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北へ(15)

 モミの森の葉は氷雪に凍っている。一本一本の木はたくましく天に伸び、慈雄壮観に自然の偉大さをたたえている。風もなくそこは時が止まったようだった。そして荷馬車が止まった。後ろから強い力に引かれでもしたかのように車体が大きく揺れると、三頭の馬はそれぞれ別方向を向いてにわかに立ち上がり、車輪が動かなくなった。男たちが全員で馬車を押すと、輻一本分だけ動いて止まった。


「ここだけ雪が深いですよ」

「もう一度押そう。いくぞ」


 ジーンの掛け声で、荷台部分が悲鳴を上げるほど馬車を押すが、車輪がはまり込んでびくともしなかった。


「雪を掘りますか?」

「そうだな。地面の亀裂か何かにはまっているんだろう。それで駄目なら荷物を下ろして馬車を持ち上げるぞ」


 男たちが車輪の雪を掘り始める。すると雪がひとひらアルの鼻先をくすぐった。上空を見上げたアルの目に飛び込んできたのは、雪と黒い影だった。その影が荷馬車の幌の真上に着地すると、骨組みの何本かの折れる音が響いた。荷台に乗っていたペトラとカシアの悲鳴が耳をつんざく。アルとカベルが馬車の両側から駆け上がる。幌の上にはつぎはぎの毛皮を身につけた異様に頭の大きい小男が、錆びた山刀を手に立っていた。カベルと小男の剣が打ち合うと、小男はその勢いを利用して叫びながら馬車前方に飛び降りた。一撃で仕留められなかったカベルは舌打ちをした。


「上だ!」アルが叫ぶ。

「わかっている」


 カベルが見上げると十を超える同じような小さな影がモミの木の上から次々に落下してきた。アルたちは雪を振り払うように武器を振るったが、軽くいなされてたちどころに囲まれてしまった。


「何ですか、こいつらは?」

「ラシュ族だ」ベオは山刀と手斧を構えた。


 身長一メートル前後の小人であるラシュ族は、森に潜む原住の狩猟民族だった。大きな丸い頭部と獣と同じような大きな黒目――人間の子どもの拳ほどの大きさ――が特徴で、体毛がないために狩ったトナカイやヤク、熊、ウサギなど獣の毛皮を接いだ服や人を襲って手に入れた服を身に着けていた。頭を覆うフードには、人間を含む動物の耳や角を取り付けており、彼らにとってその種類と大きさは一種のステータスとなっていた。武器も元々は手作りの弓矢や木の槍、投石など原始的なものを用いるが、今では人から奪った鉄製の剣や槍が中心だった。そのおかげでひどくちぐはぐでユニークな風采をしていたが、道化の持つ恐怖心を人々に与えている。また、完全ではないが人語を理解し、さらに魔物や、獣ともコミュニケーションを取る様子――時にはどこでもない空に向かって話す様子すらある――が観察されていることから、人よりも魔物に近く、魔物よりも妖精に近く、妖精よりも人に近しいと言われている。どこか超然的ではあるが、普段は欲求に忠実に従う獣の徒であり、集団で獲物を襲うことを生業としていた。


「皆、離れるなよ」


 ベオは吠えたててラシュ族を牽制した。小人集団は距離を取って隙をうかがっている。御者台にはクーロが山刀を構え、そのすぐ後ろにペトラとカシアが身を寄せあっている。カベルが馬の前方に移動した。


「アル、馬車の後方へ行け」


 馬車の右側面にジーン、左側面にベオ、後方にアルが陣取った。


「ヒト……オレ、ヒト、キライ……」、「オレモ……アレ、マズイ……」、「タノシイ、ウマイ、ダイスキ……」、「ボレモ、バカ……ボレモ、オロカ……ボレモ、ドコイッタ……?」、「ヤロウゼ、サッサト……コワイコト、イタイコト……」、「ヤル、キル、コロス……スル、ソグ、ハガス……」


