消える足跡(5)
「おい、婆さん。一体どこへ行く気だ? それに……速いんだよ!」
アンドレはどたどたと不細工な走りを披露して、ひとり息を切らせていた。五十になる太った男は、絡む雪に足を取られて転び腰を打った。アルが駆け寄って手を差し伸べた。
「クソ! ババア、ちょっと待てよ!」
「なんだい、これくらいのことで。情けない。ついて来られないなら、そこで雪だるまにでもなってな!」
「なんだと、この野郎」
アンドレは立ち上がると、腰に電撃が走った。思わずうめいて腰を押さえた。
「婆さん、本当にどこへ行く気だ?」
ジーンもアルと共にアンドレに肩を貸して引き起こした。
「あそこさ。さあ、行くよ」
老婆は少しだけスピードを緩めて動き出した。すると、百メートルほど先に見えた一軒の家に入っていった。看板には《骨となった鴨》が描かれていた。扉を開けると軽やかな耳障りの良い鈴の音が響いた。
「ごめんなさいね、もう終わりなのよ」
中年女性が後片付けをしながら言った。
「そう言わんで」
店の女主人は老婆の声に驚いて目を丸くすると、すぐに片付けの手を止めた。
「おや、お婆ちゃん。久しぶりね」
「食べ物を分けておくれ。払いは後ろの黒い男だよ」
老婆がそう言うと、ジーンとアルがアンドレを連れて店に入ってきた。女主人は老婆に満面の笑みを見せた。
「残り物しかないけれど……」
女主人は店の奥に引っ込むと、バゲット、クネッケブロート――ライ麦の乾パン――、黒パンをいっぱいに詰めた籠を手に戻っていきた。
「あとは……」
次にじゃがいもとニンジン、玉ねぎ、アンチョビ、バターを、さらに鹿のソーセージとブラック・プディングに鹿の干し肉、、サラミ、コケモモとブルーベリーのジャムを出した。
「おやおや、しっかりあるじゃないか。いいねぇ、ヘリン。じゃんじゃん持っといで」
「足りなくなったら困るでしょう……」
女主人のヘリンは、干し鱈とスモークサーモン、カブとキャベツ、さらにいちご、ブルーベリー、プラム、サジーそれぞれの砂糖漬けを出してきた。
「こんだけあればいいわよね?」
老婆はアンチョビを摘んで、そのしょっぱさに顔をしかめてうれしそうに微笑んだ。
「悪いね、こんな時間に」
「こんな時間にしか来ないじゃないか」
「あたしがいたら、他のお客が寄り付かないじゃないか」
ヘリンは困った顔を作って、ベオとクーロを見た。
「おや、珍しい。サルーミ族の人を連れているなんて」
「野良犬どもを拾ったのさ。どこにも行き場がないんだよ、あたしと一緒でね」
「へえ、じゃあ今夜はなぐさめがあっていいねえ」
「そうだろう。だから食いもんをしこたまもらっていくよ。ほら、あんた。さっさと金を払いな」
ジーンはため息をついたが、アルも半分支払うと言い、二人は勘定を支払った。それぞれ手分けして食料を抱きかかえる。
「それじゃあね。またそのうち来るよ」
「はいよ」
アルたちが出て行くとすぐに店の明かりは落とされた。老婆は馬をけしかけるように全員に言った。
「ほうれ、さっさと行くよ。大事な食いもんを落とすんじゃないよ!」
老婆は手ぶらで先程と同じスピードで、街の北に向かって動き出した。右に左に暗闇を曲がっていく様子はすばしっこいドブネズミさながらだった。
「腰は大丈夫ですか?」アルはアンドレの隣についていた。
「ああ、悪いな。なんとかついて行けるよ。でも一体どこへ向かっているんだ? さっきから同じ所をぐるぐる回っているような気がするぜ」
「そうですね……でもついて行くしかありませんし」
老婆はあちこちに顔を向けながら通りから通りへ素早く進んでいった。そして突然立ち止まる。そこはレフォード北西部の学術区画との境にある橋だった。角にある三階建ての民家と民家の間の細い路地裏へ入って行くと、角を曲がって行き止まりになった。老婆はマンホールの蓋を開けた。
「ちゃんとついて来るんだよ。あと、あんまり騒ぐんじゃないよ」
アンドレは顔が引きつっているが、他の人間が老婆に続くのに諦めざるを得なかった。下水のひどい臭いがアルたちの鼻をつんざいた。一歩々々地下へ下りるたびにネズミの鳴き声が逃げる。閉じられた空気の濁った感覚が覆う。
