消える足跡(2)
「ああ、ちくしょう。さっさと出しやがれってんだ!」
小男はイライラしながら石壁を蹴りつけた。
「おい、おまえ。名前は?」ジーンは腰掛けて腕組みをしている。
「何だよ。名前を聞くなら、先に名乗るのが礼儀ってもんだぜ」
「それは失礼したな。俺はジーンだ。それで名前は?」
「名前なんて聞いてどうするんだ、ちくしょう……ギードだよ」
「では、ギード。ここに来て何日になる?」
「もう一週間だな」
「何組かは出たり入ったりしているが、あんたは取り調べを受けないのか?」
「何べんも受けてるよ」
「どれくらいだ?」
「十年以上前からね」ギードは自慢気だった。
「なるほど。それじゃあ、通常初犯の人間がここを出るのには何日ほどかかるんだ?」
「早けりゃ当日に罰金払えば終わり。遅くても二三日だろうな。だが……」
「だが?」
「今はご覧の通り満員御礼だからな。もっと日がかかるだろうよ」
オークがやってくると、袋からパンをひとつ取り出して、自分の口に入れると、あとのパンを牢内へ投げ入れていった。ギードはオークをつかまえた。
「チボー、チボーの旦那よ。頼むよ、もう外へ出してくれよ」
「俺に、そんな力はない」
チボーは腕を掴んでいるギードを手を取った。ギードはその握力の強さに声を上げた。
「ちょっとは手加減しろ!」
「そっちが最初に手を出してきたんだ。俺は悪くない」
ギードは腕をさすりながら舌打ちした。チボーはゆっくりと牢屋から出て行った。
「おお痛え。腕が折れるかと思った。のろまのくせしやがって」
ギードは得意そうに笑いながらクーロに近づいた。
「何?」
「おっと、お嬢ちゃん。そんなに睨まないでくれよ。サルーミの旦那も」
ギードは両手を広げてサルーミ族の親子に友好の印を示した。
「ベオだ。それで何のようだ?」
「いえ、単に仲良くなりたくて。それだけです。お近づきの印にこれを」
ギードの手のひらには木の実やドライフルーツが乗っている。クーロは「おいしそう」と言って手を出したが、ベオはその手を止めた。クーロはベオにふくれっ面をして不満を表した。
「これは何だ?」
「さっき、チボーの奴から失敬しましてね。良かったら、一緒にどうですか?」
ギードはクルミをひとつ上に放ると口でキャッチした。得意げな顔でクルミを大仰に頬張るギードに、ベオは渋い表情を崩さなかった。
「手癖が悪いな」
ジーンはギードからレーズンを取って口にした。それからドライベリーをクーロに手渡してやると、サルーミ族の少女は目を閉じてその甘酸っぱさを噛み締めた。
「それで、何が望みだ?」
「”単に、お近づきになりたくて"。それだけじゃ駄目ですか?」
「いや、悪くない。本当にそれが目的ならな」
「ジーンの旦那。おいらは嘘は言いませんぜ」
「それがすでに嘘なんだろう?」
「疑り深いねえ。まあ、私が信用ないってのは今のところ仕方ないことですが、ここから上手く出してくれさえすれば、いいことがありますぜ」
「信用のない人間を信用しろ、か……」
「ギードと言ったな。ならば聞きたいことがある」ベオが二人の会話に割って入った。
「なんです?」
「私は魔女を探している。貴様は魔女の知り合いはいないか?」
「魔女。魔女ねえ」
ギードは思わず失笑した。しかしベオの真剣な表情を見て神妙な顔つきをして見せた。
「魔女はそもそも一般人を嫌いますから、レフォードにはひとりもいません。むしろサルーミ族の村なんかの方が、手がかりがあるんじゃありませんか?」
ベオは首を振った。
「なら、旅商人を当たるくらいしか思いつきませんがね」
「その旅商人にはどこで会える?」
