北へ(14)
アルは馬車の脇で馬の様子に気をかけていた。その日も、次の日も。三日目は昼頃から豪雪となって身動きがとれなくなった。しかも山小屋にたどり着くも、そこは屋根が落ちた廃屋となっていた。大人たちは必死になって雪をかき分けた。半日以上かけてどうにか人数分のスペースを確保した時には彼も彼も酷労疲憊の態で、簡単な食事を無心に済ませると一言も発せずに眠るのだった。明くる日も、さらに明くる日も前の見えないほどの吹雪は止まなかった。子ども二人は手遊びやままごとを飽きもせずに繰り返し、大人たちは沈黙していた。その夜にアルの馬がしきりに鳴くようになった。「大丈夫かしら」とペトラが問いかけても、アルはどちらともないような表情を作るだけだった。深夜になっても鳴き続ける馬に、ペトラは体を起こしてじとっとした重い目つきを投げかけた。アルはすぐに謝ったがペトラは答えなかった。
「殺せ」
水面に投じた小石の波紋のように広がる。それはカベルが発した。
「馬を殺せ。そいつはもう駄目だ」
「今、この場で?」アルは慎重な口ぶりを見せた。
「この状況で良くなりようがない。もう楽にしてやれ」
「ここまで来て……」
「何をそんなに固執しているのかわからないが、こううるさくては眠れない」
「僕は何も固執していませんよ。むしろ馬に固執していたのはあなたの方じゃ」
アルはそこまで言うと、ふとペトラと目が合って押し黙った。彼女は何も言わなかった。
「おまえがやらないのなら、おれがやろう」
アルはすかさず立ち上がってカベルを制した。それから馬を外へと連れ出した。降り積もった雪によって穴ぐらのようになった山小屋から這い出すと、外は澄み渡っていた。外の空気に触れると今度は馬がアルを連れ出すように先を行った。静寂の世界に落ちる月明かりがアルと馬を誘う。光の落ちている先へ馬が駆け出した。天使の忘れ物のように光るその場所に、アルも急いだ。先んじた馬は月光を浴びて足踏みしながらささやかにいなないた。アルは立ち止まるとその姿に見とれていた。アルは暗闇の最中に立ちすくみ、馬の立つ場所だけが異様に明るく感じていた。新雪の深みから足を抜いて歩を進めると、馬の場所も一歩退くように感じられ近づくことができなくなった。息が上がる。ふと後ろを振り返ると、足跡は確かに雪に埋もれた山小屋の跡地に続いている。アルは馬を追うが届かない。雪の深まりは月の泳ぐ銀河に溺れるようだった。
「アル」アルはジーンに肩をつかまれて我に返る。
「どうかしていましたか?」
「どうしたかと思って来てみれば、ぼうっと突っ立って何をしている?」
アルは自分の手に手綱が握られており、馬のすぐ横に自身がいることに気がついて辺りを見回した。――そこに月はなかった。
「俺が変わろうか?」
ジーンが馬の顔をなでた。馬は夜の寒さにかすかに震えている。
「まだ殺す時じゃないと思います」
「さっき鳴き続けていたのは普通じゃない。あいつの言うこともわかる。この馬はこの環境に耐え切れなくなっている」
「歩けないわけじゃありません。環境適応に時間が必要な個体なんだろうと思います。僕だって馬は見てきていますから、それくらいわかります。それにこの馬は僕の馬のはず。僕はベルメランクの馬だからって交換したんですよ。これ以上勝手に決めつけられるのはごめんです」
ジーンは穏やかに笑みを浮かべて緩やかに首を振った。
「つくづくあの男と相性が悪いな」
「仕事は仕事としてやり遂げます。それだけです。依頼者がどんな人間だろうとそれは変わりませんし、そこはちゃんとします」
「わかってればいい」
「教えてください。ジーンだったらどうしますか。あの男と仲良くなったみたいですけれど」
「俺がか? 何を言っている?」ジーンは鼻で笑った。
「何って、見回りの時に仲良く笑いながら話していたじゃないですか」
「俺があの男と話して笑っていた? まさか。それは俺には想像できない話だな」
ジーンの表情からはジョークの気配が微塵もなかった。
「あの男とは仕事の話以外はしていない。おまえほど突っかかりもしないがな」
「あの……僕はやっぱりおかしいですか? どうも氷猿とかいう化け物に遭ってからおかしいような気がします」
「さあ、どうだろうな。魔術か幻術にでもあてられたか? しかし悪いが俺には専門外だ」
「そうだとしたら相手を倒す以外に方法はないということでしょうか」
「術を解く方法としてはよく聞く話だ。しかし、いつ会えるとも知れん相手なのが問題だな」
アルは途方に暮れる。自分の状況から目をそらすように馬をなでた。
「とにかく、繰り返しになりますが、馬を殺すのは待ってください」
「外に置いておくしかないぞ」
「ええ、そうします。それで駄目ならあきらめます」
ジーンが雪の中の山小屋跡地へと戻ろうとすると、アルは馬と共に立ち止まった。ジーンが中へ入るように促すがアルはそのままとどまった。
「もう少しここにいます」
「風邪をひいても仕事は待ってくれんぞ」
ジーンはそれだけ言うと中へ戻っていった。馬が雪の上に座り休もうとしたので、アルは荷馬車に走り、敷き藁を持ってきて敷いてやった。それからかまくらを作り始めて、出来上がったのは夜更け過ぎだった。アルは馬に寄りかかってしまうと、馬はアルを我が子のように抱いた。温もりはアルのまぶたを閉じさせようと重力よりも重く引いた。馬の感触は春の草原のようで、アルは睡魔に抗う術はなかった。
