消える足跡(11)
疾駆する犬ぞりが思うように進まなくなったのはだらだらとした上り坂を上がった先の小さな森に入ってからだった。アルはそりを止めると、犬をそばの木に繋いでエサをやった。それから荷物を一旦下ろして、そりを確認すると、そりと荷台の接合部分にがたつきがあるのがわかった。食料の入った木箱を固定していた革紐を一本解くと、そりと荷台が外れないように何重にも結んで固定した。荷物の積み込みが済むと自分も干し肉をひと欠片かじって、再び犬を繋ぎ直した。
森を抜けると段丘のコブがいくつも現れた。登っては下り、登っては下るを繰り返し、やがて白く青い世界はオレンジ色に染まっていく。林立するモミを背に野宿をすべく、テントを設営し、周囲を雪で固めていく。極寒の大地でもその作業をしていると服の下に汗が滲む。その時、寝そべっていた四頭のうちで最も大きな犬が顔を上げてきょろきょろとし始めた。他の三頭も怪訝な顔で周囲の様子をうかがい、とうとう連続で吠え始めた。アルはすぐさまテントを背に弓を構えた。犬の吠える方向を警戒していると、遠くに黒い人影が手を振っているのが見えた。
「止まれ!」
アルの警告が聞こえないのか、黒い影は無視して近づいてきた。やりを手にスキーを履いている。アルは犬を一頭連れ立って、その人に近づいた。男の甲高い声が響く。
「待ってくれ、俺だ、俺」
声の主はギードだった。カラマツの樹皮ような色合いのクマの毛皮をまとっているが、子どもが大人の服を借りているようだった。アルは弓を構えたまま再度警告した。
「何のようだ?」
「おいおい、兄さん。その物騒なもんを下ろしてくれよ」
アルは素早く周囲を見回して他に何も気配がないのを確認すると構えを解いた。それを見てギードはアルに近づこうとしたが、アルの鋭い声が投げつけられた。
「止まれ! それ以上近づけば容赦しない」
ギードは両手を前に押し出すように振って落ち着くように言った。
「何もしやしないですよ」
犬が吠えたてている。ギードは口笛を吹いてヘラヘラと笑った。アルは犬のリードを引いて、吠えるのをやめさせた。
「何しに来た」
「いや、その、ねえ? ちょっとご相談がありまして」
アルは無言でこそ泥を睨みつけている。ギードはしみったれの上目遣いに見ながら話を続けた。
「申し訳なく思っているんですよ、本当に。この通り」ギードは雪に埋もれんばかりに両膝両手をついて慈悲を乞うた。「兄さんを追いかけてきましたのは……」
「アルだ」
ギードが笑顔を見せ前歯をむき出しにすると、立ち上がってアルに近づいた。
「それじゃあアルさん、是非俺も一緒に連れてってください」
「何を一体……?」
「絶対役に立ちますよ、本当に。霧燕の巣を採りに行くんでしょう? だったらなおさらだ」
「ひとりで充分です。帰ってください」
「そう邪険にしないでくださいよ。別に報酬を取ろうなんて思っていませんから」
「それじゃあ目的は何なんですか?」
「殺されても文句は言えない状況で見逃してくれた。受けた御恩は返さなきゃ、気持ち悪くていけねえ。是非とも一緒に連れて行ってください」
アルがため息をつくと犬がまた吠えた。今度はテントにいる他の三匹も吠え始めた。
「協力はいりませんし、邪魔もしないで欲しい。どうぞ他所へ行ってください」
「兄さん、ところでここから先にヴィジラント山がありますが、入山許可は得ているんですか?」
「いいや。なぜ?」とアルは首を振った。
「おっと、そいつはいけねえ。ヴィジラント山といえば、レーゲラット族の聖地。許可がなければ手前にあるイェシルの村から先は進めませんよ」
「村を迂回していけばいいじゃないですか」
「ヴィジラント山は離れ小島みたいなもんで、入るルートはたったひとつだけ。ここから北へ行ったイェシル村の背後にかかる道を渡るのみです。村の東側も西側も他のどこからも、荒れた海に面した崖があるばっかりで、海に落ちれば凍死しますよ」