 ひとりのラシュ族が猿のようにベオに飛びかかった。ベオは右手の山刀で剣を受けると、左手の手斧でラシュ族の足を切り落とした。地面に落ちてのたうつラシュ族にベオは山刀を突き立てた。さらにひとりが飛び込んできた。ベオは動きに合わせて手斧を突き出して、ラシュ族の着ている毛皮に上手く引っ掛けた。ベオは手の中で得物をねじり、ラシュ族を引っ掛けると、そのまま地面に叩きつけた。ラシュ族は頭をかち割られて大の字に死んだ。ベオによる一連の動作は、平滑的かつ機械的であっけなく終わった。ラシュ族は怯む者と怒る者とに分かれた。怒れるラシュ族の五人は一斉に動き出すと、ベオに三人が、残るひとりずつがアルとカベルをそれぞれ襲った。ジーンがベオの加勢に走る。アルは山刀を受ける。ラシュ族は見た目よりもずっと力強く、アルはその攻撃の重さに弾かれそうになった。しかし、鍔迫り合いに持ち込むと、巨大な顔面に膝蹴りを叩き込んだ。カベルを襲うラシュ族はバッタのように動き回って、一撃を加えては飛びのくのを繰り返す。何度かの後あきらめて後方の仲間の元へ戻った。ベオを襲う者たちも連携をとって休む暇なく連撃を繰り返した。さすがのベオも受けるだけだった。


「父上!」

「動くな!」


 クーロは弓を構えたが、ラシュ族の動きの速さと動きに狙いを定めきれない。ジーンがひとりを斬りつけたところで、ラシュ族たちは一旦下がった。ベオの腕から血が滴り、彼は切られた二の腕を押さえた。


「無事か?」

「かすり傷よ」


 ラシュ族は形勢逆転と見て取って、それぞれの得物を高々と気勢を上げた。黄色い歓声にも身悶えするような断末魔にも似た声に、カシアは震えが来た。何匹かが飛び跳ねると、踊るようにしながら、馬車を中心に回り始めた。


「馬鹿にしやがって」カベルが吐き捨てる。


 ラシュ族は得物を一斉に投げつけた。同時に突っ込んできた。クーロの矢は森へ消える。投げつけられた武器は、幌を切り裂いて、馬車に突き刺さり、悲鳴をもたらした。


「ジーン!」


 右側からラシュ族が馬車に群がる。車体は大きく揺らされて、軋む木の音はカシアとペトラのさらなる悲鳴と重なった。ラシュ族は組みつき、噛みついた。ベオが腕についたラシュ族を地面に叩きつけて引き剥がそうとする。ジーンは最初に突っ込んできたひとりを断首するが、すぐ後からきた二人に左右から組みつかれた。ラシュ族が大口を開けてアルに突っ込む。アルの剣は真っ直ぐその口を捉えたが、ラシュ族は勢い止まらずそのままアルの腕に噛み付いた。それを振り払おうとしているところ、足を取られて転ばされた。カベルはラシュ族と同時に駆け出していた。機先を制して一人目を弾き飛ばし、二人目を袈裟斬りに処すると、つかみかかってきた三人目の喉をつかむ。今度は眼前のモミの木を蹴って反転すると、馬車に向かう。カベルは馬車を駆け上がって反対側へと飛んだ。空中でつかんでいたラシュ族を、馬車を襲う者たちへ投げつけた。


「イテエ、クソ……ナニスル!」、「イジワル……ショウワル……アッチイケ!」、「ヒト、ハ、ランボウ……ヒト、ハ、ヤバン……」、「キチク、ザンギャク、バカ、サイテイ!」、「ウデ、イタイ……ウデ、マズイ……」、「オレニ、シタガエ……オマエハ、シネ……」、「アア、ダルイ……カエリタイ……」、「ナマイキナ、サル……ユキニ、ウメテヤル!」、「ウデヲ、モゲ……マタヲ、サケ!」


 アルは自ら転がって取り付くラシュ族を引き剥がすと、それをカベルのように投げつけた。折り重なるように倒れた二人のラシュ族を、カベルはまとめて一刀のもとに斬り伏せた。ベオは振りほどけないラシュ族に手を焼いた。腕に取りついて二の腕を噛む者と、太ももに食いついた者。ジーンも同様に二人の敵――腕と背中――にまとわりつかれていた。ベオはジーンをちらと見た。一瞬、二人は目が合うと、ジーンはベオに斬りかかった。ベオは思わず腕でかばう。その腕に取りついていたラシュ族は前後縦半分に斬られた。同時に、ベオは山刀を突き出してジーンを襲った。ジーンは半身をそらして、背中のラシュ族で防御した。ラシュ族はゴブリンの断末魔のような甲高い声を上げた。さらにジーンは上段から斬りかかり、ベオの顔すれすれに振り下ろす。ベオは手斧をジーンの腕目がけて振るった。二人の周囲にはインク壺をこぼしたように血が撒き散らされていた。


「オンナ、コドモ……クソクラエ!」


 森の奥から雪の滑る音がする。笑い声がすると、馬車の前方からレジエをそりにしたラシュ族たちが疾走してきた。次いで、木々の影からさらなる小人の影が這い出した。ラシュ族が雪崩れ込んでくる。アルとクーロは弓を連発するが、数人を仕留めるだけだった。無数のラシュ族が津波のように襲いかかった。