「みんな入ったら、ちゃんと蓋を閉めておくれ」
最後に入ってきたジーンがマンホールの蓋を閉めると、老婆はランタンに火を着けた。老婆の顔はますます魔物のような不気味なものとして浮かび上がった。
「ちょっと狭いけど、行くよ」
下水道の中は澱んだ冷気と粘りつくような少しの暖気のコントラストとなっていた。六人の足音は不敵に反響し、天井から落ちる雫は陰に侘びしい。老婆はヘドロで滑りやすい石床をものともせずに進む。アルたちは遅れまいとついていこうとするが、アンドレが持っていた肉をひとつ落としてしまった。水に落ちる音とアンドレの短い叫びに、老婆は立ち止まった。
「ネズミにエサやってんじゃないよ。あんたら、若いにの本当にグズだねぇ」
それに対してアンドレばかりでなく、ベオもアルも反論し、クーロも「速いよ」と文句を重ねると、老婆は唾を吐いた。少しだけゆっくりとなったスピードの老婆は迷うことなく地下を進んでいく。それから程なくして布切れと木の戸板で乱雑に造られた壁が現れた。老婆はそこに取り付けられた扉を開けて入っていった。どこか禍々しい扉に、誰も後に続こうとしなかった。すると老婆が扉から不思議そうに顔をのぞかせた。
「なにやってんだい。さっさと入りな」
中に入ると一軒家と同じくらいの充分なスペースが広がり、壁に取り付けられた棚にはがらくたが所狭しと並べられている。ガラス、色とりどりの石、木彫や布で作られた女の子や犬、猫、鹿、熊などの野生動物の人形、鳥の羽や動物の毛皮で作られた帽子、艶のある革のブーツ、サファイアやルビーの入った銀細工のペンダント、魚型の柄をしたナイフ、メナスドール兵の剣の革鞘、くすんだ青銅の鏡、数多の頭蓋骨はヒト、イヌ、ネコ、ネズミ、クマ、トナカイ、カラス、カモなどが雑然と並べられている。木彫の仮面が空っぽの目で部屋を見下ろしている。シ=レプのような鼻の尖ったものもあれば、煤だらけの真っ黒の一つ目のものもある。琥珀色の液体の中にヘビやキノコなどが漬け込まれた瓶が並び、木のスプーンや陶器の欠けた器と錫の鍋、輝きを失った銀器たちが積んである。老婆は入口近くのグレインサックに手を突っ込んでとうもろこしをひとつかみして錫の皿に乗せると外に置いた。大人のこぶし大のネズミがあちこちから集まって皿に顔をうずめた。
「さてさて、早速メシにしようじゃないか」
老婆は部屋の奥にあるキッチンに食料を運び込ませた。かまどがひとつあるだけで水桶は空っぽだった。
「水はどうするんだ?」
「ほれ、汲んでくるんだ」
老婆はアンドレとベオに木桶と水瓶と次の言葉を投げつけた。
「間違っても下水を汲むんじゃないよ」
「道がわからんのだが……」
「俺もだ。お婆さん、一緒に来てくれないか?」とベオが言った。
老婆は顔をしかめて額に手をやった。
「グズだね、まったく!」
三人が戻ると老婆は濁ったハーブのスープを作り始め、クーロたちによって食卓が整えられた。出されたスープは薬草の匂いが強烈に鼻をついた。アルが恐る恐る口に運ぶ横で、クーロは空腹の犬のように飲み干しておかわりをよそっていた。
「たくさんお食べ。まだまだあるからね」
老婆はクーロの食べっぷりに目を細めて自慢気に大鍋を示した。スープは泥のように黒く沈み、所々に刻まれた野菜が顔を出している。口に入れると、最初にミント系ハーブの刺激が頭に抜けていくが、それが消えると次に塩辛さと肉の出汁の絡んだ旨味が広がる。肉の甘みもあって、複雑な味が波紋のように広がり続ける。アルには美味しさ以上に不味さが反復されて感じられるもので、頭の中には疑問符が浮かび続けた。
「おいしい?」
アルは念の為にクーロに訊ねた。
「おいしいよ!」
クーロの返事で老婆はいよいよ甲高い笑い声を上げて喜んだ。
「何かあったのか、アル?」
「いえ、別に……」
アルが振り返るとジーンが大鍋から器いっぱいにスープをよそっていた。アルの目が見開かれた。
「どうした?」
「いえ、別に……」
