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消える足跡(3)

 スヴィア人の英雄ムーンボルドーによって建造されたレフォード城は、三十を超える細い尖塔が特徴で、槍の城と呼ばれていた。オールム湖を左手にして、大公の本丸が一番奥に、その手前両翼に長男ヴァレスと次男レネスの居城が、少し離れてオールム湖北岸に長女ハイネの住まいが建てられていた。ヴァレスとレネスの居城の前に来訪した貴族が使ういくつかのゲストハウスが連なっている。レフォード城下は大まかに三つの区画――商業、学術、軍事――に分かれており、学術区を抜けると鬱蒼とした森といくつかの小さな湖が現れる。さらに奥に三キロほど進むと、太く凛とした針葉樹林の背後にレフォード城が見えてくる。メナスドール神話における主神アアールディンの妻にして森と湖の女神ユーリディアの涙によってできたと謂われ、太古の神々が沐浴をしたというオールム湖を傍らに、外壁は琥珀色、黄褐色をベースに濃淡の様々な大理石に覆われている。行跡をなぞる銀毛のオオカミの引くそりが二台、レフォード城へ向けて疾走する。後ろのそりに乗るカシアは、どこか遠い目をしている。


「書状の件は本当にどうしましょう?」ペトラは両手を祈るように組み合わせている。

「失くなってしまったものは仕方あるまい」

「でもここまで来て、もし……」

「もし、なんだ?」

「もし、受け入れて下さらなかったら……」


 カベルはペトラとカシアの表情をうかがった。二人とも不安を隠しきれていなかった。


「私が役目を果たす」


 カベルは鋭く言い放った。ペトラはカシアの手を固く握りしめた。

 三人は裏門から場内へ通された。そこは城へと続く砦内に造られた来客者用の待機室だった。外番の近衛兵たちは熊のように重厚な毛皮を身にまとい、その毛皮のブーツやベスト、手袋は体温を逃さないように厚く体を覆っている。内勤の者たちはそれよりも一、二枚ほど薄着だったが、それだけでも印象がだいぶ異なっている。カシアは部屋に入る前に、靴底の雪を足踏みして落とした。応対に出てきたのは、メナスドールの外省担当大臣補佐官を名乗る女性だった。


「ヴァネッサ・ダニオンです」


 うら若い女性の柔らかい声は、その部屋の暖かさに色を添えるようだった。


「私はカベル・アルヴァン。ベルメランクはインメルス公爵に仕えています」


 カベルは懐から勲章を取り出して見せた。


「こちらがカシア・インメルス様です。それと彼女は従者のペトラ」


 ヴァネッサは後ろ手に組んで直立し、三人を探るように眺めた。三人は旅の疲れに顔が黒ずみ、雪焼けによって赤らんでいる。


「ようこそいらっしゃいました。私が皆様のお世話をするように仰せつかっております。どうぞよろしく。皆様お疲れでしょう。まずはお部屋にご案内いたします」


 ヴァネッサは三人に付いて来るように言うと、肌理の粗い石の敷き詰められた薄暗い廊下を歩いて行った。小さな丸メガネの奥の瞳はカシアほどではないが青く静かで、血色の良い白い顔には薄くそばかすが浮いている。三つ編みされた豊かな髪はキタキツネのよう。


 城に入る前に一度外へ出ると、吹きつける外気の厳しい寒さにカシアとペトラは目をつぶった。急いで城の右翼側に入る。そこは磨かれて濡れたような艶が輝くゼノ花崗岩によって造られていた。白と薄いグレー地にほとんど黒に近い紺色の尖状模様が走る様は清廉さと高潔さを表しているようだ。床にはワインカラーの落ち着いた絨毯。壁面を飾る燭台の意匠には妖精があしらわれている。また、ヤマブドウの蔦で編んだタペストリーが廊下に長く飾られている。雪と風と水をモチーフにした柄で、北国らしさを十二分に表していた。メープル材で造られたスタンドテーブルに乗る花瓶にも、色とりどりの花とその周りを飛ぶ妖精が描かれている。

