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北へ(16)

「戻ったか。こっちだ」

 ベオが案内したのはケイマス村で一番大きな家で、老婆と息子夫婦、三人の孫が住んでいた。扉を開けたのはふっくらと丸い柔和な女と、彼女によく似た三人の子どもたちだった。二人の男の子は家の中でじゃれ合い、一番小さな女の子は母親の足にしっかりとつかまっていた。


「いらっしゃい、どうぞ中へ入って」

 顔同様に柔和な声で家の中に促されると、アルはあまりの温かさにあてられ目眩を覚えた。

「その傷、大変!」

「大丈夫です。かすり傷ですから」

「とんでもない。とにかくこちらへ!」


 二人はすぐさま洗い場へと通された。切り裂かれた革の鎧を脱いで、お湯で体を洗わせてもらう。


「傷に塗りますから、動かないで」


 軟膏はミントが配合されたもので、傷口に沁みた。胸の傷は深く、状況が落ち着いた今、脈動にうずいた。それでも洗いたての清潔な上着を貰うと、安堵のため息をつくことができた。


「主人の古いものですけれど」


 アルとカベルは礼を言って居間に戻る。そこには大きなテーブルに所狭しと食事が並べられており、アルはお腹が鳴るのをこらえきれなかった。クルミのパン、キノコとサーモンのクリームスープ、トナカイ肉の腸詰め、ニシンのオイル漬け、ロールキャベツ、マッシュポテト、ブルーベリーパイにコケモモ、ブルーベリー、クラウドベリーの三色のジャム。さらにワインとエール、ベリージュースが運ばれる。

 アルはこの家の主人らしき男に挨拶をすると、男は快活な笑顔――先ほどの女ととてもよく似ている――を見せて立ち上がると握手を求めてきた。


「ようこそ。私はアンドレ・シュベルトと言います。騒がしいでしょうが、どうぞくつろいでください」


 それから老婆の前にアルとカベルを招いた。


「私の母で、この村の村長です」

「ヘミアです。ようこそケイマス村へ」


 アンドレは走り回っている二人の息子を手慣れた様子で捕まえた。「ジョット、セッコ! お客さんが来ているんだ。少しはおとなしくしなさい」

 二人の息子は父親の手をするりと抜けだして、追いかけっこを再開した。ヘミアは孫の元気な様子に喜びと困惑の表情を見せた。


「申し訳ないわね、本当に騒がしくて」

 もうひとりの女の子は、クーロとカシアと一緒に暖炉の前に座ってお人形遊びをしている。

「山越えは大変でしたでしょう。今日はゆっくりするといいですよ」


 アンドレの妻、トーラが料理を運びながら子どもたちを叱りつけて食卓に着かせると、夕食が始まった。アルは早速スープを口に運んだ。キノコとトナカイの肉の出汁が効いたほっとする味だった。スープの温かさは、冷えきった体の芯を温めてくれた。その一口を皮切りに、アルは次々と料理に伸びる手を止められなかった。どれもが一手間、二手間かけた凝った味のものだった。


「ごちそうさまでした」

「あら、もういいの? まだ、ケーキがあるのよ」


 子どもたちは、クーロ、カシアを含めて五人でトーラの後へ続いた。彼らがキッチンから戻る手には、三種のベリーのたっぷりと乗ったケーキがあった。アルも切り分けられたケーキを受け取る。甘酸っぱさの奥から波のように押し寄せる甘さが舌をそよぎ、あっという間に平らげた。


「また氷猿が出ましたし、荷物はないし、散々ですよ」

 ベオが反対側のテーブルから身を乗り出した。

「何だって。それは本当なのか? なぜ早く言わなかった!」

「すみません」

「やつはいつ、どこで現れた?」

「僕らの荷馬車のところです。カベルに取り憑いていました」


 全員がカベルの見た。カベルは窓辺に寄りかかって外をうかがっている。


「大丈夫なのか?」ベオはカベルに訊ねた。

「俺は取り憑かれてなどいない。荷物を探していると後ろからあの化物が襲ってきた」

 ベオは二人を交互に見やって首をひねった。「どういうことだ?」

「恐らく、僕たちは幻を見せられたんだと思います」

「幻術か。それでどうしたんだ?」

「カベルが氷猿を後ろから真っ二つにしました」

「どういうことだ?」

「幻の世界のことだと思うんですが、氷猿はカベルから抜け出たんです。そうしたら彼が復活して、後ろから斬ったというわけです」

「カベル、あなたの認識は?」ベオは再びカベルを見た。

「辺りが一気に暗くなって、猿が現れては消える、を繰り返した。暗闇から攻撃された。俺は闇雲に反撃したが、空振りにイラついたよ。あちこち傷だらけだ」カベルは自分の顔や腕の傷を示した。