「どうする!」


 ジーンは向かってくる二人の首をはねた。レジエ乗りがジーンの首に山刀を振るう。ジーンは襲い来るレジエ乗りに飛びかかった。円盤状のレジエがきりもみしながら宙を舞う。もみ合うジーンとラシュ族に、さらに三人の小人たちが襲いかかった。


「アル、馬を出せ!」


 ジーンは雪と小人まみれの中、叫んだ。馬車にはすでにラシュ族がアリのように群がっていた。遊具を揺らす子どもたちのように馬車を引き倒そうとしている。

「馬車はもう駄目です。カベル、馬で逃げて!」


 アルの矢は胴引きを切り離し、ベオの手斧は轅を断ち切った。カベルは馬に向かうが、つかみかかるラシュ族に飲まれた。へらへらしたひとりのラシュ族が槍でカベルの脇腹に突撃した。アルの馬が龍のように大きく後ろ足で立ち上がると、そのラシュ族の頭を後ろ足で蹴飛ばした。ラシュ族の頭は陥没して雪の上に突っ伏した。アルはカベルに取りつくラシュ族を短剣で切り離していく。


「カシアとペトラを!」

「わかっている」

 カベルが黒馬に飛び乗る。

「来て!」

「荷物を、まだ」


 ペトラが何かを取ろうと馬車の奥へ這って行くのをクーロはつかんだ。無理矢理にクーロは、ペトラとカシアをカベルの後ろに乗せると馬の尻を叩いた。ヤリドの黒馬は敵の恐怖を蹴散らさんばかりに飛び出していった。


 ラシュ族は怒りに全身を震わせると、アルの馬に飛びかかり首から胴に次々と噛み付いた。馬は激痛に身をよじりながら暴走を始め、木々に激突を繰り返した。顔を血で真っ赤に染めた馬。左右も天地も裏表もわからないほどに恐慌した馬は、背中に取りついたラシュ族の山刀によって倒された。ひっくり返った馬は、その衝撃で折れた足を投げ出して痙攣していた。ラシュ族三人は獣的凶暴性と知的残虐性を発揮して、笑いながら馬に何度も繰り返し剣や刀を突き刺した。アルはひとりを背中から真っ二つにして、次のひとりを蹴り飛ばした。三人目はアルの胴払いを山刀で受けると、吹き飛ばされた。アルは馬に駆け寄った。手を血まみれの顔に添える。馬の温もりが急速に失われていくのがわかった。アルは馬の目を閉じてやると、すぐに襲ってきたラシュ族を切り捨てた。


「こんな最後って……」

 ジーンはベオに自分の馬に乗るよう指示した。馬車が潰された。

「おまえはどうする!」

「さっさと行け!」

 クーロがベオの後ろに乗ると、ジーンは馬を走らせた。

「僕らはどうします?」

 ラシュ族は馬を追い始めた。

「とにかく走れ!」


 アルとジーンも馬の足跡を追った。森の中はラシュ族に利していた。それでも二人の傭兵はひとりひとりを確実に仕留めていった。レジエで滑走する小人が剣を振り回しながら二人の間を駆け抜ける。二人は転がって回避すると、さらに三人のラシュ族が滑走してきた。ジーンはひとりを突き殺すと、レジエが飛んで逃げ出した。アルが叫んだ。


「もう一匹!」


 ジーンはラシュ族が来ると思い構えた。雪がにわかに盛り上がると、次の瞬間一気に立ち上がった。アルは剣を打ち下ろすが、ユジエのウロコに弾かれた。大きさは二メートル程で、赤茶けた色をしたユジエは一旦遠くへ離れるが、キレのあるUターンを見せて襲いかかってきた。大口がジーンを飲み込まんとする。ジーンはウロコのすき間を狙ったが、ユジエの速さと、ついでに邪魔をするラシュ族に、外れてしまった。木からラシュ族が飛び込んでくるのをかわして、走りだした。


「なんだあれは。弱点は?」


 木の影から突然ラシュ族が飛び出してアルの首を斬りつけた。アルは前転で飛び込み、そのかわしざまに、そのラシュ族の足を切り払った。


「わかりません。小さいのが来た後に大きいのもセットで来ます。ベオは力づくで対応をしていました」

「くそっ」


 五人のラシュ族が取り囲み、こん棒を振り回す。さらに奥から三人がレジエに乗ってやって来た。ジーンがラシュ族をひとり血祭りにあげる。


「アル、あれをもらうぞ!」


 ジーンの視線の先にはレジエ乗りがターンをしながらゲラゲラ笑っている。アルは取り囲む二人をいっぺんに串刺しにした。二人はすぐにレジエ乗りに向かって駆け出す。ジーンは飛び蹴りでラシュ族を吹き飛ばしてレジエの手綱を奪った。アルはラシュ族が突き出した手槍をつかまえると、そのまま引き込んで足払いした。ラシュ族は転がって雪まみれになりながら後方へ消えた。