三階の背の高い赤い扉の客室へと通された三人は、室内の暖かさに全身の力が解けた。


「まずは湯浴みの準備をさせましょう。少し休んで、それからお話をいたしましょう」


 ヴァネッサが出て行くと、早速侍女が二人現れて奥の扉へと消えた。侍女たちは年若いが、一挙手一投足が正確で機敏だった。浴槽に湯が張られ、カシアが呼ばれる。侍女たちに服を脱がされると、カシアは恥ずかしがった。


「ひとりで大丈夫です」

「そう遠慮なさらず。ほら」

「さあ」


 声の反響は温かな湯気にぼかされ、侍女はたおやかな笑い声を上げてカシアの手を取った。頭からお湯をかけられ、淡いバラ色のシャボンがカシアを包む。肌表面を流れるお湯はたゆたう球体を形作る。カシアの髪と身体を石鹸の香りが覆うと羞恥心は泡に溺れ、侍女たちのするに身を任せた。目をつぶって両腕を鳥の羽のように開く。侍女たちはカナリヤのおしゃべりのようにカシアの肌艶と肌理をほめながら、てきぱきとカシアの全身を洗っていく。旅の垢が落とされると、カシアは排水口へ向かう湯を目で追った。


「お手をどうぞ。滑りやすいですから気をつけてください」


 侍女はカシアの頭にタオルを巻くと、脱ぎ捨てられた衣服をたたんで籠に入れた。


「お着替えはこちらに置いておきます。それでは、ごゆっくりどうぞ」


 二人が出ていきドアが締められると、カシアは天井を仰いで息をひとつ。腕と腕を上げて脇の下を臭いでみる。獣臭さは消えていた。それから湯船に顎まで浸かると、カシアは溶けてしまいそうだった。故郷を離れた時のこと、旅の出来事を思い返した。かじかんでいた指に血液が行き届くと、皮膚に電気が流れるように感じた。天井から雫が落ちてカシアの額を打った。


「私は……私はなんでここにいるんだっけ……?」


 カシアはそう口から出るとお風呂の中に潜っていった。


 ペトラとカベルは別室に案内されて身体を清めた。無防備になることを恐れたカベルは、自分を放っておくように言ったが、侍女たちの――カシアに付いたのとは別の年増で肥えた女たちだった――強い奨めによって、身体を洗って着替えることに応じた。綿の肌着の真新しい手触り。与えられた上下の衣類は白く柔らかい。その上に着るウールの着物――カベルはポンチョ風の上着とオーバーパンツ、ペトラはワンピース風――はブラウンを基調にグレーと赤の杢調で、厚地の割に動きやすいものだった。二人は着替え終えると、しばらくその別室で待機させられた。


「親書の件はどういたしましょう?」

「正直に話す」

「信じてもらえるでしょうか?」

「疑ったところで向こうも仕方あるまい。さっき見せた俺の勲章は疑われてはいなかったようだ」

「……わかりました。そうするしかなさそうね」


 カシアに付いていた侍女のひとり――黒髪を肩まで伸ばした金色の目の女だった――がやってきて、二人をカシアの待つ部屋へと案内した。カシアもペトラと同じ厚手のウールのワンピースを着させられていた。