「それでどうやって斬った?」

「あの時はぼんやりと光が見えた。その光の先に気配があったから叩き斬った。それだけだ」

「それで、氷猿はどうした? 死んだのか?」

「いいえ。最後は爆発しましたが、恐らくそれも僕らに見せた幻です。ただし、怪我は幻じゃありませんでしたが」

 ベオは椅子に深く腰掛けた。アルには彼の表情がどこか安心したように見えた。


「その、氷猿ってのは一体何なのかね?」

 アンドレ・シュベルトはワインで真っ赤になった顔をほころばせている。

「化物だ。この辺りで見た者はいないのか?」

 アンドレは村長のヘミアに答えを求めるが、村長のヘミア・シュベルトも首を振って否定した。

「この辺りは雪深い土地で、人のつながりの密な場所です。もし凶悪な魔物の噂がたてば、たちどころに私たちの耳に入ることでしょう」

「そうだな。悪いが、猿の化物の話は初耳だ」


「猿、猿、ウッキッキ! ウッキ、ウッキ、ウッキッキ!」

 ジョット・シュベルトが歌い出し、寄り目をしながら指で鼻の穴を上にあげて見せた。弟のセッコと馬鹿笑いを始めたので、クーロもカシアも吹き出したが、兄弟は母親のげんこつを食らう羽目となった。


「その化物は、私の獲物だ。もし何か話が聞ければと思ったが……この村が無事ならば、良かった」

「ここは小さな村です。魔物が現れたら、ひとたまりもありません」

「母さん、そんときは、俺が守るさ」


 ヘミアはアンドレに困った表情を見せる。


「力ではどうしようもないこともあるのですよ」

「そりゃ、病気はどうしようもないさ。医者も死んじまったし」

「病気? 何かあったんですか?」

「ここから山へ行く途中に集落があったろう? そこで不治の病が流行りだしてね」

「そこで爺さんがひとりでいるのを見たぞ」ジーンはワインをおかわりした。

「それはありえない!」

「おじいさんが? まさか! あそこに住んでいた人たちは、私たちでみんな埋葬したんですよ」


 アンドレは立ち上がり、ヘミアは困惑していた。


「本当なんです。僕らははじめ、そこに泊めてもらおうとしたんですけれど、断られてしまってこちらの村へうかがったんです」

「……どんな……どんなじいさんだった?」

「どんなって、普通の人でした。頭は禿げていましたが、ヒゲがとても立派で、背はそう大きくありませんでしたが、骨の太いがっしりとした人でした」

「誰かしら……ゲールもイアティンも確かに……」

「モリッツのじいさんが一番年上だったが、確かに埋めたんだ。誰かが生きているなんて……」


「確かめに行くか?」ジーンは落ち着いている。

「……ああ、もちろん。見に行こうじゃないか」

「アンドレ、明日になさい」

「……気味悪い話だ。気になって仕方ない……」

「そうよ、あなた。今日はもう遅いわ」トーラはみんなのコップに飲み物を注いだ。

「ああ、そうだな。わかった、明日だ」

「俺たちもついて行こう。泊めてもらう礼だ。いいな?」ジーンはカベルに言った。

「好きにしろ」

「よし、明日の朝だ。俺はもう寝るぞ」


 アンドレは不安を払拭するようにエールを一気に飲み干すと、ずかずかと大股で寝室へと消えていった。アルたちもその日は休むことにした。アル、ジーンとベオの三人はベッド数の関係で牛小屋で眠ることになった。大地と風の匂いがかすかに香る干し草のベッドに寝そべると、アルはすぐに夢の世界へ誘われていった。が、ジーンがアルに話しかけてきた。