ギードは何故かうれしそうに笑うと、アルは彼を追い払う仕草を見せてテントへと戻った。
「ちょっとちょっと、待ってくださいってば! お力になれるかと思うんですよ。俺を連れてってくださいって」
ギードがアルに近づこうとすると、犬が吠えながらこそ泥に跳びかかろうとした。リードがピンと伸びる。アルは落ち着かせようと犬を引き寄せて首輪を掴まえながら首をなで込んだ。アルは振り返った。
「目的がわからないんです、僕にはさっぱり」
「ああ、ですからお力に……」
「嘘はごめんですよ。あなたは僕たちから盗みを働いた。でも被害に合ったベオさんがあなたを見逃したんです。あの件はそれで終わり。もう関わり合いたくないんですよ」
ギードがうつむいて立ち尽くすと、アルは犬を引いて再びテントへ歩き始めた。
「……わかりました。正直に言います!」
うんざりしながらアルが振り返る。ギードは先ほどのヘラヘラとした顔とは打って変わって精悍で凛々しい眼差しを見せた。
「俺はもう泥棒稼業から足を洗いたいと思っていたんです。元々故郷が嫌で飛び出して、レフォードに行ったはいいが食い扶持がなくそれで泥棒に手を染めて……でも、あんたらに情けをかけてもらったおかげで目が覚めたんです。いっちょ故郷に戻って真面目に働こうと心に決めたんです」
「それなら帰ったらいいじゃないですか」
「私の故郷はイェシル村なんですよ。一緒に連れてってもらえれば、村長に紹介できますがね。どうです、旅は道連れってことで?」
ギードはまた小ずるい笑顔を見せたことで、アルは不信を募らせた。アルがテントに向かうと、ギードはスキーで追い越していった。そしてテントの周りをぐるりと一周回った。アルが腰に手をやった。
「アルさん、これじゃあ……」
「本当にどこかへ行ってください」
「いやいや、話を聞いてください。これじゃあ朝起きた時にテントを引っ張り出せなくなりますよ」
アルは驚いて目を丸くした。
「当たり前ですよ。手伝いますから、今すぐ掘り出してください」
ギードはスキーを脱ぐと、アルを待つことなくテントのロープをつかんでペグごと引き抜いていった。幕体が崩れると、ギードは素早く折りたたんで地面に置いた。荷台からスコップを取り出して、かまくらを作り始めた。ギードは円を描くように動いて真ん中に雪を放り投げていく。彼が犬のそばを通ると犬たちが吠えたて、ギードは額の汗を拭って笑った。アルはギードに呼ばれて積み上げられた雪を踏み固めた。側面も固められてドーム型が形成されると、ギードは入り口を掘った。テンポ良くスコップが差し入れられ、もぐらのようにギードは雪の中に消えた。アニマートに鼻歌を響かせて、入り口から雪が外へ投げ出されていく。三十分ほどでギードは外に出てきた。たたんだ幕体を手に取ると、かまくらの中に引っ張りこんで下に敷き広げた。
「終わりましたよ」
ギードは余裕を表す間の抜けたような声でアルを呼んだ。アルが中に入ると、暖かさが肌に染みこんだ。
「どうです、これで充分でしょう?」
「……驚きました。これは凄い」
ギードは自慢気に胸を張った。
「これくらい朝飯前に作れないと遭難しますよ。よくここまでこれましたね?」
「廃墟や山小屋を利用して来ましたから……」アルはバツ悪く言った。
「まあ運がいいや。雪に慣れてない人だからしょうがないですが、そんなんで一人旅を決め込んだなんて命知らずの馬鹿ですよ」
「すみません」
「本当、俺が来て良かったですね」
アルがふと気づくとギードの手の中に犬の頭がなでられている。よく見ると彼らの口元が動いており、ギードの反対の手には干し肉が握られていた。
「仕方ない。わかりましたよ。イェシル村まで一緒に行きましょう」
「そうこなくっちゃ」
