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消える足跡(12)

 イェシル村は、村という枠組みを越えた規模の集落で、全体は大きくないがひとつの堅牢な計画都市だった。ゼノ花崗岩を含むオレンジ、ベージュ、灰褐色、ブラウンの石で造成されたモザイクの建築群は、その一つ一つはレフォードより小さいものの、より建築精度が高く街並みのコンポジションが保たれていた。街は東西に長く伸びその中央にヴィジラント山へ登るための道が走る。その先は洞窟の入り口となっており、手前に関所が設けられている。山道へ至るためにはそこを通る必要があった。イェシル村とヴィジラント山の間には黒岩の崖がそびえていた。


「山門を通らずにヴィジラント山に登る方法は二つある」


 トラークはピースサインを大きく振って、アルとギードに突きつけた。三人は互いをうかがうように顔を見合わせた。街並みに歩く人々は皆着膨れをしている。


「それは何ですか?」

「ひとつは、あの黒い崖を登る」


 トラークは黒い壁のような崖を指した。黒い犬を連れた婦人が脇を抜けてその方向へ行く。


「もうひとつは?」

「下の海を渡る」

「成功者はいますか?」

「崖登りをすれば兵士たちの弓練習の的になる。かといって夜に挑戦しようとも考えないことだ。暗闇のなかの崖登りが趣味ならば別だがな。いずれにせよ下の海に落ちてサメの餌になっているだろう。いや、その前に寒さで死ぬだろうな。海は氷河にでもなっていればいいんだが、この下の崖からヴィジラント山までは渦潮の荒れた海域になっている。凍ったところを見たことはない。成功者も挑戦者も知らん。そこまでしてヴィジラント山に登ろうとする理由もない」


 トラークの案内の元、アルとギードはイェシル村の西側の外れにある《星屑のギンギツネ亭》に入る。表の看板に描かれた星空の下に吠えるギンギツネの姿は真っ黒に変色しており、ところどころに白い塗料の欠片が残るのみだった。二重の扉を開けると鈴の音は軽やかに、一方薄暗い室内が広がった。奥の部屋に暖炉の光のうごめくのが見える。


「ノラーナはいるか?」


 トラークが店の奥に叫ぶと奥から返事がした。待つように声が飛んでくると、トラークは二人に壁面のろうそくをつけるように言った。壁面には棚が設えており、鍋、お玉、フライパン、食器の他にも瓶詰めのジャム、ハーブ類、織物、金具、木彫の人形まで雑多なものであふれていた。壁にかかるタペストリーには波型の文様と土着的で神秘的な姿をした幾種類もの動物たちが描かれている。明かりが灯るごとにそれらが次々と顔を出す。鍋を蹴飛ばしたような金属音と女性の落ち込んだ嘆息が響く。奥の部屋から出てきたのは赤いボーダーのエプロンを引っ掛けた人の良さそうな小太りの婦人だった。小さな丸メガネの奥の瞳はススキ穂のように細く垂れ、モチのようなきめ細かい肌の頬はリスのようにふっくらとしている。


「もう、足を引っ掛けちゃったよ。まったく。なんだ、おじいちゃんか。片付けてくるから適当に待ってておくれ」


 ノラーナは右足を引きずりながら店の奥に引っ込んだ。トラークは二人を伴ってキノコの籠を中に運びこんだ。


「ここはトラークさんの家なんですか?」

「いや違うよ。私の家は森の奥にある。この収穫物を買ってもらうんだ」

「そういうことでしたか」

「なあ、レドレに会わせてくれるんだろう。さっさと行こうぜ」


 ギードは面倒くさそうな態度で言った。


「ついでに宿を紹介してやったのにその態度はなんだ」


 トラークは店の奥の階段を顎でしゃくって、二階が宿になっていると言った。籠を床に下ろすと、トラークは腰を叩きながら椅子に座った。老画家が店の奥に怒鳴ると、それをいなすような返事が返った。トラークはノラーナがなかなか出てこないと見ると席を立ってそりから小さな籠を取ってきた。そこに自分の分のキノコを取り分けた。アルとギードが棚に並ぶ商品を物憂げに眺めていると、ノラーナがようやく出てきた。手にしたツゲのお盆にはティーポットとカップが乗せられていた。


「さあ、どうぞ」


 ノラーナはルビー色のハーブティーをカップに注いだ。目の覚めるような爽やかな香りが広がる。トラークはそれを受け取ると三口目には飲み干しておかわりを要求した。


「ノラーナ、こいつらは客だ。今日一晩泊めてやってくれ。それとそいつの買い取りを頼む」


 女将はうれしくて籠のそばに屈みこむと、中に入ったキノコを手にとって匂いを嗅いだ。


「いっぱい獲ったわね、助かるわ」

「人手があったからな。ごっそり採ってきたわ」


 アルはノラーナに犬を頼んだ。そりと犬はすぐ隣りにある小屋に入れられ、それから荷物を二階の部屋に運びこんだ。ワードローブがドアの横にひとつ、奥にベッドとキャビネットが向かいになって置かれているシンプルな部屋で、ふかふかのカーペットが敷かれている。