「大丈夫か?」

「ええ、疲れてはいますが問題ありませんよ」

「本当か?」

「ええ。どうかしましたか?」

「……俺の勘違いだといいが、少しだけ気になることがある」

「何でしょうか?」

「ひとつは、氷猿のことだ。あれは、おまえに執着しているような気がする」

「そうですね。狙われていると思います」

「心当たりは?」ベオが訊ねる。

「ありません」

「そうだろうな。そもそも、あんな魔物にあったことなどないからな」


「体は何ともないのか?」

「ええ、大丈夫ですよ。貰った軟膏も効いているようです」

「度々思うが、おまえの調子にだいぶ波があるように感じる。自分ではどうだ?」

「どうでしょうか? そう言われると、そう思ってしまいます。でも、疲れていれば動きが鈍るというのは、昔から当たり前ですし、自分では自然なことだと思っていますよ」

「良い時と悪い時の差がだいぶ大きいように見える。この仕事が始まってからの話だ」

「剣が雑になっていますか?」

「たまにそう見えることもあるが、それはそのひとつに過ぎないな」

「どうすればいいでしょうか?」

「……わからない。俺の杞憂かもしれない」

「ジーンにそう言われてしまうと、気にしない訳にはいかないです」


「つまるところ、『休めるときは、しっかり休め』と言う訳だな」ベオは寝ながら体を伸ばした。

「そうだな。明日は朝一でじいさんの様子を見に行く。さっさと寝よう。悪かったな」

「いえ、それじゃ」


 アルはそれだけ答えて目をつぶると、今度こそ眠りに落ちた。深い海の底へ沈むような眠りに。アルは意識を失った瞬間に目を覚ました。太陽が同時に目覚め、雪原をオレンジアゲートに染める。アルはひとり、太陽に向かって立っていた。


「ずいぶんと早いな。出発はまだだぞ」

 ジーンはユジエの世話をしているアルの後ろから近づいた。アルは昨晩余ったトナカイの肉を失敬し、ユジエに与えていた。ユジエは二、三度噛むだけで、ほとんど丸呑みしていく。

「どのくらい餌が必要なんだ?」

「どうなんでしょう。昨日一日は何も与えなくても働いてくれましたから、それほど気にしなくてもいいのかもしれません」

「魔物を手なづけるのは初めてだからな」

「どうしたって家畜とは違いますから注意しないと」

 ジーンは笑った。「そうだな。そんなこいつらに命を救われるとはな」

 ジーンもアルから肉を取ってユジエに与えた。その様子はどことなく滑稽で、なおかつ上品であったため二人は失笑した。牛小屋ではベオも起床し、アンドレもそりの準備を始めていた。


「早起きなんだな」

「やあ、おはよう。あんたらも早いな。俺は昨日の話のおかげで、全然眠れなかったぜ」

「犬ぞりか?」

「そうだ。こっちにいるから手伝ってくれ」


 牛小屋の奥に犬舎があり、そこには八頭の大型犬が飼育されていた。アンドレが扉を開けると、一番手前にいた灰色の犬が顔を上げて吠えた。


「朝早くから悪いが、おまえさんがたにひと仕事頼みに来たぜ」


 アンドレはアルに水を汲むように頼み、ジーンを伴って餌を運んだ。木製の大タライに干し肉を中心に、昨晩の夕飯の残りを混ぜて入れると、犬たちは一斉に食べ始めた。顔を突っ込み無我夢中の様子は、野生本能の純然たる発露だった。犬の性格のばらつきは大きく、大人しいもの、人懐こいもの、精力的で手に負えないものなどがいたが、一番扱いにくかったのは臆病ものだった。アルがその犬をそりのところへ連れて行こうと近づいた。アルの足が一定の距離に入った瞬間、その犬は牙を向いて吠えたてた。アルは危うく噛まれそうになったが、アンドレが横からその犬を押さえつけた。


「言い忘れていた。こいつは人見知りなんだよ。怪我はないか?」


 アルがうなづくのを待たずに、アンドレは手の中で唸り声を上げる犬をそのままそりへと引きずっていった。アルは別の犬を手に外へ出た。アンドレが最後の一匹をそりに付ける。アルとジーンがユジエを引っ張って来ると、アンドレは嫌悪に総毛立った。