「ただし、報酬はありませんからね」
「一緒に行けるだけで充分ですよ」
ギードが調子に乗って犬を激しくなでると、犬は低い唸り声を上げて噛み付こうとした。ギードは後ろに転ぶとかまくらの壁に頭をぶつけた。壁はギードの頭の形――エシャレットの形にへこんだ。
太陽が沈むと小米雪が散り始め、風が強まった。二人は食事を終えると犬を抱きかかえて早々に眠った。翌朝、日が昇ると同時に目覚めたアルはギードの様子をうかがった。ギードは二匹の犬と共に夢の中で笑っている。アルは外に出ると身震いしながら荷物を確認したが全て無事だった。ギードを起こしてそりに犬を繋いだ。
「ここから村までどれくらいありますか?」
アルは後ろ足でそりを蹴った。
「三日は見といてください。天気が悪けりゃもっとかかりますよ」
ギードはすぐ隣をスキーで軽やかに滑っていく。ときおりコブを見つけては小ジャンプをして遊んでいる。アルはそれを見て感心していると、自分もコブに行き当たって腹わたに響く衝撃を受けた。森を抜けるとガンの群れが眼前を横切っていった。さらにトウヒとモミの森に入る。ギードは付いて来るように言うと、大きく右手に曲がっていく。しばらく行くと見晴らしの良い丘に出た。風が強く吹き付け、アルのかぶっていた毛皮のフードをめくり栗色の髪の毛をあらわにした。犬の荒い息遣いが雪に白を重ねる。
「あそこの森を抜けると川を三本渡ることになります。その後山をひとつ登るとイェシルですよ」
「山はどれくらいの高さですか?」
「だいたい千二、三百メートルくらいですな。今日は川の手前までは進めればいいと思います」
アルはうなづいて行路を再開した。丘を下るそりを押さえつけて白銀の煙を後方に撒き散らしていく。ギードが先に下ったすぐのコブを処理するのを見て、アルは跳ねないようにスピードを落とした。森の手前に来た時にアルはそりを止めた。先行するギードが気づいて声をかけようとしたところを手で制した。犬の呼吸音だけが鳴っている。アルは弓を構えた。狙いを定めると森に向かって矢を放った。子犬の鳴くような短い声が森を裂くと、アルは犬にムチを入れて矢の方向へと向かった。
「ちょっと、どこへいくんですか?」
一本一本の太い木々を抜けて行くと、犬たちも吠え始めた。とある地点に立ち止まると雪を鮮やかに染める血痕を発見する。点々と続く痕跡に向かってそりを走らせると、また短い鳴き声が響いた。アルは木の影に大きな影を認めた。長く伸びる顔と脚、垂れ下がるベル、黒い毛皮は分厚く毛足が長い。天啓を祈るかのように空に向かって広がる角は神々しい。アルと同じくらいの背の高さのヘラジカが嘶きながら足を引きずって森の奥へと逃げていく。アルはすかさず矢を放つ。一射目とほぼ同じようにヘラジカの後ろ足を射抜くと、アルは不満の嘆息を漏らした。ヘラジカは方向を変えて森の奥へ走る。三射目が臀部に刺さるとヘラジカの後ろ足が高々と上がる。アルは犬の方向を変えて側面へまわり込んだ瞬間に屋を放っていた。矢はヘラジカの側頭部に突き刺さり、獣は立ち上る煙のように鳴き声を轟かせて倒れた。もんどり打って倒れると雪に潜るようにのたうち回った。アルはナイフを手にヘラジカの背中から手を伸ばして前足をつかんだ。ナイフはヘラジカの心臓を狙ったが届かなかったので、アルは剣を抜いて突き立てた。黒いヘラジカは強烈な痙攣を一度だけ起こすと、しぼむように死んだ。
「……やりましたね!」
「ええ、食料はあった方がいいでしょう?」
「もちろんです」