 暴れるレジエに乗ろうとするが、二人共のろのろとスピードが上がらなかった。


「僕らが重いんじゃないですか?」

「くそっ、パワーが出ないな」


 アルもジーンも、片足で蹴って加速せざるをえなかった。あっという間に次のラシュ族が追いついてきてしまった。アルはなんとか攻撃をかわすが、雪に滑って転倒した。ジーンはそれを見てレジエから降りると、手綱を振り回して魔物をラシュ族に叩きつけた。ジーンはアルに手を貸して立たせた。ジーンの背後にユジエの影が伸びた。ジーンはアルを引き倒すようにしてかばった。


「すみません」

「あれを捕るぞ」


 ジーンはすぐさま立ち上がるとモミの大木を背にした。ジーンはアルに、自分のすぐそばでラシュ族を相手に立ち回るように言いつけた。二度、三度アルがラシュ族と剣を打ち鳴らす。すると雪が噴火するように爆発した。ジーンは飛び出したユジエの懐に入って魔物を雪上にひっくり返した。ユジエは体の縁がうねり、そこに付いている無数の甲殻類の足のようなものがもがく。のたうち尾の毒針がジーンを襲う。彼は顔をそらしてかわしてつかまえると、それを切り落とした。ユジエを元にひっくり返すと、魔物はジーンを引きずる勢いで飛び出した。ジーンはその背に乗ると、手のひらに尻尾をひと巻きして引いた。ジーンはユジエを上手くコントロールしてアルの周りを高速移動し始めた。木を縫い雪を散らしながら動くさまはツバメのようだった。


「尻尾だ、尻尾を捕まえろ!」


 ジーンはユジエを操ってラシュ族を追い回しては斬り伏せていく。直ちに別のユジエがジーンの背後に出現すると、ジーンはアルに向かって走った。雪の下から飛び出した毒針の尾だけが禍々しく揺れている。


「いくぞ!」


 ユジエは予想よりも速く、アルははね飛ばされた。ジーンは反転して、もう一度誘導した。しかし今度はユジエがアルの直前で急旋回してしまった。その後も不規則な動きを繰り返す魔物に手を焼いた。


「別のにするか?」

 ジーンはすでにユジエを完璧に操っていた。颯爽とアルの周りを回っていた。

「あなたがやったように、飛び出させてからひっくり返します!」


 ジーンは返事をして、レジエに乗っているラシュ族を追い立て始めた。そのラシュ族はアルに向かって突っ込むと斬り殺された。アルはレジエを捕まえると、激しく抵抗するのを足で地面に押さえつけた。レジエは虫のようなこそばゆい鳴き声を上げて、必死に逃走しようとじたばたしている。


「行ったぞ!」


 雪の中から飛び出してきたのは、翡翠色のユジエだった。アルはジーンがしたように潜り込むと、ひっくり返して毒針を切った。レジエを投げ飛ばして、すかさずユジエの尾を取った。ユジエはアルを振り落とさんと急加速した。高速移動しながら左右に振られたアルは目の回る中、ユジエの尾を力いっぱい引っ張った。ユジエの背に乗ろうとしたが、暴れる魔物の背中に滑って引きずられた。アルはそれでも手を離さなかった。顔を擦り傷だらけにしながらユジエに体を乗せると、目の前に大木が迫った。ジーンがアルを突き飛ばして退かせた。アルがユジエを乗りこなそうと奮闘する間も、レジエに乗ってラシュ族が襲ってきたために、コツをつかむのが遅くなった。


「足を広げろ、腰を落とせ、力を入れるな!」


 アルは暴れるユジエを思いっきり踏みつけた。するとエイ型の魔物は一時おとなしくなった。片足で地面を蹴って加速するとユジエは徐々にスピードを上げ始めた。


「行けそうか?」

「大丈夫です。追いましょう!」

 アルのユジエはそれでも時折暴れたが、ジーンの乗るものよりもスピードが一段速かった。

「それは別種なのか?」

「どうでしょうか、色が違いますけど。この前襲われたのは茶色でしたし」


 森を抜けると雪原に出た。カベルたちの姿はその広々とした場所に黒点となっていた。背後に迫るラシュ族から必死に馬を走らせていた。アルとジーンは風を切り、雪煙を上げて追う。ラシュ族は馬の尻に夢中で、二人に気づかなかった。気づいた時には最後のひとりとなっており、そのひとりも振り返った瞬間に、ジーンによって胴と首が分かたれていた。

