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消える足跡(9)

カベル・アルヴァンはレフォードの商業地区にある五軒目の宿を回って、ジーン=シンとアルがいないことを知ると険しい表情を深めた。レネアラにつけられた二人の兵士は気楽な様子で談笑している。小太りで目の細い男はミド・レッサといい、よく喋る男だった。もうひとりのニコラス・マイトは溶けた溶岩のようなタレ目で、肌荒れがひどかった。二人は宿から出てきたカベルを見ると、答えを聞くまでもないといった様子で次の宿の場所を言った。カベルは二人を待つことなく早足で宿に向かった。彼は人の往来の激しいのもするすると縫うように進んでいくので、兵士の二人はついて行くのに必死だった。街の全ての宿を回り終えると、ミドが言った。


「とりあえず帰りましょうや」


 レフォード城へ戻る途中に兵士二人は後ろからカベルに話しかけた。

「ちょっといいか、俺の勝手な話だが聞いてくれ。あんたらは国に戻ったほうがいいかもしれんよ」


 カベルは立ち止まって振り返った。


「どういうことだ?」


「俺はあんたがベルメランクの騎士で、連れてきたお嬢さんが伯爵様のご令嬢だって疑ってはいねえよ。ギャラニール伯爵も本当はわかっているんだ。でも、疑い得るってことがいいカモなんだ。その、あの人は――俺が言ったなんて言わないでくれよ――性格がヘドロだからな。特に若い女を見るといじめたくなるみたいなんだよ。それにヴァレス派だし、レネス様のところに来たお嬢様なんていったらもうね……」


 ミドが話をニコラスが受け取った。


「こいつの言っていることは本当だ。でも、どうなるかわからないっていうのが城内の噂だ。そもそもベルメランクと同盟を結ぶかどうかっていうのも、レネス様が進めていることで、ヴァレス様はあまり乗り気じゃないしな。つまりはメナスドールであんたたちの立場ってのは、今のところかなり難しいんだ」


 カベルは氷のような無表情で二人を見下ろしている。ミドとニコラスはおどおどしながら互いをうかがった。


「それを俺に言ってどうする?」

「どうするって……どうするかはあんたたち次第だよ。なあ?」


 ミドはニコラスを肘で小突くと、今度はタレ目のニコラスは倍のお返しをした。カベルは向き直ると城に再び歩を進めた。雪が蹴散らされていく。


「なあ、なんか気に触ったなら謝るよ。でも……」


 ミドとニコラスは小走りにカベルの後ろについて行く。

「そうだぜ、ミドの言う通りだ。もし出来ることなら俺たちも協力するぜ」


 その後も二人はカベルに何くれとなく話し続けたが、彼はそれらを無視していた。すでに日は落ちて松明の赤々と燃える城に戻ると、ヴァネッサ・ダニオンが待っていた。


「傭兵はすでに発ってしまったようだ」

「そうですか、それは残念です」


 ヴァネッサはミドとニコラスにカベルを部屋までお送りするように言いつけ、自分は伯爵に報告しに向かった。カベルは最初に来た時と同じ応接室に通された。カシアはソファに腰掛けてつまらない表情をしてクッションに顔を埋め、ペトラは窓辺から見える庭に降り積もる雪を見ながら意識を漂わせていたが、カベルに気づくと小走りに駆け寄った。彼女が質問する前にカベルは頭を振った。


「……それじゃあどうすればいいの……?」


 カベルはカシアの下に跪いて報告した。カシアは大きな目でカベルとカシアを交互に見やった。カベルは相変わらず仏頂面をし、ペトラは花瓶を割ってしまった侍女のような顔をし続けていた。