「同じね、ペトラ」


 カシアは両手を広げながら一回転して見せた。ペトラも同じように両手を広げると笑顔で返事した。


「カベルも似合っているよ」

「ありがとうございます」


 無表情のままのカベルをカシアは笑った。扉が開かれてヴァネッサ・ダニオンが入室した。


「ギャラニール伯爵が見えるまで、どうぞおくつろぎください。まもなくお食事もご用意できます」

「あの、すみません……」


 ペトラはヴァネッサの前に出るとカベルに目配せした。彼女はなかなか言い出せずにまごついてしまった。


「どうかしましたか。何か不満な点でもございましたか?」


「いえ、そうではなくて。実は……」ペトラは唾を飲み込んだ。「実は、こちらへお持ちするはずだった親書を失くしてしまいまして……」


 ヴァネッサは驚きを隠せなかった。

「失くした?」

「正確には、奪われてしまったということだ」


「一体何者にですか?」

「ラシュ族とかいう小人の集団だ。山越えの際に襲われて、荷物をほとんど奪われた。十人、いや二十人を超える集団だった。逃げるのが精一杯だった」

「なるほど、それはお気の毒に。わかりました。こちらでお待ちください」


 ヴァネッサは侍女たちに食事をお持ちするように言いつけ部屋を後にした。速やかに運ばれた食事は、オニオンスープ、牛肉のステーキ、鮭のグリルなど最大限の歓待を表したものだったが、カシアとペトラはどことなく居心地の悪い雰囲気を感じ取り、その味が大して感じられなかった。食事を終えてほどなくするとドアがノックされた。四人の兵士が入室し、ヴァネッサ補佐官が続く。そして、銀狐の毛皮とウールのコートの下からぴったりとした紫のシルクのドレスを覗かせ、金髪をオールバックにした五十絡みの貴婦人がゆっくりとした足取りで入ってきた。