アルはギードにヘラジカの脚を持たせると頸動脈を切って血抜きした。あっという間に血の海が広がる。シーツを引き裂くようにナイフを喉笛に差し入れて胸から腹へ毛皮にそって切れ目を入れていく。残っていた粘つく色濃い血液があふれる。胸骨を肋骨から外すためにナイフを突き立てて体重をかけた。軟骨を断つ。紅色の肉と灰と砂色の内蔵が顔を覗かせる。骨盤を割るためにナイフを立てて柄尻を叩く。野鹿に比してサイズの大きいヘラジカの骨は太く頑強だった。顔に跳ねるヘラジカの血に汗が混じる。食道と気管を切ると肺や心臓、消化器系を肛門にかけて引きずり出していった。血を洗うように肉にこすりつけていく。首、足首の毛皮をぐるりと切ると、さらに首と肛門に向かって切り込みを入れる。そして毛皮を剥がしにかかった。霧のような白い膜を見ながら、ヘラジカから毛皮が脱がされていく。アルは指に脂のぬめりと熱っぽいしびれを感じ始めた。アルはギードに毛皮を預けて血を洗うように言いつけた。そして自分は精肉作業に入る。膝の軟骨、肋骨、背骨、肩甲骨に沿ってナイフを入れて肉を部位ごとに切り取っていく。棒状の背ロースを切り分けて犬にやった。ギードはヘラジカの角をいじくっている。筋を切って外したもも肉の太ましさに声をあげた。肋骨をバラしていく。手がかじかむ。筋取りと肉の切り分けを終えると、アルは立ち上がって腰を伸ばした。ギードが火を起こそうか、と訊ねた。
「その前に……仕事ができました」
アルは肩口で顔についた血を拭いながら剣と弓を取り出した。ギードはアルの視線の先を見た。大きな顔に黒目、頬まで裂けて上がった口は笑みがこぼれ、サメのように鋭く尖った刃が無数に並ぶ。
「あの野郎、血の臭いを嗅ぎつけて来やがった!」
ラシュ族だった。アルからは三十メートルほど離れて、太いトウヒの木に手を添えて、様子をうかがっている。犬たちも小人に気づいて薄く断続的な唸り声を鳴らし始めた。
「一人ですかい?」
アルは矢を放った。ラシュ族の隣の木を狙ったが、その数メートル手前の木に刺さった。ラシュ族は笑うように上に向かって声を上げた。アルは周囲をうかがった。小人の仲間の姿は見えない。ヘラジカの肉と毛皮はほとんどそりに積み込んでいた。アルは逃げようか迷った。ラシュ族の異様な声は森に響き続ける。
「あれは何をしているんですか?」
「さあ、俺に聞かれても……仲間を呼んでるんじゃないですか」
アルは犬をそりから外すと、ラシュ族に呼応するように犬たちも遠吠えを上げ始めた。緊張の糸が張り詰め、アルとギードは見えない何かを警戒した。犬の遠吠えがけたたましい吠え声に切り替わった。
「上だ!」
声に反応したギードが上を向くと、目の前に獣の大きく空いた口が迫っていた。アルは横っ飛びに跳びながら矢を放った。ギードは両手で頭を覆いながら身を守った。矢は獣の首筋を捉えていた。アルは剣で獣を貫いて一匹仕留めた。アルはギードの襟首をつかんで立たせた。すでに獣が六匹の獣が取り囲んで、盛りのついたネコのような声で威嚇をしている。大型のイタチのような獣は白い体毛に黒毛の縞模様がうり坊のように走る。顔は鼻面から目の周りにかけて黒く覆われている。体長は一メートル半ほどで尻尾も太く豊かな毛に覆われている。
「ラミール……!」
「とにかくやるしかありません」
ヘラジカの血の臭いに興奮したのか、ラミールは一層声高に唸り始めた。アルが矢を放つとラミールの眉間を貫いた。アルは次の一匹に突っ込むが、横から別のラミールが飛びかかってきた。アルは腕に食いつかれた。組み付きもみ合いながら雪上に転がる。アルが立ち上がると、ナイフから血しぶきが舞う。腕にぶら下がる首の半分取れかかっていたラミールを剥がすと、さらに別のラミールに投げつけて、剣を突き刺した。ギードは短剣を振りかざしラミール二匹を牽制している。犬が横からラミールの首に飛びかかる。二匹は身をよじらせる渦となった。ギードがたじろぐ。アルが叫んだ。ギードが振り向くと、ラシュ族の凶刃がひらめいた。ギードは恐怖に目を閉じて腰を抜かす。刃はギードの頬をかすめる。一匹の犬がラシュ族に襲いかかっていた。