「私たちはどうなるの?」

「カシア様……私たちは変わらずにお嬢様にお仕えいたします」

「とにかく伯爵がどのように判断するか、です。私が対応いたします。構いませんね?」


 手立てもアイディアもカシアにあろうはずがなく、少女は一度うなづくことしかできなかった。ドアがノックされる。三人はすっくと立ち上がった。


「さて、どういたしましょう」


 レネアラ・ギャラニールは紫のドレスからたっぷりとした臙脂のドレスに召し替えて、髪も下ろしていた。


「私の勲章を返していただけますか?」

「あら、最初の言葉がそれなの?」


 レネアラは後ろに控えているヴァネッサに目配せした。ヴァネッサはカベルの前に出ると、勲章を差し出した。


「本物だと信じていただけましたか?」

「ええ、そうですね。その勲章は本物だとオーランドルフ教授がおっしゃっていました。ですからきっと本物なのでしょう」


 ペトラは胸に手を置いたまま忘れていた呼吸を取り戻して安堵した。彼女から漏れ出た声にレネアラが反応した。


「私たちは勲章の真贋を問うているわけではありません。あなた方が本物のベルメランクからの使者であるかどうかが問題なのです」


 薪の爆ぜる音の他は何も鳴らなくなった。満足したレネアラはおもちゃを貰った子どもの笑みを湛えた。


「私たちが出て行けばよろしいですか?」


 レネアラはカベルの言葉にさらに笑みを深くし、ドア横にいた兵士のひとりはつばを飲み込んだ。


「そうできれば苦労いたしません。私たちはそうできないのです。なぜかおわかりですか?」

「見当がつきません。私たちが偽物に入れ替わっていた場合のリスクを考えれば、この雪の中に放り出すほうが得策でしょう」


「おっしゃる通り。あなたは現実主義者ですね。でも先程も言った通り、私たちにはそれができない。なぜなら、本物だった場合ベルメランクと本格的に戦争になるからです。その時にはスメイアと共同戦線を張るでしょうが、正直に申しまして我が国メナスドールが南蛮を相手に戦っても、得るものがありません。あなた方もこの雪と氷の大地を得たとして、何になるでしょう? しかし、戦争になるのです。それがベルメランク皇帝ロムルス・メネル・ハイエンシールのやり方であり……いえ、国というものは元々そうなのです」


「そうでしょうね。私たちは単なる一時的な保険に過ぎないわけです。ベルメランクとスメイアは今現在停戦状態ですが、その間に北方で同盟などを組まれると困る。スメイアからの使者はすでに来ているでしょうが、我々も動かないわけにはいかなかった。だからここに私たちがいるのです」


「物分りがよろしいのようね」


 レネアラは盛大に笑う。高慢な笑いは天井の高い応接室によく響いた。それが長く続いたのでヴァネッサはレネアラにそっと耳打ちした。


「失礼。まあいずれにせよ、あなた方をどう処するのかは明日以降に決めましょう。今日はここをお使いください。それではごゆっくり」


 レネアラは兵士二人を伴って満足気に部屋を後にした。その足取りは鼻歌を歌うネコのようだった。ヴァネッサも部屋を出ると侍女がひとりだけ残ったが、カベルは彼女に出て行くように言った。カベルはテーブルにあったワインを注いで一気に飲み干すと、さらにもう一杯注いでそれも飲み干した。

「私たちはどうなるの?」

 カシアがペトラの袖を引きながら言った。カベルはさらにもう一杯ワインを注ぐと、揺れる水面の落ち着くのをしばらく待った。屋根に積もった雪が落ちて窓に黒い影を走らせた。


「あの女が言っていたように、明日以降に決まります。しかし無闇に放逐されることはないでしょうからご安心ください」

「本当?」

「ええ」

「……本当にどうなってしまうのかしら……」ペトラはそう言うと床に座り込んだ。

「私たちにできることはありません。どうなるのかはわかりませんが、どうなってもいいように今は体を休めるべきです」


 カベルはワインを飲み干す。三人はそれ以上の議論をする力も必要もなかった。ペトラはカシアの肩を抱いて隣の寝室へ促した。そのままカシアは床へ入った。肌触りのよいベルベットのシーツは春うさぎの手触りのように柔らかく、妖精の吐息のように眠りへと引きずり込んだ。しかし暗闇の中に、外の雪が振り積もるようにカシアの目は不安のただ中に見開かれた。


 翌日、三人は沈黙の朝食を終えるとすることがなくなった。ペトラは気分転換に城内の散策を求めたがヴァネッサによって拒否された。カシアは寝室に引きこもり、カベルは応接室のソファに腰を下ろし、ペトラは檻に入れられた獣のように窓辺を行ったり来たりしていた。昼過ぎにヴァネッサがミドとニコラスを伴って入室してきた時も、三人は同じ状態だった。ペトラがカシアを呼ぼうとしたが、ヴァネッサがそれを引き止めた。