「そこらじゅうで」
「馬鹿にしているのか?」
ベオはギードの胸ぐらをつかんだが、ジーンが止めた。ギードは咳き込みながら服を整えた。
「いや本当なんですって。今はちょうど精霊祭やってますからね。メナスドール中から商人が物を売りにやってきてますよ」
「情報収集のチャンスは今だ、ということだな」ジーンがベオに言った。
「その通りで。ですから、ここから出るのに口添えでもしてくれたら、ご協力できますがね」
「うれしい申し出だが、俺たちもツテがあるわけじゃない」
「そう言われりゃ、その通りか……」
「その男は頭イカれてるよ」
同房の別の男が話を笑うと、ギードはカッとなった。
「おい、豚野郎。勝手に話に入ってくるんじゃねえ」
「何だと、ドブネズミが!」
「豚がいきがりやがって。這いつくばって、餌漁りでもしてやがれ」
ギードはオークからちょろまかしたナッツをその男の足元へばらまいた。その瞬間、男のこめかみに青筋が雷のように浮かぶと、ギード目がけて頭から突進した。ギードは隣りにいたベオを軸に回り込んでかわすと、足を引っ掛けて男を顔面から壁に誘導した。激突の瞬間、男の首の肉が蛇腹のように縮こまった。そのまま朦朧とした牛の呻きみたいな声を上げてひっくり返った。鼻と口から出血し、血だらけの顔を天井に向けた。
「ざまあみろ」
「馬鹿野郎、やり過ぎだ。誰か人を呼んでくれ」
ジーンは気絶した男の頭を固定し、アルはその血を拭ってやった。アンドレが大声で外に呼びかけ続けた。周りの男たちは手を叩いて囃し立てる者と、呆れ顔をして知らんふりをする者に分かれていた。
「うるさいぞ、何事だ!」
ドアが乱暴に開かれると、オークのチボーが入ってきた。その後ろにはメナスドール軍の軍服――白地に水色のラインで縁取りされており、全体に銀糸の刺繍で紋章があしらわれている――を着たメガネの男が続く。神経質な眼差しで気難しそうに後ろに手を組んでいた。
「医者はいるか? 医者を呼べ」
「けが人です。運びだしてください」
チボーが男を振り返ると、男は面倒くさそうに追加の番兵を呼んだ。自分の要求を叫び出すものが出始め、房内の騒然とした空気の中、四人の番兵が入ってくると、気絶した男を担架に乗せて運びだした。腕は担架から力なく垂れ下がる。
「たかがケンカで……まったく……」
メガネの男はため息を残して去っていった。
「ため息をつきたいのはこっちも同じですよ」
「ひどい状態だったが、大丈夫だろうか?」アンドレは未だドアの先を見送っている。
「頭の骨にひびは入っていただろうが、死ぬことはあるまい」ジーンは手に付いた血をズボンで拭った。
「クーロ、大丈夫か?」
「ええ。でも、すごい音がした」
「そういえば、あの男は?」
アルは辺りを見回すが、ギードの姿が見当たらなかった。全員が顔を見合わせた。混乱の熱量の引かない房内は、ギードを見失っていた。
「上手く逃げ出しやがった」アンドレは憤慨した。
「単なるコソ泥じゃなかったようだ」
「兵士に言いますか?」
「そんな必要はない。俺たちにはもう関係ない話だ」
一日が終わろうとしている。牢の壁面に掲げられる燭台では、ろうそくが赤々と燃え上がっている。一人一つのパンを食べ終えた牢内の人々は、満足するはずもなく、その日の内の出所はあきらめて雑魚寝を始めた。その時、唐突に扉が開かれてチボーが入ってきた。
「おまえと、おまえ。ちょっと来い」