 カベルたちはラシュ族の追手が全滅したことに気づいて立ち止まった。彼らは雪原を滑走するアルたちに驚き、それがユジエによるものだと知るとさらに驚いた。カシアとペトラは気色悪そうな表情をして離れた。


「よくおとなしく従っているな。信じられん……」

 ベオも目を丸くしている。ジーンとアルは暴れるユジエを踏んづけておとなしくさせる。

「ご覧の通り」

「人や動物を飲み込む魔物だぞ」ベオはユジエの尻尾を握るジーンを見た。「ユジエは、尻尾が弱点なのか?」

「どうだろうな、俺は初めて見た種だからな」


 ジーンはアルを見るが、彼も肩をすくめた。

「針が付いていたから切ったんだ。尻尾を引いてコントロールしている」

 ユジエの血まみれの手の中でその尻尾がピンと張られる。

「そっちは……その色は、ユジエ……変種か?」

「色だけが違うんでしょうか?」

「緑色のユジエなど初めて見るな」

「ベオさんでも初めてなんですか。それじゃあわかりませんね」

「そもそもユジエに乗るなどとは思わん」

「あいつらがレジエに乗っていたからな。俺たちも乗れないかと思ってね」

「ラシュのやつらだから乗れるものだと思っていた。しかも、レジエでなくユジエに乗るとはな」

「小さい方は馬力がなくてな」


 クーロが翡翠色のレジエを興味深げに観察している。

「手を出すな、クーロ!」

 クーロは慌てて手を引っ込めた。

「食いちぎられるぞ!」

「ごめんなさい」


 皆の手前なのかクーロは素直に引き下がった。そしてカシアの元へ行くと、レジエとユジエについて話し始めた。


「ここから村までは?」

「あれが見えるか?」


 ベオは陽に伸びる影の方向を指差した。雪原の段差の先に五、六軒の民家が見えた。アルが先行して索敵しに行った。ユジエに乗って滑っていく様子に、子ども二人は声を上げて羨望の眼差しを送った。

「ねえ、乗せて」

「駄目です」、「いけません、お嬢様」

 カシアは、カベルとペトラの二人に同時に言われてふてくされた。それからクーロと二人で手を取り合って大人たちへの文句を――くすぶる火花のように小声で――言い合った。


 民家までの道のりは、開けて視界が解放されていたぶん遠く感じた。ユジエを連れて馬に近づくとひどく怯えるので、アルとジーンは一定の距離を保って、周囲の索敵を続けた。カシアはカベルの腕の中で後ろを振り返る。馬の足跡が山裾から平均律のように連なっている。雪を踏む足音は、キツネのこそばゆく笑うようだった。


「窓から誰かが覗いています」


 アルは先行して民家に近づいて様子をうかがっていた。最初は二階の窓に人影が差したが、それが消えるとつかの間、一階の雪が壁のように積もる後ろの窓に人影が現れた。ジーンはカベルたちの元へ走り、アルは民家へ近づいた。アルが少し離れた位置で立ち止まると、老人が手に斧を持って扉の前で立ちふさがっているのが見えた。


