地に踏み、風に歩む(3)
アルはトムとラザフォードの二人を引き起こすと、足を折ったラザフォードの馬を介錯した。三人はすぐに商人を追い、すぐに追いつくことが出来た。彼らは十数メートル先に馬車を停めて、息をひそめていた。神父が暗がりから現れ、傭兵たちに手を振った。
。
「みなさん、無事でしょうか?」
「『かすり傷だぜ』と言いたいが、だいぶやられたよ」トムがアザだらけになった顔で微笑んだ。
「私は何とか大丈夫です。むしろ皆さんの方は?」
「奥様も、子どもたちもケガはありませんが、ひどく怯えています。仕方ないことです。馬車は、幌が破かれましたが、荷物は無事のようです」
「ああ、良かった。無事でしたか。みなさん、ありがとうございます。適当な場所にキャンプを張って、休憩しましょう」
ストルフ・メッツトープは疲れた顔で提案した。一同はうなづく。のろのろ進む馬車。月明かりが森の所々にうっすらとその光をたたえはじめて小一時間が過ぎたころ、ようやくキャンプができそうなスペースを見つけた。すでにメッツトープ母子は眠っていたが、母親だけ起きだしてみんなのためにオニオンスープをこしらえた。
「道は合っているんですか?」
アルがストルフに訊ねた。彼は眉間に皺を寄せた。
「ええ、恐らく。充分間に合うはずです。だから心配は要らないでしょう」
商人は平穏を装っていたが、声音の端々に不安をにじませていた。アルはそれ以上何も言わなかった。
「そうだな、とにかく休もうや」トムは肩肘を支えに、半ば横になった姿勢でくつろいでいた。
「そうしよう、君らはもう休んでくれ」
トムとラザフォードは紅茶のカップを飲み干しながら言った。
「見張りは任せてください」アルは薪を火に投げ入れた。
「私もまぜてください。それくらいならば力になれるでしょう」神父が言った。
ラザフォードがうなづく。
「交代でしよう。最初は、神父に。次はアル君が。最後に私でどうだい?」
「俺もいるぜ」トムが割って入る。
「君はその傷だ。少し休んでくれ」
ラザフォードは制するように言った。トムは笑う。「そうかい、それじゃそうさせてもらうとするか。どのみち痛くて眠れねえだろうがな」
アルは周辺をぐるりと索敵しにいった。リスや野ねずみらしき小動物の影とミミズクの試すような声が響く穏やかさがあった。焚き火が遠くの点に見えるところまで進んでいったが、道幅が広がるようなところには行き当たらなかった。
「神父様、交代しましょう。休んでください」
「ありがとう。大丈夫そうですか」
「近くには誰もいませんでした。問題ありません」
「旅慣れているつもりでも――神の試練なのでしょう――、不安は尽きぬものです」
「そうかも知れませんね」
「こうして自然に身を寄せていると、自分の無力さを痛感します。同時に、自然の、神の偉大さを感じるのです」
「私はそういったことを考えたことはありませんでした」
神父は笑う。
「私も、若い頃はそうでしたよ、それで良いのです。然るべきときに、然るべきものが与えられるでしょう」
アルは曖昧に笑った。神父はひげをさすりながら微笑みかけた。
「……さて……それでは私もそろそろ休ませていただきます」
熾のはぜる音のみが時を刻んでいる。アルはときおり周囲を歩きまわっては、物思いにふけった。仕事の意味と、自分の役割について。アルはそれらの問の無意味さを笑った。今は少なくとも、明日の昼までに無事にアメントースへ到着することだけを考えればいいのだと。
ラザフォードが目を覚ました。
「異常はないか?」
「特に何も。静かなものですよ」
「そうか、恐らくあと二時間もすれば出発となるだろう。時間はないが、君も休んでくれ」
「そうします」
アルは火の番をラザフォードに託すと、ブランケットにくるまって湿った樫の倒木に身をもたせると目を閉じた。彼は眠りに落ちたのもつかの間、すぐさまドゥ神父に声をかけられた。
