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北へ(17)

 アンドレは朝食の並ぶ食卓で震える手をずっと揉んでいた。ワインを口にするが、水よりも味気なかった。彼は妻に文句を言う。文句は三倍にして返された。

「それで、その人は死んでしまったのかい?」

 ヘミアは息子の動揺を目の当たりにし、事の詳細を聞くと青ざめた。

「僕たちはレフォードへ行きます。そこでシューバー医師に会うことができれば何かわかるかもしれません」

「いや、期待しないほうが良い。『シューバーは息子を遣わしたが、行方不明になった』。恐らくこれ以上の事実はないだろう」ジーンが言った。

「それじゃあどうしたらいいんですか?」ヘミアはジーンに助けを求めるように言った。

「何をしたいかによる。鳥の男と氷猿を追って、あんたたちはどうするつもりだ? 人殺しの責任を取れと言って、素直に聞くようには思えない。それにあんな魔術を使うような相手だ。剣は通じないんだろう? 俺にもどうすれば良いのかわからないのが正直なところだ」

「その化物が村を襲うなんてことは、ありえるんでしょうか?」ヘミアは口の中が乾いていた。

「鳥男と氷猿の狙いがわからない以上、何も言うことはできない。もちろん警戒するに越したことはない」

「その二匹こそ私の獲物だ、村長。鳥男はわからないが、氷猿に関しては、この村に因縁などはないだろう」

「本当ですか?」

「本当だ。私は何としても、奴らを始末せねばならない。しかし……」

「しかし……何です?」

「先程もこのジーンが言ったように、攻撃手段がわからない。剣も矢も通じないのが問題だ」

「そういうことでしたか……私の知り合いに魔術の心得のある者がおります」


 村長は立ち上がって、自室へと向かい、水晶のブレスレットを手に戻った。

「これを、どうぞ」


 ベオはブレスレットを受け取った。ひとつひとつの珠が真球に近いものから歪んだ楕円、ポイント形、両垂形など様々で、どこか禍々しさを感じさせるものだった。


「これは?」

「ノーラ・フラインという私の幼なじみがおります。彼女から贈られたものがそのブレスレットです。それを見せれば、私からの紹介だとわかるはずです」

「その人はどこにいるのですか?」

 ヘミアは首を振った。

「残念ながらわかりません。彼女はこの村の出身で、毛織物を生業とする家に産まれました。今は空き家になっていますが、私の家から三軒隣です。彼女が十歳になった時、彼女の一家は引っ越して行きました。それから手紙が来たのが、二十年前に一度だけ。その手紙には、魔女に弟子入りしたことと、そのブレスレットが同封されていたのです。居場所はわかりません」

「誰に弟子入りしたのかわかりますか?」

「マリー・アートウッド。北方魔女の長です」

「彼女の噂ならば、私も聞き及んでいる」ベオはうなづくが、険しい表情を作った。

「それなら、居場所がわかるんじゃありませんか?」


 アルの質問にヘミアは申し訳無さそうにした。


「彼女の存在はほとんどあまねく認知されています。けれど、誰も居場所を知らないのです」

「それじゃ結局何もわからないんですね」

「鍵となるのはそのブレスレットだと思います」

「なぜでしょうか?」ベオは水晶を光に透かして見るが、透過した光に変化は見られなかった。

「手紙には『変わらない友情のために、ブレスレットを送る』と結ばれていましたから」

「そんな大切なものを私に? これはお預かりできません」


 ベオは慌ててブレスレットを返そうとしたが、ヘミアはその手をそっと彼の方へ戻した。


「彼女は私の居場所を知っています。ですから会おうと思えばいつでも会いに来られるのです。しかしそうしない。あるいはできない事情があるのだと思います。つまり私が彼女に会いに行く時に必要なのが、このブレスレットということなのでしょう。ですから、どうかお役に立てていただきたいのです」

「しかし、それでは……」

「村のためです。ベオさんがその鳥の男と猿の魔物を退治してくれれば、私たちも安心できます」

「会ったばかりの私を信用してくださるのですか?」

「私は村長としてこの村を空ける訳にはいきませんから、そのブレスレットを活かす機会も得られないでしょう。それに、私はサルーミの人たちに悪い印象は持っていません。むしろ良き隣人と思っています。ですから、そのブレスレットをお渡しすることこそ、私が協力できることなのです。これはお互いのためです」