「すみません、僕らは旅をしているんですが、どうか今夜宿をお願いできませんか」


 大声で辺り一帯にアルの声が響くが、老人は答えない。アルが残り三十メートルほどまで近づいたところ、老人が手を突き出して止まるようにジェスチャーした。


「一晩、宿を!」


 アルは老人が首を振るのが見えたので、隣家を訪ねた。他の家はどこも扉に木を打ちつけられており、人の気配はなかった。アルは仕方なく、一旦カベルたちと合流した。


「俺たちが行ってみよう」

 カベルは馬を民家へ近づけていくと、先程と同様に老人が出て来た。

「どうか、宿をお願いできないだろうか」

「お願いします。一晩だけ」


 カベルとペトラは馬を下りて老人に近づこうとした。老人は咳払いをしてから、止まるように言った。


「近づくな! ここを真っ直ぐ行って、看板が立っている分かれ道を右手に折れていけば村がある。そっちへ行ってくれ!」


 ベオがやって来て老人に話しかけた。


「私はサルーミのベオ・ガルと言う者だ。縁会って彼らと旅をしている。宿を頼みたい」

「駄目だ。この先のケイマスまで行ってくれ」

「何があった?」

「何もない、何でもない。あんたらをもてなすものがないんだ。じいさんにこれ以上恥をかかせんでくれ」

「そんなことは――」ベオはペトラを遮った。

「わかった、すまないことをした」


 ベオは二人の背中を押して、アルとジーンのところへ戻った。

「それで、先の村まではどれくらい距離があるんだ?」ジーンが訊ねた。

「間違いなく、日が落ちるだろう。しかし進む以外にないな」ベオは太陽の位置と影の方向を見定めた。

「さっさといくぞ」カベルはすでに馬を進めていた。

「カベル、ちょっと待って」ペトラはカベルの袖を引いた。「親書と徽章が……」

「どうした、まさか失くしたのか?」

「ごめんなさい、馬車の箱の中に置いてきてしまって……」


 カベルは大きく息を吸って、額に手を置いた。「どうする?」

 ペトラはアルとジーンを呼びつけて懇願した。


「実は、大切なものを馬車に置いてきてしまったのです。どうか戻ることはできないでしょうか?」

「半分程度はあいつらを始末したが、これから戻るとなると危険だ」

「僕が戻って見てきますよ」

「よろしいんですか?」

「ええ、これに乗っていけばあっという間に戻れます」


 アルの足元でユジエは体をうねらせている。その様子にペトラはぞっとした様子だった。


「それで、どういった物ですか?」

「小さな木箱の中に、ネックレスや指輪と一緒に入っています。赤い封蝋をした手紙とメダルが必要なのです」

「それじゃあその箱ごと持ってくればいいんですね」

「お願いします。あれがなければ、ここまで来た意味がなくなってしまいます」


 ベオが沈んだ表情で頭を振った。


「十中八九、持ち去られている。私は暗くなるこの時間から森へと入ることは賛成できない。いたずらに危険を犯すべきではない」

「危険を犯すのが僕たちの仕事ですよ」アルは穏やかな表情を見せた。

「ひとりで大丈夫か?」

「ええ、ジーンはこちらをお願いします」

「俺が一緒に行く」


 カベルはジーンにユジエを貸すように言った。


「それは構わないが……」ジーンはアルに目で問う。

「ひとりで大丈夫ですよ」

「行くぞ」


 カベルはジーンからユジエの尻尾を奪うように手に取ると、さっさと行ってしまった。


「ちょっと! 全く……それじゃ行ってきます」

「ケイマス村で待っているぞ」

「わかりました」


 カベルはユジエの操作のコツを早々とつかんで、どんどん加速していった。おかげでアルが追いついたのは森に入る直前だった。


「僕ひとりで大丈夫ですよ」


 カベルは松明に火を着けると、アルを無視して森へと入っていった。アルはその背中を睨めつけた。二人は逃げ出すときにつけた馬の足跡を追っていく。森には気配がない。そして、一気に暗闇が襲ってきた。迷いなく進むカベルの背中と松明の炎の揺らぎは眠気を誘う。緩やかな上りとなっていたが、ユジエはスピードを落とすことなく滑っていく。木々を軽やかに縫って迷いなく進む。冷たい空気に血の臭いが混じり始めた。ほどなくして、カベルが上体を後ろに倒して両かかとを蹴りながらユジエの尾を引くと、雪を蹴散らして止まった。


「持っていろ」


 カベルはユジエをアルに押し付けると暗闇の先へ松明を掲げた。アルはユジエ二匹を縄で結わえて木に縛り付けた。二匹は逃げ出そうと何度も縄を引き続けた。カベルは地面、周囲、木の上を順に松明で照らすと、最後に前方でその手を止めた。アルがカベルの隣に立つと、木片が散らばっているのが見えた。カベルは木片をいくつか手にとって見た。アルは辺りを探すが、雪が被るラシュ族の死体以外――自分の馬の死骸すらも――何もなかった。


「こっちは駄目です。何かありましたか?」

 カベルは壊れた車輪の前に屈みこんでいた。アルはその背中を照らした。

「どうですか?」

「……ないな」

「そうですか……戻りましょう」


 カベルはその場を離れようとしなかったので、アルはカベルを回りこんだ。アルはもう一度声をかけた。しかし返事はない。


「何かありましたか?」

 アルがカベルの顔を照らしてその顔を見た。

「いいや、何も」


 猿の顔だった。振り返ったカベルの肉体に氷の猿が取り付いていた。猿の口から強烈な冷気が吐き出されると、アルは松明を取り落とした。火が消え、柄が凍る。アルの革手袋の端は凍っていた。