「おいおい、何だよ。魔物を引き連れているなんて聞いてねえぞ」

「大丈夫だ。大人しくさせている」

「ユジエだろう。そいつは人食いだぞ、勘弁してくれ。うちの犬もビビってるじゃねえか」


 犬たちはにわかに殺気立ち、アンドレ同様に吠え立てるものがいた。


「先に離れて行きますから、大丈夫です。この通り」

 アルは緑のユジエの尻尾を引き、その体を足で踏んで、大人しいところを示して見せた。


「マジなのか……?」アンドレはベオに訊ねる。

「そのようなのだ。私も信じられなかったが、とにかく見てくれ。見ていればわかる」


 アルはユジエを敷くようにすると、早速乗ってみせた。ジーンがそれに続く。アンドレは口をあんぐりとさせていると、ベオに肩を叩かれた。


「さあ、追いかけよう」


 アンドレとベオは並んで犬ぞりに足をかけると手綱をひと振りして、出発の合図を入れた。犬は魔物を追い立てるように一気に加速した。ベオとアンドレは足で蹴ってそりをさらに加速させた。五分もしない内にモミの木の分かれ道にたどり着き、すぐに民家の黒い影が見えた。アンドレがそりを止める。

「どうした?」

「いや、何でもない」

 アンドレとベオは先を行く二人を追いかけた。二人はすでに木にユジエを繋いで待っていた。

「魔物に乗っている人間なんて初めて見たぜ」

「乗ってみますか?」

 アンドレはユジエが木の周りで体をうごめかせているのを見て、鳥肌の立つ両腕をさすった。

「俺には犬がいるから遠慮させてもらうよ」


 四人が家の前に立つ。森よりも静かだった。人の気配はない。ジーンは扉をノックしたが返事はない。ベオが大声で呼びかけるが、虚しく響くだけだった。

「やっぱり誰もいえねえじゃねえか」アンドレは胸をなで下ろした。

「おかしいですね。僕は他の家も見てきます」


 全員が手分けして家々を回ったが、どの家にも人の気配はなかった。全員が最初の家の前に戻ると、今一度その家の中を確認した。


「いません。昨日のおじいさんは誰だったんでしょうか?」

「盗賊か? 斧を手にしていたが、そういう身なりにも見えなかったな」

「不治の病が流行ったって言いましたよね? どんな病気だったんですか?」

「熱病だよ。焼けつくような高熱がずっと続いて、死んじまうんだ。医者が真っ先に死んじまったから、俺たちには何の病気か知る由もないがね」

「その医者というのはどこにいたんだ?」


「それが、ここだよ」アンドレは目の前の家を指差した。「モリッツっていう医者のじいさんがひとりで住んでいた。大体一月ほど前になるかな。体調を崩したって聞いてから、あっという間に亡くなってしまった。熱が出たのにこの周りの住民を診たり、逆にお見舞いに行ったみたいでね。次々に倒れていったよ。こっちに親戚がいるおばさんが、ここへ寄った時にこの六軒がみんな病気だってことががわかったんだ。手遅れだったがね」


「ケイマス村には医者はいないのか?」

「いるにはいるが、レフォードと行ったり来たりなんだよ。それにモリッツじいさんほど腕が良い訳じゃない」


 その時、アルが二階に人影を見て声を上げた。犬も同様に吠え始めた。

「開けてください。お願いします」

 アルは激しいノックを繰り返した。

「おい、聞こえるか。開けろ。でないと、ドアをぶち破るぞ!」


 アルとジーンがドアに体当たりをし始めると、枯れくすんだ黒褐色のアカマツによるドアは衝撃に軋んだ。すると、中から止めるように怒鳴られた。二人はドアから少し離れた。掛けがねを外す音がする。