買ってきたパンを使ってスープを空にし、果物で口直しをする。満腹になったアルは、これはこれで悪くないような気分になっていた。
「婆さん、こんなところにひとりで住んでいるのか?」
アンドレは丸く膨らんだ腹を叩いた。
「”こんなところ”とは何だい!」
「いや、悪く言ったつもりはないんだ。下水に行くって時はビビったが、中にこんな立派な部屋がこさえられているなんて思いもしなかったもんでね」
「そうだよ。私もびっくりしちゃった」クーロはブドウを取って口に入れた。
「私のような爪弾き者にはこんな所にしか居場所がないのさ。さっきも言った通り、こいつらと一緒さ」
老婆の腕をいつの間にか一匹のネズミが這い回った。ネズミは老婆の手からパンのかけらを食べている。
「なぜ私たちに声をかけてくれたんだ?」ベオは壁の仮面が気になるようだった。
「……サルーミ族を見ると、助けたくなるのさ」
「なにゆえ?」
もう一匹小さなネズミが現れて、老婆のパンをかじり出した。
「私もサルーミだからね」
「そうだったんですか」
「ああ、半分だけだがね」
「お父さんかお母さんがサルーミ族ってこと?」クーロも老婆のマネをしてパンくずを手にすると、ネズミが這い登ってきた。
「そうだよ。母親がね」
「ずっとこの街で暮らして来られたのか?」
「いいや、あちこちを点々としていたんだよ。まあここに居着いてもう四十年くらいにはなるかね」
「ずっとこの地下にいるの?」
老婆は笑った。「まさか。でも、もう下水暮らしの方が長くなるかね」
「婆さん、ひとつ教えて欲しいことがある」ジーンが言った。「俺たちは人を探していてね。ミットーレックという商人を知らないか? あるいはギード。こそ泥のギードについて知っていたら教えて欲しい」
「何だい、藪から棒に」
老婆はシワだらけの手でネズミを弄んでいる。
「実は大切なものをギードと言う男に盗まれてしまったんだ。それでその男はミットーレックという商人と懇意にしているらしいと聞いたもので、もし知っていたら教えて欲しい」
ベオが頭を下げると、クーロも同じように老婆に頼んだ。老婆が他の三人を見ると、また彼らも同じようにした。老婆は天井を上目に見ると、頭を左右に揺らした。
「……『知っているよ』と言ったらどうするんだい?」
「情報料か……銀貨三枚でどうだ?」
「金、金、金……おい、黒いの。あんたは何でも金なのかい?」
「わかりやすいだろう」とジーンは肩をすくめた。
「金っていうのは、どこかの誰かが勝手に価値を保証しているだけで、その保証なんてのも吹けば飛ぶよなものなのさ。国が滅べば、金の価値もなくなる。そうなったらどうする? 傭兵で一匹狼を気取っちゃいるが、自分の価値観を権力者任せにしているなんて情けなくないのかい」
「傭兵の価値は、結局自分の腕にもかかっているんでね。国が滅ぼうが、金がなくなろうが、生きてさえいれば自分の食い扶持くらいはどうにでもなるものさ」
「格好つけだね」
「それが現実だからな」
ジーンは老婆の嫉み混じりの物言いにも顔色を変えることはなかった。
「それで、金が嫌なら何が望みなんだ?」
「……ふむ、どうしようか……。まず、あんたらの目的を話してもらおうか。それから考えよう」
「目的はさっき言った通り、盗まれたものを取り返さなければならないからだ」
「私の不注意で、預かっていた水晶のブレスレットを盗まれてしまった……」
ベオは氷猿のこと、鳥男のこと、そして魔女のことについて手短に老婆に説明した。老婆は話を聴いている間中ずっとネズミと遊んでいた。
「なんだかえらく厄介なことを抱え込んでいるね」
ベオは表情を曇らせてややうつむいた。他の全員は老婆をじっと見つめている。
「まあ可哀想な犬っころたちを拾ったもんだ……」老婆は意地悪い笑みを見せ、全員を見た。「さっきの話だがね。どっちも知っているよ」
「お婆ちゃん、本当?」
「ああ、本当にね。私がミットーレックだ」
ジーンを除いた全員が驚きの声を上げて喜んだ。
「なるほど。それで、ギードはブレスレットを持ってきたか?」
「いや、来てないね。そもそも私の所に来るとも限らんだろう」