犬の牙はラシュ族の腕に食い込んでいたが、毛皮の下に装備していた鉄の手甲によって守られた。ラシュ族は素早く犬の顔面と首を剣で突き刺して振り払った。再びギードに狙いをつける。ギードは逃げようと逆方向へ這い進んだ。しかしすぐ目の前にラミールが迫っていた。ラシュ族が短剣を振りかぶった。アルの剣がラシュ族の背中から貫く。小人はこみ上げる血に溺れるように死んだ。ギードの顔の脇をアルの投げたナイフが回転していく。ラミールの足元にナイフが刺さると、ラミールは捨て台詞のように大きく吠えて逃げ出した。アルは犬に噛みつかれていたラミールに飛びかかると、心臓を突き刺した。アルはラミール最後の一匹を探したが姿はなかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまねえです」
アルはギードを立たせると、犬を呼び寄せた。二頭だけが戻った。一頭が死んでおり、もう一頭は消えていた。アルは肩を落として荷台の木箱に腰掛けた。
「この獣は何て言いました?」
「ああ、ラミールです。しかし……あんたはやるもんだ。助かりましたよ」
ギードは血まみれの周辺を眺めて感心した。
「こいつの毛皮は結構良い値が付くんです。皮を剥ぎましょう」
アルは疲れていた体に鞭を打って立ち上がると犬の頭をなでてギードと共に作業に入った。それが済んだ頃には日の陰りの深い時間になっていた。
「ここから離れたいですね。血の臭いが激しい。獣を引き寄せてしまいますし、またラシュ族が来ないとも限らないでしょう」
「俺もそう思います。急ぎましょう」
犬が二頭だけになってしまったので、アルはギードにもそりを押すように言った。二人は元来た道を戻って森を出る手前にたどり着くと、かまくらを作り火を熾した。ヘラジカとラミールの肉を炙る。香ばしい匂いに犬がそわそわとし始め、アルとギードの腹が鳴った。ラミールの肉は臭みと癖の強い肉だったので犬たちの足元に転がった。アルとギードはヘラジカの肉を食べた。二人共無言で食べ続け、はちきれんばかりの満腹になると、さっさとかまくらの中へ入りすぐに眠りに落ちた。
イェシル村へ至るまでに渡る三本の川のひとつ、セーベン川は森を抜けたすぐにそのほとりがあり、そこは一メートルから二メートルの崖になっている。川幅は百五十メートルほどで、深さは最大三メートル。川の半分は凍っており、丸太で作られた橋の下から眺めると氷に閉じ込められた鱒の姿が見えた。手すりのないその橋を慎重に進むアルに対して、ギードは連続する凹凸をスキーで楽しんでいた。
「ゆっくり進んでください」
「大丈夫ですよ。俺は慣れてますから」
「そうじゃなくて……」
ギードは後ろ向きに進んでいると、丸太の継ぎ目部分にスキーを引っ掛けてバランスを崩した。アルが声を上げる。ひどい音を立ててギードは転んだが、すんでのところで川に落ちずに済んだ。アルが呆れながら手を差し伸べるとギードはヘラヘラと強がってみせた。
「死んでも知りませんよ」
「いやあ、大丈夫ですよ。こんなとこで死ぬつもりはありませんから」
川を渡りきると再び森に入る。葉の落ちたナラとトネリコが増え始め、灰色に覆われた雪の世界。ウサギや野ネズミを追うギンギツネ。ひとりごとのクロウタドリ。縄張りを守るオオカミは降りしきる雪に目を細める。三日かけて森を抜けると、再び川に出た。エルブレー川は平地に広がる穏やかな川だった。セーベン川と同じように川べりは凍結しており、中程の流れは半氷半水のシャーベットがゆっくりと流れている。セーベン川と同じ丸太の長い橋――エルブレー川は幅百メートルほど――がかかるが、セーベン川ほど斜度がなく容易に渡ることができた。
「昔、この川を親父と一緒に渡った時に、言うこと聞かない奴は魔物が出てきて川に引きずり込まれるぞって脅されたもんです。それがおっかなくて親父にしがみついていたのを憶えています」