「どうしてこんな辺鄙なところにいらしたんですか?」

「実は……」


 アルは手短に事情を説明した。


「まあ、そんな魔物がいるの?」

「ええ。ご存知ありませんか?」

「私は聞いたことないわ。ごめんなさいね」

「いえ、全然。とにかく霧燕の巣を手に入れたいんです。トラークさんに聞いたんですが、ヴィジラント山への入山許可は難しいんですか?」


 ノラーナは腕を組んで頬に手をやった。


「私らの御霊山だし、今は大公の兵士様が見張っているからねえ。ちょっと難しいんじゃないかしら」


 ギードも部屋から出てきて一緒に下の店のテーブルに戻った。


「トラークさんはどうするんですか?」

「私は飯を食ったら帰るよ」それからトラークはノラーナに言った。「他に客はいるのか?」

「ご覧の通り。いるわけ無いでしょ」

「よし、ならば今日は私が鍋を作る。こいつらは鹿肉をしこたま持っているからな」

「まあ、うれしい。私もいいのかしら?」


 トラークは有無を言わさず店の奥の台所に入っていき、全員を呼びつけた。


「おまえらも手伝うんだ。食材を洗え」


 ギードはうんざりして、アルとノラーナは互いに困った顔を見合わせて笑った。エゾシカ肉に塩コショウをふりかけ、野菜とキノコを切り分ける。トラークは隣の貯蔵庫からヒラメを手に戻ってきた。


「こいつはいいもんだな。使って構わんだろう?」

「それは、お隣さんから頂いたのに」

「どうせひとりでは食いきれんだろう。駄目にしちゃ丸損だ」


 トラークはすでに包丁を入れていた。白身と骨に分けられると、鍋に骨を入れてブイヨンを作り始めた。他にも根菜、野菜とキノコが投入され火にくべられた。その段階でトラークはアルとギードを追い出した。


「何なんだ、一体。手伝えって言ったかと思えば、急に出て行けって」

「こだわりがあるんじゃないですか」

「訳のわからねえ爺さんだ」

「美味しいものが食べられると期待して待っていましょう」


 一時間ほどしてトラークは不敵な笑みで鍋を持ってきた。もったいぶった態度で木蓋が開けられた。中身は先日食べたキノコ鍋と大差のないものだった。ただスープの色の黒さが増した感じがした。


「これが爺さんの言っていた”ちゃんとした鍋"ってやつなのか?」

「美味しそうな匂いじゃないですか」

「俺には同じにしか見えませんがね」

「文句を言うなら食わんでも良いぞ」


 トラークは鍋をよそった器を引っ込めようとした。


「誰も食わねえなんて言ってねえよ」


 ギードはぶつくさ言いながら受け取ると、器の熱さにテーブルに置かざるを得なかった。アルは笑顔で受け取る。ノラーナから手渡されたスプーンでひとすくいして匂いを嗅ぐと、スヴァルタンプの甘い匂いがする。アルとギードは二人一緒に口にした。スープにはエゾシカ肉の濃厚な旨味の背後をヒラメの出汁が下支えする。野菜とキノコの旨味が口いっぱいに広がると、口の中に辛味が爆発した。勢い込んで飲み込むと、スープの熱さと辛味が喉を焼いた。ギードは立ち上がって水を一気飲みして喘ぎ、アルはテーブルに突っ伏して悶絶している。トラークが豪快に笑う。


「どうだ、旨いだろう」


「馬鹿野郎、これは辛すぎだ!」


 ギードは顔を真っ赤にしてトラークに怒鳴ったが、当の彼はさらにうれしそうに大口を開けて笑った。自分でも鍋から大盛りによそうと犬がするようにがっついた。そして旨味の背後より立ち現れる強烈な辛味を待ってましたと言わんばかりにぎゅっと目をつぶって味わった。トラークはうっすら涙を浮かべながら喜びにうめいた。


「寒さを蹴散らすための秘伝の料理だぞ。雪国で生き抜いていられるのもこれのおかげだ」トラークは一呼吸おいてアルとギードを待った。「小僧にはこの旨さがわからんか。残念だ。はちみつでもなめるか?」


 トラークはおかわりしながら二人を鼻で笑った。ノラーナがアルとギードに水を出すと、自分でも鍋をよそい始めた。


「まあ、辛いの苦手な子っているわよね。可愛らしいわ」


 ノラーナはうさぎを見つけた子どものような顔をしてキノコ鍋を口に運んでいる。ギードは辛さと怒りに顔を真っ赤にしながらどっかと椅子に腰掛けた。啖呵を切ってスプーンを手に取ると、とろみのついたスープが空を泳ぐ龍のように対流している。ギードの手が止まる。トラークは孫を見るような顔をした。


「どうした?」


 ノラーナがギードの前にそっと手を置いた。


「無理しちゃ駄目よ」


 ギードはトラークとノラーナの顔を交互に見た。そして全身の力をほとばしらせると、二口目、勢いのままに三口目を食べた。一回一回の重い咀嚼を行う。ギードはトラークから目を離さず睨むようにしながら口の中のものを飲み込んだ。トラークは思わず柏手を打ち喜んだ。


「慣れたらいけるぜ」


 ギードは汗と涙にまみれながら器を空にした。アルはようやく顔を上げた。その顔も泥まみれかと見紛うばかりだった。


「はちみつをください」

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