「わかりました、村長。これは必ずお返しに上がります」


 ベオは拳にしっかりとブレスレットを握った。


「ノーラに会ったら、『ヘミアがイチジクのクッキーを焼いて待っている』と伝えてちょうだい」

「イチジクのクッキーですか?」

「ええ、あの子と私の大好物。二人で母と一緒によく作ったわ」

「わかりました。必ず伝えましょう」

 出発の段になると、アンドレが再び犬ぞりを準備した。

「レフォードまで送っていくよ」

「宿と食事をいただいた上に、そりまでだなんて」


 ペトラは辞退しようとしたが、カシアとクーロは犬に抱きついて離れなかった。アルに吠えかかった犬も、カシアに抱きつかれて喜んでいるようだった。複雑な表情を見せるアルにカシアは満面の笑みを見せながら呼びかけた。

「ねえ、犬かわいいよ」

 カシアとクーロのおかげなのか、アルが近づいても犬たちの表情は穏やかだった。

「俺もレフォードに行って、少し情報を集めたいんだ。だから一緒に行こう」

「そういうことでしたら、お世話になります」

「ベオ、すまないが俺の馬に乗ってくれ」


 ジーンはベオに馬の手綱を差し出した。

「いいのか?」

「俺はアルと一緒に、あの魔物に乗って行く。機動性が段違いだからな。だから馬を頼む」

「出発しよう」


 カベルが馬上から全員に向けて言うと、ケイマス村を後にした。いくつかの段丘を乗り越えて雪の上を洋々と滑るそりで、カシアとクーロは明るい声を上げて喜んだ。犬ぞりの後ろをベオとカベルが進み、アルとジーンはその周囲を取り囲むようにして、自由に滑走していた。その日最初の休憩は昼をだいぶ過ぎた頃だった。

「レフォードまでは、ここからどれくらいかかりそうだ?」ジーンはアンドレに訊ねた。

「三日くらいだろうな。もう少し北上したら、後はずっと東へ向かう。道も良くなるから、順調に進めるだろう」

「敵は?」

「ほとんど出たことはないな。はぐれオオカミくらいか。盗賊どもも、さすがに凍え死んでいるからな」アンドレは高笑いをした。


 その日は早々にキャンプを張った。白い綿の厚布にてっぺんだけが水色の円錐状のテントで、ケイマス人の特徴的なものだという。

「サルーミ族のとは違ってシンプルだろう? でも、ちゃんと中は暖かく作ってあるから安心してくれ」


 アンドレのその言葉通り、暖を取るのには充分なものだった。犬を五匹ずつに分けて男性陣と女性陣のテントに入れた。犬の毛皮と体温が無類の温かさを提供したおかげで、雪中のテント生活は全く問題ないものとなった。犬と抱き合って眠ることが気に入ったのか、カシアは翌日もキャンプがしたいと言い張った。

「キャンプもいいが、今日はこの空き家を使おう」

「やだ」

「カシア様、今日は……」

「いやだ。キャンプがいいの!」


 アンドレに頑とした態度を崩さないカシアに根負けして、女性陣だけその日も空き家のすぐそばにテントを張ることになった。

「今日が最後のキャンプだ」

 空き家の暖炉の前でカベルがぽつりと言った。

「犬を気に入ってくれたのはうれしいよ」アンドレはスープをがつがつと口にしている。

「ここまで来られてうれしいですよ」アルは干し肉をかじった。

「明日、順調に行けばいいが」

「うちの犬に任せてくれれば、問題ないさ」


 ベオは食事を終えると、そっとひとりで外へ出た。テントから明かりと笑い声が漏れ、夜気をほころばせている。ベオは少し離れた位置にひとりで立っていた。

「どうかしましたか?」

 アルは耳の痛むような静けさを破って言った。

「いや、何も」

「そうですか」

「……君たちの旅はレフォードまでだということか……」

「ええ、とりあえずはその通りです」

「その後、どうするつもりだね?」

「氷猿の件ですか?」

「手伝ってくれるのが一番だという気持ちに変わりはないが、もし君が今の仕事を終えて、この国を出て行っても私は何とも思わないだろう。今はむしろそうした方がいいのでは、と思い始めてもいる。魔女に会える保証もない。魔女が協力してくれる保証もない」

「僕が狙われているのは事実です」

「だとしても、だ。氷猿――ボルソがどこまで君を追うのか。この国から出て行っても追うのかはわからない。明日にはレフォードだが、少し考えてみてくれ」

 ベオは空き家に戻ったが、アルは少しの間、外にとどまった。風のない夜、冷たい夜、星のない夜。白い吐息すら見えない。アルは自分の体が冷えていくのを感じながら、立ち止まっていた。思考だけが内奥の暗闇をぐるぐると巡っている。


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