「それが、なぜそうやってはしゃいでるように後ろ向きでスキーをするようになったんですか?」
「これはひとつの技術ですよ。雪国の人間はこうやって動けるようにしておかないと、化けもんに襲われた時にやられちまいますからね」
「それもお父さんの教えですか?」
「ええ、親父に限らず、村の大人たちは子どもにそう教えますよ」
「それで、ここに魔物は棲んでいるんですか?」
「魔物? 川の中にいるのは見たことありません。暖かくなると森でクマが出ますから、そっちの方がよっぽど恐ろしいですよ」
森の中から脅すような男の声が響いた。アルとギードは橋の途中で立ち止まった。岸から先は開けた道が続いていた。その両側に森が広がっており、声はその左側から響いた。
「どうします?」
「とにかく行きましょう」
二人が川岸にたどり着くと、男の声の他に甲高い獣の声が響くのがわかった。アルはそりを森に向けた。ギードはアルの背中を追う。
「やめときませんか? ねえ、ちょっと!」
響く男の声は追い立てる掛け声に近いもので何度も繰り返された。アルの犬が反応して吠え始めた。男が犬の声に気づいて、遠くに呼びかけ始めた。アルは犬にムチを入れると、声がどんどん近づいてきた。ある一本のナラを囲むようにラミールが三匹見えた。アルはそりを止めると口笛を吹いた。鷹の鳴き声のように響く。ラミールは変わらず木を取り囲んでうろついている。その視線の先に黒い影が見えた。小柄な老人がラミールを追い払うべく声を上げて雪玉を投げつけていた。ラミールはそれを頭に受けると、上に向かって牙を剥いた。犬が吠える。アルは弓を構えて狙いをつける。ラミールの背中に矢が刺さると、飛び上がって怒りの咆哮を張り立てる。犬も興奮して飛び上がりそりの前方部が持ち上がった。アルは次射を放つ。同じラミールの首筋を捉えると身をよじり、今度は悲鳴を上げて逃げ出した。他の二匹も森の奥へと消えていった。
「ラミールくらいなら楽勝って感じですね」
「今のところは何とかなっているだけです」
「いやあ、助かってしまったよ」
木の上から器用に幹を伝って老人が降りてきた。身長がアルの腰の高さほどしかなく、三角帽からのぞく丸い顔はラシュ族を彷彿とさせるが、分厚いメルトン生地で作られたカーキのコートにはくるみの大きなボタンが留められている。ズボンも同様の生地で膝の部分がパッドで補強されていた。オオカミの毛皮で作られたブーツにはかぎ爪が仕掛けられており、それを使って木に登ったり下りたりすることが出来るのだと言う。
「キノコ狩りに夢中になっていたら油断したよ。急にラミールが襲いかかってきたんだ」
「この時期のラミールは凶暴だからな。俺たちが通りかかって命拾いしたな」
老人は大口を開けて笑うとギードの顔面に派手につばが飛び散った。ギードは苦虫を噛み潰したような表情をした。
「これでも昔は結構ならしたもんだがな」
「爺さんが?」
「おぬしのような小僧っ子にはまだまだ負けんぞ。この腰が良ければな」と老人は腰を叩きながら、さらに剛毅に笑ってみせた。「そうだ、何かお礼をしなきゃな。とは言ってもキノコぐらいしかない。どうだ、うちに来い。キノコ鍋でもごちそうしてやろう」
「いえ、僕たちは急ぐんで遠慮しておきます」
「どこ行くんだ?」
「イェシル村です」
「ああ、そうか。うちもイェシル村だからちょうどいいじゃないか」
「そういうことならご一緒します」
「それじゃあこれを持ってくれ」
老人は背中に背負っていた大きな籠をギードに手渡した。中には黒いキノコが半分の高さまで詰まっている。
「そいつはスヴァルタンプ。ナラタケの仲間だが、雪の積もる厳冬期に生えるキノコなんだよ。さすがの寒さで黒く変色するが、こんな寒さの中で生えるだけあって栄養があってうまいんだ。これを籠いっぱいにするぞ」