「そろそろ出発だそうです」神父は落ち着いた声で言った。神父はアルに紅茶のカップを手渡した。
「わかりました、ありがとうございます」
アルはすぐさま起きあがると、馬の準備を整えた。メッツトープ母子は馬車で寝かせたまま、ストルフ、ラザフォード、トムの三人も出発の準備を始めた。一匹の羽虫が飛んできて、消えかけた焚き火の上を探っている。
「具合はどうですか?」
トムの顔はまぶたを中心にひどく腫れ上がっていた。「義務を免除され、休ませてもらったからな。平気さ」
「馬が足りませんから、トムさんは馬車に乗ってください」
「それがいいだろう。私が先頭、アル君は後ろを頼む」ラザフォードが言った。
「わかったよ。俺は御者台で行くとするか」
馬車が静かに進み始めた。一行はしばらく無言のままシンの森を突き進んでいった。途中、十匹ほどのゴブリンがうろつくのに出くわし、一行は無用な戦闘を避けるためゴブリンがどこかへ去るのを待った。ラザフォードがグールを一匹仕留めた以外は野犬やイノシシが出没する程度で、確実に森を進んでいく。
霧の濃い夜、周囲の不穏さにいち早く気づいたのはアルだった。彼は馬車の隣につけて言った。
「急いだほうがいい、スピードを速めましょう」
「何かありましたか?」ストルフが訊ねた。
「……はっきりとはわかりませんが、何か……でも、少し急いだほうがいい」
ラザフォードもスピードを落として馬車に近づいてきた。
「どうした?」
「スピードを上げてくれってさ」
「わかった、少し急ぐとしよう」
「大丈夫……?」
アンナも起きだして、馬車から顔を出して不安な表情をのぞかせていた。馬にひと振り鞭を入れると、馬車は速度を上げた。十分ほど経った頃、分かれ道に行き当たった。
「どちらに行きましょうか?」
ラザフォードが商人に聞いた。ストルフは右手側を指した。
「北西に行けば良いので、こちらでしょう」
枝葉の深みの底で夜霧と暗闇に抱かれていた一行は、方角を正確に知る術のないことはわかっていたので、商人の示す方角に進んでいくことに異論を挟む者はいなかった。その後、二、三度分かれ道に遭遇し、その都度商人にしたがって進んでいった。重苦しい雰囲気が立ち込めていたが、ふと道が広がった。
「走れ! 早く!」
アルは御者台へ向かって叫んだ。続けて荷台をさやを付けたまま剣で叩いた。それに反応した馬車馬はいななき、急にスピードを上げた。馬車が大きく揺れる。すぐにストルフが後ろに向けて怒鳴った。
「一体何があった?」
「何か来るぞ!」
アルはすでにギャロップの上で体をひねり、右後方の茂みに弓矢を構えている。トムは幌の骨組みに手をかけ剣を構え、後方――アルの見つめる方向に目を光らせている。神父とアンナが幌の隙間から心配そうに顔を覗かせる。アルは矢を放った。その矢は茂みに消える。突然、アルのすぐ横の茂みがかきわけられ、黒い影が迫りきた。アルは立て続けに三射した。影が灌木の枝を蹴散らして、アルに飛びかかった。大きく開かれた口から、鋭い牙とよだれが野蛮に飛び散っている。灰色の巨大なオオカミ――右の顔に黒い点々の毛が斑に生えており、左の耳からは出血していた――が、首を横倒しに、アルの馬の右後ろ足めがけて食いつこうとした。激しく蹴りあげられた蹄に、オオカミの牙が迫る。アルの矢に気づいたオオカミはすかさず茂みに突っ込んで、その狙いを外しにかかる。少し小さめの二匹目、三匹目が馬車後方に飛び出す。獣らの咆哮が鋭く闇を切り裂いた。獲物に狂うオオカミの双眸はひたすらに血と肉を求めて燃え上がり、馬車めがけて猛進していた。
後方の異変に気づいたラザフォードが左手に槍をたずさえて、馬車の左手前方につけた。
「大丈夫か、敵は何だ?」
「オオカミだ! 二、三匹だろう」トムが答える。
