃんがわかっているかは知らないけれど、何も言わないでいるから」
「そうだったんですか」アルは着替えを終えて胸の鎧と兜の位置を直した。「ばれませんか?」
「もっと顔を隠して。警備兵は皆顔を覆うようにマスクとフードをしているから、そう簡単には見つからないはずだよ」
自信ありげに語るアニーにギードも同調した。
「アルさんなら楽勝ですよ」
アルはほっと一息ついて表情を緩めた。
「ありがとうございます。僕にもできることをしてみるつもりです。男爵は話せばわかってくれるんじゃないかと思いますから」
アニーは至極穏やかな顔でアルを見た。それは諦めのついたものの表情だったが、アルには知る由もなかった。
「忘れるところだった。これがヴィジラント山の地図。古いけれどないよりはいいと思う」
「助かります」
スキーを履いたギードが犬ぞりを運んできた。夜にも関わらず、犬たちははしゃぐように雪をかき分けて走っていた。
「もう寒いから戻るね。それじゃあがんばってね」
「ありがとうございました。そっちも体に気をつけて」
アルは何度も礼を言って犬ぞりに乗り込んだ。松明の煌々とした明かりをかざし、寒さでかじかむ手をぎゅっと握って。途中、振り返ってアニーの灯りが見えなくなったところで、アルはギードに訊ねた。
「聞きたいことがあります」
「なんです?」
ギードは肩をそびやかしたまま淡々と進みながら体を揺り動かした。
「あの人たちは、イミクにあなたがいじめられていたことを知っているんですか?」
「……さあ、どうだか。知らないんじゃないですか。ああ、いや。アニーは知っていたかも知れません」
「イミク・クロンダに会ったらどうするつもりですか?」
「どうもしませんよ」
ギードはごまかすように大きなあくびをして見せた。
「なるほど。だからよくしてくれたんですね」
ギードは何も言わずに進み続けた。アルもそれ以上何も言わなかった。
二人は真っ暗闇のうちに村へ戻ってきた。村に入ると、二人はそのまま宿に戻った。来た時の逆を辿って部屋に入り、かじかむ体を抱えながら布団に潜り込んだ。