「そうですね。それじゃあ他に彼が行くところは?」
「あの男は評判が悪いからね。この辺の商人には相手にされないだろうから、来るとしたら私のところだろう。私は今日一日留守にしていたから、これから来るのかね。あるいは旅商人のところに行ったのかもしれない。もしそうなったら諦めるしかないね。ブレスレットは商人から商人へ流れていくだろう」
「……どうしよう」
「お嬢ちゃん――クーロと言ったね? クーロ大丈夫だよ。可能性について話しただけさ。十中八九私のところへ来るだろうさ」
クーロはミットーレック婆の星のように輝く目を見つめた。
「ギードが来ないことにはできることはないからね。今日はもうお休み。悪いけど、あんたらはここで雑魚寝だがね」
ミットーレックはさっさと小さな自室へ引っ込み、アルたちが食器の片付けを終えて休もうとした時だった。木のドアの向こうから声がかけられた。全員が体を起こした。
「おーい、婆さん。いるか?」
間の抜けた小賢しい高めの声はギードのものだった。アルとジーンが剣を構えてドアの両側に張り込んだ。寝間着の老婆がいそいそと出てきた。
「あんたたち、静かにしてるんだよ。いいね!」
老婆は全員に小声できつく言いつけて、全員を台所へ押しやった。
「婆さん、いるんだろう? 入るぞ」
「ちょっとお待ち! 今開けてやるから」
老婆は一旦自室へ戻ると、すぐに黒い衣装を身につけて戻ってきた。ドアが開かれると、そこには出っ歯の小男が立っていた。
「なんだいギード。もう寝ようって時に来やがって」
「そう言うなよ、婆さん。いい品が手に入ったんだよ。入れてくれよ、なあ。いいだろう?」
ミットーレックは眠りを邪魔された苛立ちを微塵も隠そうとせずにギードをねめつけた。
「まあいいさ。入りな」
ギードは部屋に入るなり懐から袋を取り出した。テーブルの上に自慢気に乗せられたその袋からはネックレスがはみ出ていた。
「さあ、見てくれ。今回は良いもんばっかりだ」
ミットーレックは袋を逆さにして中身を全部テーブルに取り出した。小さな銀の指輪が転がって床に落ちそうなところを、ギードは素早く取って老婆の目の前に掲げてみせた。
「さあ、どうだ?」
ミットーレックはギードの手からそれを奪い取ると、部屋に戻ってルーペを持ってきた。金のペンダント、銀の指輪、ネックレス、ルースのルビー、サファイヤ、銀細工の手鏡。一つ一つを仔細に並べて選別していく。老婆の目の前で、ねずみ面の小男は足を組んでニヤついていた。老婆はそれが済むと目頭に手を当てながら背もたれに寄りかかった。
「どうだ、いいもんだろう?」ギードは棚に置かれた鳥の頭蓋骨を手に取った。
「銀貨一枚」
ギードは驚愕して間の抜けた声を上げた。
「おいおい、冗談はよしてくれ。銀貨十、いや十五はするぜ。どいつもこいつもこれ以上ない出物だぜ。よく見てくれよ」
小男は両手に拾い上げたアクセサリーを老婆の眼前に突きつけた。
「何言ってんだい。そのルビーは偽物だし、ペンダントは欠けている。そうなったら捌けやしない」
「おいおい、嘘だろう?」ギードは宝飾類を手にじっくりと観察した。「……これくらいなんとかなるだろう? どこか腕の良い職人に流すとかよ。やりようはいくらでもあるじゃねえか。ほれ、これなんかどうだ?」
ギードは懐から金の柄のナイフを取り出した。細かくバラの花が彫金されている。
「これは……」
ミットーレックは少し身を乗り出してナイフを鑑定した。
「これはいいね。これなら銀貨一枚だしてやろう」
「婆さん、そりゃないぜ。出るとこに出しゃ、銀貨五枚は固いぜ」
「じゃあそこに出しゃいいさ。ちょっと水を取ってくるよ」
ミットーレックはボサボサの頭をかきながら言った。席を立って台所へ入る。
「水晶のブレスレットは持ってきたか?」ベオは息を潜めて訊ねた。
「いいや。隠しているね」
ミットーレックは水を汲んで一口飲んでから、またギードの元へ戻っていった。
「銀貨三枚でどうだい?」
「ナイフ一本でか?」
「そうさ。そっちのガラクタと一緒なら五が精一杯だね」
ギードは顎に手をやってさすりながら考えた。