「お嬢さんはそのままで。お話は、あなた達が雇っていた傭兵に関するものです」


 カベルが立ち上がった。


「見つかったのか?」


「恐らく。名前はジーン、アル、それとベオ・ガルというサルーミ族も一緒でしたか?」


 ペトラはヴァネッサに近寄ると、天から光が差したかのように表情に一筋の晴れやかさが差した。


「ええ、まさしく。あの方たちは今どちらへ? もしかしてこの城へ向かっているのですか?」

「いいえ。昨日ギルドに隣接する酒場で破壊行為に及んだ容疑で逮捕されました」

「それじゃあ、今は牢内に? 牢屋はどこですか? いらっしゃるならば私たちの身分の証明と……」

「いいえ」ヴァネッサはペトラの言葉を遮った。「彼らは釈放されました。昨夜のことです。今はどこにいるのかわかりません」


 ペトラは力が抜けたようにソファにへたり込んだ。


「ならば、私がもう一度街に出て彼らを探してこよう」

「伯爵からもそうするように仰せつかっております。また、彼ら二人をつけますのでカベル様はお出かけください」

 カベルはペトラの肩に手を置いた。

「カシア様を頼む」


 ペトラはその手を取ろうとしたが、重い感触だけを残して海ヘビのようにすり抜けていった。


 カベルが戻ったのは夜遅くだった。カシアとペトラは夕食に手を付けずに彼を待っていた。朗報がもたらされると二人は手を握ったまま信じていたが、それは叶わなかった。


「彼らは見つからなかった。牢もギルドも宿屋も回ったが、どこにもいない。明日も聴き込みに行くが、正直に言って期待はできない」

「私たちも連れて行ってください。ここで何もせずに待っているのは……」

 カベルはミドとニコラスに答えを求めた。二人は顔を見合わせては渋い表情を見せた。

「わかっていると思うけれど、俺たちには権限がないんだよ。あんたらのことは全部ギャラニール伯爵に一任されているんだ」

「ああ、そうだな。しかし、俺たちの現状をどう思う?」

「現状ったって……なあ?」ミドはニコラスに助けを求めた。

「良くはねえな。どうなるってはっきり言えねえ」

「どうかお話くださいませんか。このままですと、不安が募るばかりで」

「今のところ、悪い待遇じゃないだろう? 悪いどころか正直言って俺たちより良いんだぜ。しっかりとしたゲスト待遇だ。だから安心して構えているのが一番だと思うよ。ああ、それと……」


 ニコラスがそこまで話すとヴァネッサがドアをノックした。


「カベルさんもお戻りでしたか。それで傭兵たちは?」


 カベルの報告を聞くと、ヴァネッサは予想した通りという顔で小さくうなづいた。


「この時期は多くの人が街を訪れます。ですから人探しは難しいでしょう。それに恐らく、もうこの街にはいないのではないでしょうか」

「やっぱりそう思うかい?」ミドが言った。

「ええ、私はそう思っています。それに、結局その傭兵が見つかったとして、インメルス家のお嬢様であることの証明に何ら寄与しないのではないでしょうか」

「どういうことですか?」


 ペトラは少々きつい調子で言うと、ヴァネッサの目つきがいささか鋭くなった。


「忌憚なく申し上げます。個人的な見解ですが、大切な方をそもそもたった二人の従者だけで寄越すのも信じられませんし……」

「それはスメイアを通る上で仕方のなかったこと。目立つわけにはいかなかったからだ。皇帝の許可も得ているし、そちら側にも通告しているはずだ」

「そうだとしても……いえ、それはわかりました。失礼」ヴァネッサは小さく咳払いをして居住まいを正した。「ベルメランクとの同盟を考えますと、メナスドールとしてはインメルス様をこのまま受け入れます。ただ、どのような処遇とするかが決まっておりません。ですから、こちらからも一度ベルメランクへ使者を送ることを検討していまして、対応に追われているのが実情なのです」


「俺たちは宙ぶらりんだと言うことか?」

「端的に言ってそうです」

「確認するが、我々が本物だと信用、あるいは認定しているんだな?」

「私はそう思っています。おそらく伯爵も」


「ならばこちらとしては何も問題ない」カベルはソファに腰を下ろして腕を組んだ。「俺が出発前にベルメランク帝国のハーベンサージ枢機卿に聞いたところでは、カシア様はムーンボルドー大公の次男レネス様の第三夫人として嫁がれるということだった。これに変更はないか?」

「今のところは……」

「ではそのように手続きを進めて欲しい」

「その権限はギャラニール伯爵にあるのです」

「そこなんだよ。それが厄介で……」


 ミドはヴァネッサの矢のような視線に気づいて自ら手で口を覆った。ヴァネッサが大きな咳払いをした。


「現在、手続きを行っているものと思われます。ですから、お三方には安心して旅の疲れを癒やしていただきたいと思います」


 カシアの沈んだ表情とペトラの表情の曇りは払拭しなかった。重ねてヴァネッサは、安心するように言ってミドとニコラスと共に部屋を後にした。カベルはカシアとペトラに休むように言った。カシアはペトラに一緒に寝るように頼んだ。カベルは応接室にひとりになると、部屋の入り口の明かりだけを残してソファに腰を下ろしたままただただじっと目を閉じていた。


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