「……それで、この娘がそうだと?」

「はい、こちらがカシア・インメルス様です」

「公爵? 子爵の娘だったかしら?」

「スルク・インメルス子爵の娘です。レッジ・インメルス公爵の姪になります」

「しかし、証明できるものがないとなれば……」


 貴婦人はあきれたようにもおどけたようにも見える表情でヴァネッサを見た。


「……あの、すみません。この度は、大変お世話になっております」


 ペトラが話をしている二人の前に出て頭を下げた。

「……こちらは?」


「私はカシア・インメルス様の従者ペトラ・クラステムという者です」


 貴婦人はペトラを上から下まで品定めをするように眺めると、合点のいったようにうなづいて手にしていた扇子を振りながらヴァネッサに言った。


「道理で」

「失礼。ご挨拶が遅れました。こちらはメナスドール公国外省担当大臣レネアラ・ギャラニール伯爵になります」


 ギャラニールはミンクのマフラーをさすりながらカシアら三人をどこか倦んだ目で見た。


「レネアラ・ギャラニールと申します。どうぞよろしく」

「私はカベル・アルヴァン。カシア・インメルス様に仕えるベルメランクの騎士です」


 カベルは袋から自らの勲章を取り出して皆に示した。レネアラはそれを確認すると納得したようにうなづいた。


「道中、ラシュ族の襲撃に遭いました。大変な数で襲われました。それで、私達は着の身着のまま、逃げ出すのに精一杯でした」


「それは大変だったことでしょう。ラシュ族は野蛮な者たち。私たちも手を焼かされております。それで、あなた方は三人でこの北の地までいらしたの?」


「いえ、傭兵を雇っておりました」

「その者たちはラシュ族にやられたのかしら?」

「いえ、彼らの奮闘のおかげで逃げ延びられたのです」

「おやおや」


「……慣れない雪の中、あの大人数を相手に……あの人たちには、本当に助けられました」ペトラが上目遣いにレネアラの様子をうかがった。


「でしょうね。皆、雪には大変苦労すると聞きます。特に南の方にとっては。それで、その傭兵たちは?」

「レフォードまでの護衛という契約でしたので、街で報酬を渡して別れました」カベルは淡々と説明をした。


「おやまあ」レネアラは仰々しく驚いてみせた。


「ギャラニール伯爵、何か?」

「その傭兵が怪しいのではありませんか?」

「と言いますと?」

「鈍いですわね。ラシュ族の襲撃はその傭兵の手引によるものなのではないかということです」

「そんな!」


 カシアが叫んだので、室内の全員が彼女を見た。


「それはあり得ないように思います」カベルが続けた。

「あり得ないということこそ疑ってみるべきです。その者たちの身元はわかってらっしゃる?」

「ええ、もちろん。ベルメランク帝国のしかるべき人間に手配させました。出身はスメイアですが……」


「それです! あなた方は政敵の傭兵を雇っていたんですか? 信じられません。敵側の人間というものは、あらゆる手段を用いてこちらを貶めようと躍起になるものです」


「伯爵、それはあり得ません。私も何度か直接脅しをかけましたが、そういったことをする気配は微塵もありませんでした」


「それはどうだか。計画を練って、何としてもそれを成し遂げようとしていたのでしょう。簡単な脅し、わかりやすい威嚇には対応できるように訓練していたのでしょう」


「何のために?」


「何のためですって。傭兵ですよ? 金のために決まっています」


 カベルは静かに首を振った。「伯爵、我々は彼らに充分な報酬を支払いました。当初提示した額の倍です。彼らが一年か二年、しっかりと働いて得られる額だと思います」


「甘い、甘いですわね、あなた。ベルメランクの騎士といえど、殿方はみんな世事を、庶民を、人間を侮っています。なまじ腕っぷしに自信があるといけませんわ。最後は何でも暴力に訴えればいいとお考えなのです。それはラシュ族のような蛮族とどこが違うのでしょう。そんなもの、獣と同義ですわ。そういった考えは即刻改めるべきです。さもないと、今回のように詐術にはめられて、財産を失うはめになるんです」


 レネアラの自信に満ちた表情をカベルは無感動に見つめている。それから彼はペトラとカシアを見るが、二人は不安に沈められていた。


「伯爵、そうであるならば、我々にどうしろと?」

「この天気ですから、傭兵はまだ遠くへは行っていないはずです。すぐに追いかけて、捕まえるべきです」

「確かに、彼らはしばらく街の宿にいると言っていました」

「ならば、すぐに街に戻ってその者たちを拘束すべきです」


 カベルは内心呆れていたが、表情を崩さぬまま話を続けた。


「お言葉ですが、もしも彼らがラシュ族の間者だとすれば、わざわざ街に残ろうとするのでしょうか?」


「それが嘘の可能性もあります。いずれにせよ、可能性を当たるべきですわ」


 レネアラ・ギャラニールの断定的で独善的態度にカベルは言葉を返すことができなかった。


「あなた方は努力すべきです。己の身元を証明すべく、最大限努力するべきなのです。今、あなた方は偽物の可能性があるということですよ。誰かどこぞの馬の骨が、私たちを騙そうとしている。そう思われても仕方ないということですよ。今すぐこの場から叩き出されても、文句が言えない立場だということを自覚なさい。しかし、そうせずにこうして機会を与えているのは、この国には寛容さの精神があるからです。さあ、それがわかったら、すぐに街へ戻りなさい」


「わかりました。私が戻って彼らを探し出します。その間カシア様とペトラをお願いします」

「ならば先程の勲章をお預かりできますか?」

「構いませんが、なぜでしょうか?」カベルはすでに勲章の入った袋を差し出しながら訊ねた。

「本物かどうか、もっとよく知る人間に改めて確認させたいのです。構いませんね?」

「もちろんです」


 カベルがそう言う前に、すでにレネアラは勲章の入った袋を手に取っていた。それをヴァネッサに渡すと、彼女も部屋を後にした。


「兵を二人お貸ししましょう」

「感謝します」


 カベルはメナスドール兵二人と共に出て行った。レネアラはそれを見送ると、カシアに向き直った。


「……さて、議論の続きです。しかし、親書があったとて、それが身分の証拠になるのでしょうか? あなたが本当に本物のインメルス家の娘であると、紙切れ一枚で証明されるのでしょうか?」

「何を」ペトラはレネアラの冷淡な物言いに思わず口を挟んでしまった。


「黙りなさい、下女が!」


 ペトラもカシアもあまりの迫力に思わず目をつぶった。レネアラはソファに腰を下ろすと、テーブルに乗っていたブドウをひとつ摘んで口にした。


「あなたはベルメランクに売られたんです。我らが湖の騎士団のジェノス将軍への供物として。でも、これからどうなるか……いや、どうするかは……」


 レネアラは自らワインを注ぐと、カシアとペトラの怯える目を嘲笑いながら満足そうに飲み干した。

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