「まとめて十」
「だめだ。五が精一杯さ」
「そこをなんとか。八!」
「六。これ以上なにか言うならこの話はご破産だね」
「くっそ。じゃあそれでいいよ」
老婆は自室から金の入ったズタ袋を手に戻ると、ギードの顔目がけて投げつけた。ギードはそれを余裕で受け止めると、すかさず勘定を始めた。
「重畳なこって」とギードは笑みを浮かべながら銀貨に息を吹きかけて袖口で拭っている。
「それで、これだけかい?」
ミットーレックは買い付けた品物をそのままに、水を口に含んだ。
「これだけって……?」
「私に売りつけたいものさ」
老婆の視線はギードの懐から離れず、ギードもそれがわかるといやらしく笑った。
「婆さん、なんでわかったんだ?」
「私は鼻が聞くからね。臭いでわかるのさ。さっさと見せてみな」
ギードはもったいつけて懐に手を入れ、ゆっくりと別の袋を取り出した。ミットーレックのそばにやってくると、袋をそっとテーブルに置いた。ミットーレックが手を伸ばすと、ギードは、老婆を脅すように、袋の上に手を素早く差し入れた。
「おっと、こいつは慎重に頼むぜ。俺の見立てだと、銀貨二十、いや三十はくだらないね」
「誰もあんたの見立てを聞いちゃいないよ。さっさと見せな!」
ミットーレックはねずみ男の手を払いのけて袋を奪いとった。中から出てきたのはヘミアから預かった水晶のブレスレットだった。老婆はよく見えるようにそれをろうそくの炎にかざした。
「どうだい、変わったもんだろう? いわくつきの一品に違いないぜ」
ギードはテーブルに手をついてブレスレットの水晶越しに老婆を見つめた。水晶の中にギードの顔が分裂した。
「なるほど」
「どうだい?」
ギードはミットーレックの手からブレスレットを取ろうと手を伸ばした。その手がブレスレットにかかる前に、後ろからベオの手がギードの襟首をつかんでいた。
「それは返してもらおう」
「なんだ、おい! 何しやがる!」
ベオは片手でギードを持ち上げていた。こそ泥はベオの手をつかんで剥がそうとしたがかなわず、空中で足を泳がせた。ギードは振り返ろうとしたが、それもかなわなかったので、罵詈雑言を言い唾を飛ばした。気づけばジーンのナイフがその首に押し当てられていた。入り口にはアルとアンドレが立ちはだかっている。
「そう動くなよ。手が滑っても知らんぞ」
ナイフの冷たさにギードは戦慄して両手を挙げた。
「旦那、ジーンの旦那! お久しぶりです。いつお出になられたんですかい?」
「ついさっきさ。おまえもどさくさに紛れてうまく逃げ出したもんだな」
「お褒めいただいて何よりです。良ければ降ろしてくれたらありがたいんですがね」
「この泥棒!」クーロはギードを睨みつけながら、水晶のブレスレットを受け取った。
「やあ、お嬢ちゃん」ギードは冷や汗をかきながらヘラヘラと笑った。
「さて、どうする?」ジーンは手にしたナイフの角度を変えた。
「ちょっと待ってくれ、殺さないで! 悪かったよ。婆さん! 婆さんも何か言ってくれ」
「ここであんたとさよならだとは思わなんだよ。残念だね。このババアのために先に地獄に行ってておくれ」
老婆はあくびをしながら笑った。ギードは真顔になって目を見開いた。
「冗談でしょ、ねえ? 冗談だよね?」
「ひとりでとんずらするのは良かったが、ベオの大切なものを盗んでいったのがまずかったな。落とし前はどうする。ベオ?」
「このままオークのチボーにでも引き渡すか?」
「それだとまた逃げ出す恐れがある。それにあいつらは、こいつが戻っても喜びやしないだろう」
「やはり我々で落とし前をつけさせるのが良いか……」
「お金! そうだ、お金! 払います、払わせていただきます。ちょうど良かった。ついさっきそのババアと取引しまして、金が入ったんですよ。銀貨三枚でどうです?」
ジーンはベオを見たがベオは首を振った。
「銀貨五枚!」
ベオはなおも首を振った。ジーンはギードに顔を寄せて同じように首を振ってみせた。
「我々は金が欲しいんじゃない」
「――それじゃあどうしろと?」
「盗みを働いたんだ。手を切り落とすか? それとも面倒だから首にするか」