ラザフォードがうなづいて、すぐに馬車後方へ下がろうとした。そのとき、左手側の茂みから別のオオカミが飛び出して来た。ラザフォードの左腕をその牙が捕らえる。鋭い牙は肉に食い込み、血がほとばしる。ラザフォードは短くうめき、オオカミの顔面に右の拳を、二発、三発叩きこんだ。が、オオカミの牙はますます腕に食い込んでいく。すぐさま馬を道の際まで寄せると、大きく腕を振りかぶって木の幹にオオカミを叩きつけた。左腕には芯に響く大きな鈍い衝撃が走った。オオカミは金属のこすれるような甲高い悲鳴を上げて草むらの中へ吹き飛んでいった。彼は自分の筋張った腕を抱えるようにしながら傷口をおさえ歯を食いしばった。
アルの矢が立て続けに放たれる。茂みを猛然と駈けるオオカミらは、その身を木の陰に上手く隠しながら迫ってきた。矢が小さめの白っぽいオオカミの胴体を射た。突き刺さった衝撃で、オオカミは身をくねらせながら転がった。灰色のオオカミの爪が、アルの馬の足にかかる。アルは鐙を、鞍を駆け上がり、馬車の荷台へと飛んだ。馬はオオカミと絡み合いながら、悲痛な叫びを残し後方の草むらへ消えた。ひるがえる幌の縁にアルの手がかかる。アルを引きずりながら、馬車は突き進んでいく。
「ちくしょう、犬っころめ。大丈夫か!」
トムが身を乗り出して叫んだ。神父は手を伸ばしてアルの腕をつかむと、一気に引き上げる。
「大丈夫だ! オオカミは?」アルが叫び返した。神父が幌をめくり上げ、アルは弓を構えた。
「こっちだ!」
ラザフォードの声が響く。皆が左側に目を向けた。馬車のすぐそばに三匹の――先ほどの灰色のオオカミよりは一回り小さい――オオカミが並走している。アルは身を乗り出すと、すぐさま射やった。真ん中を走っていたオオカミの首から顔面に矢が貫く。続けてその脇腹に一矢、突き刺さる。ラザフォードの馬に、オオカミの牙が迫った。トムがその間に剣を払った。オオカミは首を縮めるようにして、その剣撃をかわしていく。オオカミはすかさず狙いをトムに変えて飛びかかった。オオカミの狙いは外れ、車体に体当たりした。馬車の中から母子の短い悲鳴がした。車輪がオオカミを巻き込もうかと迫ったが、オオカミは馬車の下に潜り込んだ。後方に現れたそのオオカミに、アルが矢を放った。足元に刺さった矢に、オオカミは慄き飛びのいた。アルは身を乗り出して索敵を続けたが、馬車が速度を緩め始め、そのままのろのろと歩きの速度まで落ちていった。アルは荷台から下りると、御者台へと近づいた。
「オオカミはいなくなったみたいです。ケガをしたんですか?」
「ああ、クソッ! やられたよ」
ラザフォードは顔をしかめ傷口をおさえているが、その指の間から血が滴っている。アルは彼を馬から下ろすと、袖を破いて傷口を確かめた。
「これはひどいな。すぐに手当を」
アンナも馬車から降りると、その傷を見て声を上げた。アンナとアルは草むらをかき分けてドクダミを探しだすと摘めるだけ摘んで急いで戻った。アンナはそれをすりつぶしてラザフォードの傷口に塗り包帯を巻いた。独特のにおいが鼻をつんざく。
「腕は動かせますか?」アルが訊ねた。
ラザフォードは左手を握ったり開いたりしたが、唇を噛むようにして痛みを堪えた。「右腕がある。心配ない」
「オオカミは逃げていったよ。出発しよう」トムが言った。
ラザフォードが馬車に乗ることになり、代わりにアルが先導することになった。トムがアルに声をかける。
「俺の馬だ。よろしく頼むぜ」
「ええ、夜明けも近いでしょうし、森も間もなく抜けられると思います」
空の気配は未だ宵闇の群青で、星々は白く輝き瞬いている。吐く息は白く、アルの背中を汗が伝う。荷馬車は森を抜けるべく、変わらず霧に覆われたままの湿気た道を急いだ。
トムの馬が挙動を変えて身をよじる。すぐに異常を察知したアルは手綱を引いた。走らせすぎたのかと訝しんだが、すぐさま原因に気づいた。アルは馬を下りた。ストルフは馬車を止め息を呑んだ。ラザフォードとトムも馬車から下りる。二人は武器を手に、周囲に目を配った。アルは馬を馬車の近くへ誘導し、ひとり馬車の前に立った。白みはじめた道の先から近づくかすかな足音がする。霧の中に白い影が現れた。オオカミが一匹耳を立て、右へ左へと動きながら人間を警戒している。先ほどのオオカミとは違うようだった。アルはその足元へ矢を放った。驚いて身をかがめた姿勢をとったオオカミは、森の奥へと消えていった。