「こんな朝早くから一体何のようだ!」

 老人は激怒していた。朝日のまだ赤い光も相まって、その顔は芯から紅潮しているようだった。


「誰だ、あんた?」

 アンドレは不信と猜疑心を垂れ流した。老人はその態度に増々激しく怒った。

「人の家に押しかけて来て、『誰だ』とはどういうことだ!」

 老人はドアのすぐ脇に立てかけていた斧を取り出してすごんだ。

「失礼なことをした。お詫びします。どうか落ち着いていただきたい」

 サルーミ族の大男は毅然と両者の仲立ちを始め、アルたちを下がらせた。

「この家は、医者の家だったと聞いた。確か――」

「モリッツ。テルトー・モリッツだ」アンドレが老人に詰めようるように言うのをベオは押さえた。

「そう、ここはモリッツ氏の家だということだ」

「だからどうした。そのじいさんはいなくなって、ここは空き家になった。だから俺が住んでいる。何が悪い?」

「勝手に住み着いて、その言い草はなんだ!」


 アンドレは老人につかみかかろうとしたので、ベオとアルはアンドレを押しやった。

「俺は、サルーミ族のベオ・ガルと言う者だ。改めて非礼を詫びよう。申し訳なかった。ただ、話をしたいだけなのだ。わかってほしい」

「話すことなんぞない。さっさと出て行け!」

 ベオはアンドレに落ち着くよう諭した。アンドレはつかまれた腕の力に、興奮を抑えこまれた。

「ほんの少しだけだ。あんたも人の家に住み着いていることはわかっているんだったら、少しは村の人間に協力してくれてもいいだろう。違うか? 俺たちも、あんたを追い出そうというつもりで来たわけではない。ただ、あんたの身元を確認しに来ただけだ。名前は?」


「……名前……?」

「そうだ。俺はジーン。こっちはベオに、アンドレ、アルだ。あんたの名前を教えてくれ」

 老人は地面に目を落とし、震えて口ごもった。

「どうした?」

「俺の名前……」

「そうだ。名前を教えてくれ」


 老人の息が荒くなる。ジーンを必死の眼差しで見つめ、話をしようとしたが、口が回らずに上手くいかなかった。ジーンはワインの入った革水筒を手渡した。老人は口端からこぼれるのも気にせずに、一気に飲み干して、顔をしかめた。

「大丈夫か?」

「これは、酒じゃないか!」

「どうした?」

「いや、大丈夫だ。何でもない」


 老人は革水筒をジーンに返すと、ピンクに染まった白いヒゲを手で拭った。


「大丈夫、大丈夫だよ。……俺は、レフォードから来たんだ。ここのモリッツさんは世話になった人でね。急に来なくなったから、様子を見に行くように言われて来たんだ」

「それで?」

「モリッツさんはレフォードに定期的にやって来ては、医学の指導と薬の仕入れをしていた。約束の日に来ないもんで、最初は、雪深いもんだから足が遅れてるんだろうと思ったが、いくら待っても来ないもんだから心配でね。それに以前に来た時に頼まれていた薬も渡さなきゃと思っていたんだ。本当は親父が来るはずだった。でも、親父も年で、朝ベッドから起きようとしたら、ぎっくり腰になっちまった。あの悲鳴はすごかったぜ。ガラスが割れるような大声で、強盗にでも襲われたんだと思ったよ。駆けつけてみたら、一歩も動けずに固まっていたんだ。おかげで俺が使わされた」


 ジーンはみんなと怪訝な顔を向け合った。


「とにかく荷物をまとめて、スキーを履いて出発したんだ。何もなけりゃ、三日、四日で着くんだが、運悪く吹雪いたんだ。平地で遭難なんて冗談かと思ったが、本当に洒落にならない事態だった。視界がほとんどなかったからな。俺は急いで近くの空き家に避難したんだ。冷えた体を温めようと、暖炉に火を着けたんだ……」