「いやいや、本当に冗談きついですよ。考えても見てください。俺の首取って、一体誰が喜ぶんです?」
「少なくともおまえを吊るしている奴は喜ぶだろう。それと今までおまえに物を盗られたやつ。それにこれから出るだろう被害者もな」
ジーンはさらにナイフの角度を変えた。するとギードの首から薄く血が滲んだ。
「おいおい、旦那! 血、血! 切れちゃってるよ!」
ジーンは薄く笑ってナイフを振りかぶった。斬閃が真一文字に走る。ギードは目をつぶって神に祈った。床に落ちるギードはその衝撃にのたうつように跳ねまわった。泣き喚いて首を押さえている。クーロの足に小突かれると我に返って座り込んだ。
「何やってんの?」
「……俺はてっきり首を斬られたと……ああ、あれ? 大丈夫だ……」
ギードは腰が抜けたまま立ち上がれずにへたり込んでいた。ベオがそれを両脇から抱え上げて椅子に座らせた。
「殺されると思ったか? サルーミ族の寛大さに感謝するんだな」ジーンはナイフでギードの頬を叩いた。
「お婆ちゃん家を血だらけにするわけにはいかないからね」
「そんなことをされた日には全員叩きだすどころの騒ぎじゃすまないね」
クーロとミットーレックが高笑いを上げる中、ギードもつられて力なく笑った。
「……良かった、良かったよ……でもなぜ俺がここへ来るとわかったんですか? いや、そもそもなんであんた方はミットーレックの婆さんのところにいるんですか?」
「オークがこの婆さんの名前を教えてくれたのさ」アンドレは言った。
「お婆ちゃんに出会えたのは偶然だけどね」
「そう、偶然ね」ミットーレックはうなづく。
「へえ、偶然ですか。偶然ね……ツイてねえな……クソッ!」ギードは再びうなだれた。
「首がつながっているだけツイているだろう」
ジーンの冗談にギードは一瞬苦笑したが、すぐに下を向いた。
「どれ、もう一度ブレスレットを見せておくれ」
クーロからブレスレットを受け取ったミットーレック婆はしわくちゃの手でブレスレットのいびつな水晶をひとつずつ確かめた。ミットーレックは気が済むとクーロの手につけてやった。
「もうなくすんじゃないよ」
「何かわかったか?」ジーンが訊ねた。
「魔女が作ったものっていうのは納得したよ」
「魔法がかかっているとか?」
「いや、そんなものはわからないさ。私もあんたらと同じ普通の人間だから。私のほうがただちょっとだけ長く生きて、ここで商売をしているとそういったいわくつきの物をいくつも見てきたから、何となく勘でわかるんだよ」
「魔女? 魔法? やっぱりそいつは特別な一品だったんだな!」
ギードは立ち上がってクーロのブレスレットを見ようとしたが、ベオに肩をつかまれて椅子に落とされた。ギードは不満顔でベオを睨むが、ベオに睨み返されるとねずみらしく縮こまった。
「魔女マリー・アートウッドについて知りませんか?」
「聞いたことはある。だが、どこにいるのかはわからないね」
「あんたら魔女を探しているんだろう?」
「だったら何だってんだ!」アンドレはギードに凄むが、それをジーンが止めた。
「前に言いましたよね。旅商人に当たったんですかい?」
「いや」
「だったら……」
「無駄だろうね。そこらの旅商人に情報が流れるようなものなら、私のとこにもきてるよ」
「手がかりはなしか……」ベオは口を真一文字に結んで肩を落とした。
「いや、そうでもないよ」
「心当たりがあるのか?」
「この先は学術区画だ。この国一番の学者、宗教家、錬金術士、宮廷楽師、芸術家、医者たち知識人が部屋の中でムスッとしているよ。知っている奴がいるから紹介してやろう」
ミットーレックは椅子から飛び降りると、壁にかかっていたマフラーをさっと取って首に巻いた。
「さあ、行くよ!」
「今から行くの? 夜中だよ」クーロは驚いた。
「ああ、お子様だからもう眠いんだね。だったらねずみたちと一緒に待っててもいいんだよ」ミットーレックは意地悪そうに横目で見た。
「そうだ、クーロ。我々だけで行ってくるから、待っててもいいぞ」
「行く、行くよ。大丈夫」