チボーはアルとジーンに手縄をかけて連れ出すと、最初に並ばされた部屋の隣りにある小部屋に入れられた。小さな机にメガネの男が座って書き物をしている。羽ペンの先のインクを何度もつけ直す様子は、どこか脅迫的にすら見えた。男はアルとジーンをちらとも見ずに書類に没頭している。アルは声をかけようとしたが、チボーに縄を引っ張られた。そしてチボーを含めて三人で待ちぼうけをした。男は書類を書き終えると、紙に息を吹きかけてメガネの位置を直した。外へ声をかけて部下を呼ぶと、書類を手渡した。
「マレノールさん、お連れしました」
チボーはタイミングを見計らって、リノーリオ・マレノールに声をかけた。彼は自分の前に立つ二人の犯罪者を形式的に見比べた。つくえの引き出しから小袋を取り出すと机の上に置いた。
「これは、君らのものだな?」
アルとジーンがカベルから得た報酬だった。二人はうなづいた。マレノールは中身を漁って金貨を取り出して思いきり噛んだ。自分の歯型を確認すると、二人に突きつけるようにした。
「ベルメランクで鋳造されたものだ」
「ああ、そうだ」
「なぜこれを持っている?」マレノールは机をげんこつで叩くと、チボーがその音に体を一瞬縮こまらせた。
「なぜって、仕事で得た報酬だ」
「何の仕事だ?」
「ある商人の護衛だよ」
「何の商人だ?」
「食料品だ。ドライフルーツなどを運んできた」
「どこからだ?」
「スメイアだ」
「スメイアとベルメランクは今戦争中だったはずではないか?」
「落ち着いているよ。こっちにはそういう話は入っていないのか?」
マレノールは納得のいかない顔をして座っている。机の下では貧乏ゆすりが始まっていた。
「これほど金貨を得るほどの仕事か?」
アルもジーンも顔を見合わせるが、どちらも答えなかった。
「食べ物を運ぶ。その護衛でこれほどの報酬を得られるものか!」
再びマレノールは机を叩いた。チボーもまた体を縮こまらせた。
「そこまで怒ることないじゃないですか。それはその時だけのものじゃありません。貯めてきた結果が、それなんです」
「なんだと? 口答えするな!」
マレノールはメガネを上げたその手で髪を撫で上げた。アルはマレノールのように不服そうな顔を見せたが、そのまま押し黙った。
「俺たちは店で少しトラブルになってしまっただけです。それほど面倒なことをしでかした訳ではないでしょう? そろそろ解放してくれてもいいんじゃないですか?」
マレノールは興奮して立ち上がると、拳を振り上げた。
「それを決めるのは私たちだ。お前たち犯罪者ではない。そもそもその物言いは何だ。おまえらは犯罪者なんだぞ。わかっているのか? 反省もなければ、国家に対する敬意もない。この時期はいつもそうだ。祭にかこつけてレフォードの秩序を脅かす輩が火にいる虫の如く集まってくる。おかげで仕事が終わらず、家に帰れない。どうしてくれる、犯罪者ども!」
チボーは頭をかいた。
「子どもの頃は純粋に祭を楽しめたのに。この時期をわくわくしながら待っていたのに。それが今は頭痛の種だ。おまえらクソどものおかげでな!」
マレノールは言い終えて肩を上下させながら腰を下ろした。それから咳払いをして小声で言った。
「……失礼、ちょっと興奮してしまった」
「すみませんでした」アルはうつむいたまま言った。
「連れて行け」
チボーはのそのそと縄を引いて二人を連れ出した。房へ戻る際に、何人かの文官や兵士が忙しそうに廊下を駆けて行った。窓のすぐ外では雪の舞うのが見え、家々の明かりが暗闇に滲んでいた。手をつなぎ家路につく親子。安楽椅子で編み物をする老婆。シチューの濃密な乳の匂いと塩漬け肉を焼いた香ばしさ。何よりも暖炉の炎の温もり。光の向こう、湯気の向こうにそれぞれの家庭の営みが見え隠れした。