 そこまで話すと老人は氷のように固まってしまった。


「どうした、大丈夫か?」

 老人はジーンの呼びかけにも答えようとせず、目の前の虚空を見つめたままだった。ジーンがその肩を揺すぶると、老人は慌てて腕を振り払った。

「何があった?」

「……憶えてない……火を着けてから、どうしたのか。記憶がない……」

「それじゃあ、あんたがここまで来たことは? どうやってたどり着いたのかも憶えていないのか?」


 老人はうなづくと、青ざめた表情でぼんやりと太陽の動きを追った。


「どういうことだ? さっぱりわからねえ。おい、あんた。名前は何だよ。名前を教えてくれ。それも忘れちまったのか?」アンドレは頭の中の絡まる糸に気が滅入った。


「わからない」老人は泣きそうな声でつぶやいた。


「親父の名前は? あんたの親父だよ」

「親? そうだな……親なんていたっけ?」

「ふざけんなよ。さっき言ってたじゃねえか。俺はレフォードの医者に知り合いがいるが、あんたみたいなのは見たことないね」

「アンドレさん。そのレフォードの医者は何て言うんですか?」

「エリックだ。エリック・シューバーさんだ」

「そうだ、それだ。それが親父の名前だ」


 老人は記憶の空洞から抜け出て光を発見したように目を輝かせた。


「何言ってやがる。エリックさんはどう見てもあんたよか年下だぜ」

「エリックは父さんなんだ。俺の父さんだよ」

 老人は震える手でアンドレをつかんだ。アンドレはその気味悪さに老人を突き飛ばした。

「ふざけるんじゃねえ! エリックはあんたよりも年下なんだよ。あんたみたいなじいさんが子どものはずねえ!」

 老人は立ち上がることができず、大粒の涙をこぼしている。


「待て」

 ジーンはアンドレを下がらせて、倒れた老人の傍らに片膝をついた。

「自分の名前を思い出したか?」

 老人は顔を上げると、顔に影がかかった。

「……スタヴィオ・シューバー」

 アンドレは驚愕の表情を浮かべて再び老人に詰め寄ろうとしたが、ベオが彼を止めた。

「あんたは今の自分の姿がわかるか?」

 老人は太くごわつく手で震えながら自分の顔を、頭を確かめた。それからジーンにうなづいた。

「信じられない。いや、信じないぞ。こんなこと……」

「空き家で何があったか思い出せないか? なんでもいい」

「……火を、火を着けて……俺は、一体何を……」

「そうだ。あんたは火を着けた。温かさを求めて。外はまだ吹雪なんだろう。風の音は聞こえるか?」

「ああ、ひどく指がかじかんでいて、真っ赤だった。死にそうだった。でも、火を起こすことができて、それに手をかざすことができて、ほっとしたんだ」

「それからどうした。食事はどうした? 何か食べたか?」

「いや、何も食べていない。温かくなって、指がジンジンと痺れるようになって、そうしていたら眠くなって眠ってしまった。それで、起きた時に……」


 スタヴィオは目をむいて驚愕している。ジーンは落ち着いた態度を崩さずに、話を続けるよう促した。


「……男だ。男がいた。仮面を被った男だ」

 ベオはすぐに反応し老人の元へと進み出ると、シ=レプの仮面を差し出した。

「こういう仮面か?」

 スタヴィオは仮面を受け取るが、それをすぐに返してしまった。

「違う。もっと細く尖ったもの……鳥のようなやつだ」

「鳥男……」

 アルがつぶやく。全員が一斉に彼を見た。


「氷猿を作った男か……それで、その男はあんたに何をした?」

 スタヴィオは目を強くつぶり、記憶の底を探るようにした。

「食べ物を分けてもらったと思う。何だったかははっきりしない……」

「それで、その後はどうなった?」

「気がついた時にはこの家の前にいて、ここで寝泊まりしていた」

「ひとりでか?」

「ああ、そうだ」

「何時頃からだ?」

「ここ数日だと思う。それもはっきりしないが……」

「どうする?」ジーンはアンドレに訊ねた。

「どうするったって……そうだな、一応中を確認させてもらうぞ」

「何だって? おい、待ってくれ」

「中をあらためさせてもらう。空き家だからって勝手にしていいとは思わん。何かやましいことがあるのか?」

「本当に何もしていない。眠っていただけだ。もういいだろう、ひとりにしてくれ」

「何言ってやがる。あんたは俺たちと来てもらう。ここに勝手に住み着くのは駄目だ」

「わかった、あんたたちについて行く。さあ、行こうじゃないか。連れて行ってくれ」


 通せんぼのようにしたスタヴィオをいぶかしげに眺めたアンドレは、老人を突き飛ばした。スタヴィオは体を激しくドアに打ち付けると、四つん這いになった。そうしてアンドレはジーンとスタヴィオの間を通り抜けて家の中へ悠然と入っていった。他の者も後に続く。家の中は外よりも冷たく、壁に染み付いた薬草の匂いがした。左手には小ぶりのダイニングテーブルとキッチンが設えられている。戸棚の中は最低限の食器類以外は入っておらずがらんとしている。右手には診察室があり、丸椅子が二つと書きかけの書類の乗った机が置いてある。その隣の戸棚には薬草の入った瓶がほんの数本並べられていた。アルはそのひとつを手に取った。