「カベルをどうした!」


 アルが剣を抜けば、氷猿も剣を抜いた。氷猿は真っ直ぐに突っ込む。剣閃は氷よりも冷たく鋭い。アルが二段突きをかわした。氷猿は叩き潰すように剛剣を振るう。上段から繰り出される激しい打ち下ろしで地に積もる雪がはじけ飛ぶ。アルは剣を絡め取ろうと、攻撃を合わせた。二人は鍔迫り合いで睨み合う。アルは膝をつかされた。氷猿は、歯を食いしばるアルを覗き込んで笑みをこぼし目を細めた。


「大丈夫、大丈夫? ねえ、大丈夫?」


 氷猿はアルの腹を蹴飛ばした。さらに剣をなぎ払う。二、三、四と五月雨のように、さらに六輪の風車のように振るわれる剣は、雷のような鋭さを撒き散らす。アルは鎧を切り裂かれ、腕、足、頬と身体中から血を流していた。


「動く、動ける、動かせる」


 猿は興奮していた。歯を剥き、その隙間から笑い声が漏れでていた。アルを殺すよりも、剣を振るう事自体が目的のように振るっていた。


「良い身体、すこぶる健康、憂いなし」


 アルは足で捻るように雪を踏み固めた。呼吸に意識を集中し、脇を締め、肩の力を抜く。肩を上下させて笑う氷猿の視線がアルから外れた瞬間、その胸先にアルの剣が迫った。氷猿は剣をつかんだ。アルは岩壁にでも突っ込んでしまったような衝撃を受けた。渾身の力で剣を突き立てるが、氷猿は余裕の表情を崩さない。アルは剣を軸にして飛んだ。背面飛びの格好になったアルは、革ベルトからナイフを取って猿の顔面に突き立てた。アルは猿の瞳に映る自分と目が合った。向こう側のアルの唇が動く。奇妙に思ったアルは、さらに覗き込む。やはり何か言っている。自分が言葉を発しているのかと疑ったが、間違いなく自分の口は閉じられていた。アルは心に思った。「何と言った?」。向こう側のアルの口が再び動く。アルは凝視していた。「何と言っている?」。繰り返される。


「……ろ……ゲロ……逃げロ……!」


 氷猿を捉えたと思ったアルのナイフは空を切る。氷猿は蜃気楼のように揺れて虚像となった。アルは氷猿を通り抜けて、地面に転がっていた。アルは慌てて立ち上がりナイフを構えた。氷猿はだらんと突っ立ってアルを見ていた。全てをわかっていると言わんばかりの表情で。アルは乱れる息を整えようと必死だった。


「やるじゃないか。ええと……そう、ボルソ。ボルソ・フィンク」


 氷猿の顔から笑みが消える。目がさらに大きくなる。氷猿の顔が左右に大きく揺れだすと、カベルの肉体が裂けて、中から元の氷猿本体が出現した。


「誰に聞いた? どこで知った? なぜ言った?」


 氷猿は抜け殻となったカベルの肉体を、ちょうど洗濯物のシワを伸ばすように、大きく振った。怪鳥の羽ばたくような音と共に、血と体液の飛沫が飛び散った。氷猿は嫌悪の表情を浮かべてそれを後ろに放った。その隙にアルは剣を拾い、ユジエを探した。しかし、木に縛り付けたはずの雪を滑る魔物の姿はなかった。自分の攻撃が全く通用しないことに気が急いた。視界が狭まる。気づけばアルには、自分と氷猿の周りにスポットライトが落ちている程度しか光がなかった。アルは氷猿を回りこんでいく。


「ああ、不愉快だ」


 聞いたことのない雨の垂れ込めるような落ち着いた声が響いた。アルは辺りを見回すが、氷猿以外見えない。


「実に、不愉快だよ」


 氷猿は、先刻まで発していた、ありがちな猿の甲高い挑発するような声でなく、低く清澄で地下に貯まる水のような声を発していた。


「ボルソ、ボルソ、ボルソ! ボルソ・フィンク! それは違う!」

 氷猿はアルを振り返る。

「君の名前は? 君は何と言う?」

 アルは答えようとしなかった。氷猿は倦んだ表情で目を沈める。

「名前が何だ。何の関係がある?」

「ないなら、ないで構わないが、教えたところでどうにもなるまい」

「……アル。アルだ」

「それだけ?」


 アルはゆっくりと足を運んでいく。


「さあ? 僕は、アル。名前はそれだけだ」


 氷猿は遠くから笑い声を漏らした。それから納得したように自分自身に向けてうなづいた。

「いいね、いいよ、『名前だけ』。うらやましい。それがいい、その方がいい。私もそうありたかった。なぜ私はそうでなかったのか……なぜだ」


 氷猿は突然目から涙をこぼした。明後日の方角を見ながら嘆いている。


「何を言っているんだ、あいつは?」

 アルは困惑し、小声で自らに問うた。


「彼の言う通り、全くもってその通り。君の言う通り」


 氷猿は急にアルに目を向けると、真っ直ぐ向かってきた。大きく腕を振って、しっかりと背筋を伸ばし、極端なほどの大股で。氷猿はアルの目の前で急停止すると、号泣のまま怒号を上げた。