「ちょっと待ってくれ、爺さん。俺たちもキノコ取りやるのか?」
「そりゃそうだ。うちに来て食べるだろう? さあ、温かい飯のためにさっさとやるぞ」
ギードは大仰に文句を垂れたが、老人はさっさと自分のそりから別の籠を取ってくるとアルに投げて寄越した。アルは苦笑いしてうなだれたが、籠を背負うとキノコ狩りに取り掛かった。スコップで雪をかき分けてキノコを摘む。籠を満杯にする頃には日が落ちていた。アルとギードが腰をかがめっぱなしで疲労困憊の中、老人が言った。
「さあ、今夜の寝床を作るぞ」
老人はギードの尻を蹴飛ばすと、仕事を始めたばかりのような機敏さで楽々とかまくら作りに取り掛かった。
「人使いが荒すぎるぜ」
ギードが文句を言うともう一発蹴飛ばされた。いつの間にかアルの犬も老人に付き従っており、ギードに吠えた。ギードは渋々と仕事に取り掛かった。アルとギードでかまくらを作り終えた頃、ちょうど良く煮えたキノコ鍋を手に老人がかまくらへと入っていった。アルとギードが突き立てたスコップに寄りかかっていると、老人が入り口からきょとんとした顔を出した。
「何をしてるんだ。さっさと入れ」
「ちくしょう、体が軋んで仕方ないぜ。あの爺さん、俺達の事を使い倒す気ですよ」
ギードの背中からは蒸気がけぶっている。先に犬二頭がかまくらの中へ滑り込み、ギードとアルが続いた。室内は濃密でとろみのあるスープの甘い匂いに包まれている。
「鹿肉を持っていたな。貰ったぞ」
「爺さん、勝手に何をしやがるんだ!」
ギードの抗議はその煮える鍋の中身によってあっという間に消し去られた。アルは素直に笑顔を見せて老人に礼を言った。
「鹿肉はたくさんありますから全然問題ありませんよ」
「キノコと鹿肉だけしか食材がないから味は期待するな。とにかくほれ、食べよう」
アルは鍋をよそわれた器を受け取る。その熱が指先を、口にしたスープが体を中から解きほぐす。ギードは熱いスープを必死に冷ましながら口に運んでいる。三人と二頭は雪の洞穴の中で一心不乱に鍋を食べ尽くした。空になった鍋を前に、ギードは膨らんだ腹に満足して後ろに肘をついてのけぞった。額からは汗が滲んでいる。
「食った、食った。暑いや」
上着を脱いだギードは上気した顔を外に向けた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「いやいや、本物のキノコ鍋こんなもんじゃないよ。カンタレールやカールヨハン、スギナやミツバ、ワラビの山菜類ももっと入れてやれば旨味が増すんだ。家に帰れば干した奴がいくらかある。そうしたらちゃんと食わせてやろう」
「それは楽しみです。ところで名乗るのが遅れました。私はアルといいます。こっちの寝転んでいるのはギード」
「トラークだ。まあ呼び方なんてどうでもいいさ」
「トラークさんは何をされているんですか?」
「キノコ狩りさ」
「いい物が採れるんですか?」
「まあまあだ」
「普段もこの仕事を? それとも別のをしていますか?」
「今は絵描きだ。画家だよ。山狩はいい風景を探すついでだ」
「へえ、それは凄いですね」
トラークは言われ慣れているといった様子で傍らの犬をなでている。
「どういった絵を描くんですか?」
「この偉大なる自然だ。森、川、大地、雪、太陽、星と月。リス、クマ、オオカミ、そしてラミールもな」
「へえ、でも獣は危ないのでは?」
「個体ごとに性格の違いがあるし、ラミールは今の時期は危険だが、夏になれば落ち着く。それに襲われるほど近づくこともしやせん。さっきはいきなり出くわしただけだ。それで、あんたらは何をしにこんなところまで来たんだ?」
「霧燕の巣を採りに行くんです。ヴィジラント山にあると聞きました」
「何だと、霧燕?」
トラークはそう言ってからゲップの込みあげるのをこらえた。