「別に何もしてないようだ」

「変わりありませんか?」

「ああ。上を見てみるか」


 アルは薬瓶を戸棚に戻すとアンドレの背中を追った。入り口には未だ老人が雪の地面に伏していた。ベオを残して、三人は二階の階段を軋らせた。二階は医者の自室と寝室、それに病室の三つがあった。アンドレを先頭に、ジーンとアルが続き、一番手前にある医者の書斎に入った。そこは一階の診察室とほとんど同じ風景だった。異なっている点は、椅子がひとつしかない代わりに、書棚がひとつ壁に取り付けられていた点のみだった。アンドレは机の上の日記をペラペラとめくってみる。アルとジーンは部屋を簡単に見回して出て行った。次に寝室に入ると、布団も何もないベッドがひとつだけ置いてあるだけだった。書斎から寝室へは内ドアでつながっており、アンドレはそこを通ってきた。アルは窓から外を眺める。そこから見える家も空っぽなのだと思うと、心の一段と冷える感覚に襲われた。


「アル、行くぞ」


 ジーンの声に振り返ると、一階からベオの声と床を蹴るように走る音が聞こえた。同時にアンドレは病室の扉に手をかけていた。


「やめろ、ヤメろ……ヤメロ!」


 スタヴィオは息せき切って駆けつけ、階段を上ったところで顔中を汗まみれにしていた。三人の視線は廊下を真っ直ぐに抜け、スタヴィオを見た。老人はそれらの視線をかわして、病室を見据えていた。顔一面を溺れる量の汗が包み、苦しみあえいだ。


「じいさん、どうした。大丈夫か?」


 ジーンが一歩近づくと、スタヴィオは膝立ちの格好で両手で顔の汗をかき分ける。彼がふと振り返ってアルを見た時、入院室の内部が目に入った。血だらけの病室。血で何かが書かれてた不可思議な文字と妖しい文様は、鈍く重い光を放っている。ジーンの視線に気づいたアルとアンドレも病室を振り返った。


「見るな……見ナイでくれ、頼む……止めろ、助けてクれ……」


 アンドレは無意識に病室へと誘われていた。部屋に一歩踏むこむと、血文字と文様が自由を得て様々にメッセージを発し始めた。三人は病室とスタヴィオとを交互に見た。老人の悲壮な嘆きは止まず、顔、体、全身の皮膚の内側が膨張し始めた。アンドレは読めない文字のダンスに囲まれ、囚われ、かどわかされた。うごめく血は渦巻きながら正面の壁に収束すると、氷猿の姿を描いた。アルの投げたナイフがその顔の中心に突き刺さった。不気味な笑いが家を揺らす。病室中の血は、突き刺さったナイフの傷に吸い込まれるように消えた。同時にスタヴィオは断末魔を上げた。その肉体は内側から溶解しつつ膨らみ続け、とうとう表皮を突き破ると体液が全身を飲み込み分解していった。血と肉の液体になって直前に若い男の顔がその中に浮かんだ。その顔はアンドレと目が合うと声にならない最後の助けを求めて消えた。


「……どうなっている?」


 アンドレは腰を抜かして恐怖に色を失っている。ベオも階段を上がり、ジーンと共にスタヴィオの染みに指をそわす。アルは警戒しながら、アンドレをまたぐようにして病室に入ると壁のナイフを回収して、壁に出来た傷を仔細に観察した。ベッドは二つ並び、その真ん中に置かれたサイドテーブルには花のない花瓶が佇んでいる。床には何も落ちておらず、壁にも天井にも変わった箇所は見受けられなかった。


「出ましょう」


 アルはアンドレに肩を貸して立たせると、逃げるようにして外へ出た。太陽はすでに白い光へと移り変わり、雪原をきらめかせている。アンドレはドアを封印するように言い、アルは隣家で見つけた木の板をそこに打ちつけた。四人の男がすぐさまそりでケイマス村まで戻っていく姿は、獣に追われ逃げまどううさぎのようであった。

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