突如、巨大な影が霧の中から突っ込んできた。アルはとっさに手にしていた弓を盾にしたが、それは葦のように軽くへし折られ、突き飛ばされた。
「あれは……ウェアウルフだ!」トムが叫んだ。
たたみ掛けるように爪が振るわれた。アルは飛ばされた勢いのまま、後ろに飛び退いてその一撃をかわした。アルは剣を抜く。飛ぶように襲いかかり、払い斬りを放った。ウェアウルフは、バネのように飛び退いた。アルは連続で斬りかかったが、どれも空を切った。アルは一旦、間合いを取って仕切り直そうとした。ウェアウルフに正面を切るのを嫌い、じりじりと時計回りに回りこんでいく。ウェアウルフは身をかがめる。毛を逆立て、漆黒の深い眼の底には憤怒と激情が燃えている。喉を低く重たげに鳴らし続け、アルの動きに注視している。寸刻ウェアウルフの鳴き声が止まると、一気に襲いかかってきた。アルの防御は間に合わず、爪が肩の肉へ食い込み、地に組み伏せられた。牙が喉笛を噛み千切ろうと迫る。トムの突きがウェアウルフの眉間を襲う。ウェアウルフはとっさに顔を逸らした。その鎖骨部に剣がささる。トムは剣を深く差し込もうと力を込める。ウェアウルフは刀身をつかみ、大きな叫び声を上げて暴れだし、トムは思わず柄から手を離してしまった。ラザフォードが槍でなぎ払う。ウェアウルフは鼻面を斬られ、たまらず怯んだ。爪から解き放たれたアルは剣をウェアウルフの脇腹へ突き刺すと蹴りを入れた。
ウェアウルフの肉体が盛り上がる。肩から腕の筋肉が盛り上がり、太ももが引き絞られる。トムが斬りかかる。ウェアウルフはそれを見切り、さらにもう一撃をかいくぐると、右の強烈な一撃を振るった。トムは受け止めきれず、衝撃で膝が落ちた。追撃の爪が襲う。トムは間一髪、身を伏せてかわした。ウェアウルフはラザフォードが突きを放とうと構えた機先を制し、その槍を払いのけた。ウェアウルフは狙いを変えて馬車へ向かう。ラザフォードとアルは突き飛ばされた。襲いくる魔物の前に神父が立ちはだかったが、その恐怖におののいた馬が逃げ出そうと暴れ、立ち上がろうとしたため馬車が激しく揺れた。商人は必死に馬にしがみつく。ウェアウルフが馬に迫る直前だった。その背中に投げられたトムの短剣が刺さった。
「こっちだ、バカ野郎!」
トムはウェアウルフの背中に飛びつき、刺さった短剣を手に何度も突き立てた。ウェアウルフはトムを振り払うべく、痛みと興奮に暴れ始めた。
その間に、アルとアザフォードは馬車を下がらせた。トムは振り落とされ、ウェアウルフの爪が脇腹に入った。鈍い打撃音がする。トムは体を折り曲げ激しくのたうった。ウェアウルフがそこにのしかかり、激情に大きく口を開けたとき、アルの白刃は音もなく払われた。魔物は顔の傷口をおさえながら獣の咆哮を上げる。再び、アルの一閃が走る。ウェアウルフの腹に真一文字の線が入ると、腹圧と重力が魔物の臓物を引きずりだした。地に伏したその顔は斑毛に、左の耳が欠けていた。
「終わりました。行きましょう」
興奮した馬を落ち着かせ、トムとラザフォードを馬車に乗せると、商人は緊張のうちにそそくさとその場を後にした。
森を抜けると海のにおいがした。頬をなでる風が潮の香りを運び、染み付いた獣の血のにおいを洗えば、雲間からきらめく太陽が緊張を解いていく。道の凹凸も次第に均されていった。ウェアウルフとの戦いで負傷したトムとラザフォードの二人は、暖かな日差しと子どもの鼻歌に馬車の荷台でまどろみ、アルはドムとリリーを交代で馬に乗せて進んでいた。シンの森で怯えていた二人も、すっかり元気を取り戻していた。