「ワタシニ、ナマエナド、ナイ! ダンジテ、ナイ! ナイ、ナイ、ナイ!」


 氷猿は元の声音を用いて、洞窟に反響する痺れるような機械的なトーンで、拳を激しく上下にしながら叫びだした。その超然的態度にアルは吐き気を覚えた。


「貴様の名など、誰も興味がないよ」


 氷猿は叩き切られた。脳天から腹部まで、カベルの剛剣が斬り裂いた。脳がこぼれ落ち、腸が垂れ下がる。アルは顔に氷猿の血を浴びた。カベルは剣を引き抜いて、剣から血を払った。


「カベル、生きていたんですか!」


「俺が死んだと思ったのか。おまえこそ、どこにいた?」


 二つに裂けた氷猿――一面が血の海と化していた――を真ん中に、二人が話をしていると、猿の両手が狂ったように動き出し、右手と左手が互いの手をつかんだ。一息に引っ張り合うと、元の形を求めて傷口が合わさる。ぬめる肉の体液が糸を引きながら滴り落ちると、氷猿の口は笑いながらそれをこぼさんとすする。


「悪魔め!」


 カベルは抜き胴に斬る。氷猿は柳が垂れるようにかわす。カベルは袈裟斬りを重ねる。重い手応えの内に、氷猿の幻影を斬った。ベルメランクの騎士が突きを放とうとした時、アルが割って入った。


「邪魔だ!」


 アルは驚愕の表情で氷猿を見ていた。氷猿の体全体が心臓の鼓動するように脈動すると、体の中心を走る傷口から群がるミミズ状の生物が絡み合い始めた。


「どけ!」


 カベルはアルを突き飛ばして、氷猿に飛びかかる。上段の一撃は、柔らかく弾力のあるミミズ状の群れに絡め取られた。カベルは剣を引きぬこうと、氷猿に足をかけた。氷猿の体が膨張して光を放つ。その体積が三倍ほどになり、アルはカベルを突き飛ばすようにしてかばった。圧縮された空気が一気に解放され、光の粒子が空間一帯から離散した。巨大なハンマーのような衝撃波がアルとカベルを襲った。

 アルが目を覚ましたのはラシュ族と戦った森の中で、その死体と自分たちの馬車の残骸の傍らだった。カベルもすぐそばに倒れており、アルが起きるのと同時に気がついた。


「猿はどうした?」

「さあ、わかりません。爆発して、それで……」


 周囲の様子に変わった様子はなく、木々の葉には雪が積もり、爆風を受けた痕跡はなく、日の陰りもその場所にたどり着いた時と変わらなかった。ユジエが縛り付けられた状態でおとなしく、呼吸に合わせて縁を泳がせていた。アルは自分の体を見た。切り裂かれた鎧、顔の傷、血の滲む痛み。そっと指で探ってみると、そのどれもが本物だった。


「俺たちの荷物は奪われた。帰るぞ。日が暮れる」

「僕らは氷猿と戦いましたよね?」


 カベルはユジエの縄を解いた。


「あれは一体どういうことなんでしょうか……」


 カベルは松明を点けて何も言わずに出発したので、アルは慌てて追いかけた。ほとんど日の残っていない森は、怪物に飲み込まれていくようだった。

「ああ、戦った。そして俺もおまえも幻を見せられた」

 森を抜けて雪原に出た時にカベルは話した。

「今のところ、あの化物に対抗する手段はない」

「ええ、そう思います。逃げる以外に手はありません」

「だが、俺たちの目的はやつではない」

「手紙とメダルはどうするつもりですか?」

「戻ってから考える」


 二人は沈黙の内に森を出た。雪原に出ると、森からフクロウの声がした。来た時の雪の轍をたどる。


「馬の件だが……」

「何ですか?」


 ユジエのスピードにカベルの声も後方へと消える。


「馬だ!」


 アルはカベルにできるだけ近づいた。

「馬がどうかしましたか?」

「……馬のことは悪かった。それだけだ」


 カベルはアルと目を合わせたが、すぐに前に向き直った。アルは何も答えなかった。肌を切るような冷たい空気を顔に受けながら、二人は村へと急いだ。大きなモミの木の分かれ道を右に行くと、十軒ほどの家々が身を寄せあっていた。村の入り口ではベオが二人をじっと待っていた。


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