「ヴィジラント山はゼブル教の霊山だ。霧燕は霊鳥として崇められている。どこの誰だかしらん奴らに入山許可は下りないだろう」
「勝手に入るさ」
ギードが起き上がりしなに言った。
「馬鹿なことを言うな! 百歩譲って、入れたとしてもどうやって燕の巣を採るつもりだ? 百メートルはある崖に巣があるんだぞ」
「それは大丈夫です。山に入れない方が問題です。できれば穏便に通してもらえるとありがたいんですけれど」
「レドレは許さんだろう。私も反対だ」
「だから許可がないなら、勝手に通らせてもらいますって」
ギードは胸を張って拳で叩く。
「あまりふざけたことを言うもんじゃない。私も問題を起こすのを黙って見過ごすわけにもいかなくなるだろうが」トラークの表情に険が差す。
「助けてやったじゃないか、爺さん。恩を仇で返すってのは無しだぜ」
「馬鹿者が。村の平穏を乱す奴を見過ごすわけにはいかんのだ」
ギードを手で制してアルが言った。「トラークさんの言う通りですが、僕らは霧燕の巣をどうしても欲しいのです。どうか許可が得られるように話をしてくださいませんか?」
「私の紹介なぞ役に立たんだろうが、村長のジアン・レドレに会わせるくらいはしてやれるだろう。だが、馬鹿なマネをしないと約束するならば、の話だ」
「ええ、もちろん。彼にはよく言っておきます」
ギードは何か異議を唱えようとしたが、アルがその口を抑えこんだ。ギードはもがいて振りほどこうとした。
「ちょっと、ちょっとってば! わかりましたよ。離してください。俺が悪かったってば、ちくしょう!」
アルはトラークに謝りながらギードを離してやった。ギードはふくれっ面を見せると狭い室内でひとり反対側を向いてしまった。アルは少し罪悪感に見舞われてギードに謝罪したが、ねずみ面の男はふてくされて聞き入れようとせず、ふて寝してしまった。
「明日中には戻りたい。今日はさっさと休むぞ」
結局、三人はそのまま休むことになり、翌朝日が昇る前にトラークによって出発の合図がなされた。
「ほれ、小僧ども。さっさと起きろ。出発だ」
アルとギードは布団を叩くようにその体を叩かれた。トラークが外へ出て行くと、犬二頭も、アルとギードを踏みつけて出て行った。三人は各々自分の荷物のチェックを済ませるとイェシル村へ向けて出発した。雪がチラチラと舞う朝だった。トラークのそりは荷台にスキーが付いた手押し式のものだった。下り坂ではギードと先を争うようにして先行するが、上り坂になるとアルの犬ぞりにロープを繋いで引っ張らせて自分は悠々としていた。昼ごろにイェシル村手前の最後の川に到達した。アクスマル川と呼ばれるその川は、最初のセーベン川以上に深い三メートルから五メートルの崖下を流れていた。川幅が二百メートルほどあり、何本も撚り合わせて作られた太いロープの吊り橋がかかっていた。アルは吊り橋の手前で犬の手綱を引いた。下を覗くと川は全て凍りついており、そこに雪が降り積もっているので言われなければそこが川とはわからない状態だった。
「落ちても死にやせんよ」
トラークは吊り橋のロープをつかんで揺らすと端々に垂れるつららが音もなく落ちていった。橋の向こう側には葉の落ちた裸木の背中に街の風景が顔をのぞかせ、さらにその背後にはヴィジラント山の黒い影がそびえ立っていた。三人は吊り橋を渡る。時折、ロープが突っ張るような音を立てる。アルが吊り橋を渡りきった時、どこかで鳥の鳴き声がして雪の勢いが増した。立ち止まるアルにギードが振り返る。
「どうしました?」
「いや、何でもないです。行きましょう」
今度はアルがギードとトラークの間を抜けて先頭に立った。そこからきつい登坂が続く。そして木を縫い森を抜けると、波濤の音と潮の匂いが吹き付けた。両端が崖になっている先にイェシル村は広がっている。