カベルの表情は相変わらず読めないが、アルには不満気に見えた。朝にアルが馬を連れて立っているのを見ても、カベルは何ら反応を示すことはなかった。当の馬はというと、飼い葉の食い付きが良く、その足取りは幾ばくか軽い印象だった。
「もうそろそろ山は終わりだ」
ベオとアルは並んで先頭を行く。雪が降る。雪が止む。時折晴れれば、白雪は虹色のプリズムを輝かせる。カシアはその虹を追いかけて、雪の上に派手に転んだ。クーロもカシアを追いかけて、同じように雪に飛び込むと、二人はやはり笑うのだった。ペトラは不意に駆け出すカシアに声をかけてを心配そうに見つめる。
「お嬢様、戻ってください! カベル、あなたからもお嬢様に言い聞かせて欲しいの……」
「この距離ならば俺も監視の目が届く。それに傭兵どももいることだ、問題ないだろう」
「それはいい加減だわ。この間約束したばかりじゃありませんか、もう忘れたんですか!」
ペトラの声は空気の冷たさによってより鮮烈に響いた。
「……あんたはお嬢様よりも、この雪に参っているな。山を越えてからこの方変わらない風景だ。無理もない」
「私は大丈夫です。ただ、本当にお嬢様が心配なだけです」
カベルはペトラの目の下のくまと乱れた髪を見つめた。
「……それならいい。今のところは大丈夫だ。問題があれば俺がすぐに行く」カベルは続けざまに言った。「お嬢様、それ以上離れないでください」
カシアはカベルに言われたことに驚いて立ち上がると、その場でこくりとうなづいた。ペトラはため息をひとつつくと、つかの間息を止めた。
「すでにメナスドールに入っている。じきにレフォードだ。今はとにかく進むだけだ」
「……そうですね。無事に、とにかく無事に……」
ペトラは力を一段と抜いて座り直すと静かに目をつぶった。休憩時にペトラは何も言わなかった。ビスケットをお湯で飲み込む簡単な食事を終えると、ペトラはカシアに手を重ねていた。
「馬車の回りにいなさい」
旅の再開の前にベオはクーロを影に引き込んで言った。
「大丈夫だよ。ちゃんと近くにいるでしょう」
「不用意に飛び出すなということだ。あの娘と遊ぶのは少し控えなさい」
「わかった」
クーロはカシアのそばに寄るとベオの厳しい顔を振り返った。ベオの傍らにペトラが近づくと、彼女は礼を言った。
「せっかく仲良くしていただいているところに水を差して申し訳ありません」
「子どもを守るため、慮ってのことだ。私もあなたと同じ気持ちですよ」
「そう言っていただけると安心します」
「先日のようにオオカミが襲って来る事も、あるいは魔物が飛び出してくることも想定しなければなりません。私も旅を始めてから何度も言い聞かせていますが、子どもというのはなかなか聞き分けてくれない」
「ええ、本当に。カシアお嬢様も返事はするんですけれど」
「返事ができていても、行動しなければわかったとは言えん。できるまで繰り返す他ないのだが、親の心配などどこ吹く風だ」
「私は子どもがいませんけど、お嬢様のお世話をしてきて何となくわかります」
「私は『言いつけを守らなければ死ぬぞ』と警告している。それが事実だからだ。この自然は容易に死をもたらす」
「ここではそうでしょうけれど……カシア様にはなんと言って良いのやら……」
「”知る”ことだ。"学ぶ”ことだ。それ以外にない」
ペトラはその日何度目かのため息をつかざるを得なかった。ベオはひとりうなづき、先導者の役目に戻っていった。それから一時間ほど進んだところで、ベオはアルに後ろへ下がるように言った。
「僕なら大丈夫ですよ」
「狩人よ、そうではない。君の弓の腕前を期待しているのだ」
「後方支援をしろ、ということですか?」
「重要なことだ。荷馬車から全体を見ていてくれ。目と耳を頼む」
アルは荷馬車の轍を追うように進んだ。ベオが後ろを振り向くと左手に大きく回るように指示した。足首が隠れるほどだった積雪は明らかに少なくなってきた。おかげで馬車のスピードが徐々に早まっていった。それでも木々の群がり――雪林の深まりは変わらなかった。ベオが立ち止まってカベルとジーンに進路の相談をし始めた。天候の崩れがないので、一気に山を下りてしまおうと提案した。
「山小屋はあるのか?」
「ここから十分ほどのところにある。そこで一夜を明かすか、あるいは下山すれば小さな集落がある。今のペースだと、ちょうど陽が落ちる頃に到着するだろう」
「俺はどちらでも構わない。依頼人が決めるべきだ」
「ガイドが下山を薦めているんだ。それに従おう」
アルが三頭の馬に餌をやっているとカシアが自分もやりたいと言い出した。
「馬は元気?」
「どうだろうね。正直に言って、この子の具合が良くないんだ」
「寒いから?」
「恐らくそうだろう。雪山を越えるのに体力が相当いったはずだしね」
カシアの小さな両手が馬の顔をそっと包む。アルは馬の顔を改めて見ると、柔和な表情だったが、口元のシワ、浮き出た筋、ヒゲに交じる白毛とたてがみのおぼろさを見て取った。馬はその顔を笑うように動かしたが、白目にかすかな濁りが覗いた。
「でも、こんなに元気だよ」
「そうだね。僕の勘違いかもしれないな。早く山を下りて、ゆっくり休ませてあげられたらいいね」
何度も飽きずに馬をなでるカシアに、アルは目を細めた。
「馬が好きなんだね」
カシアがうなづくと、馬はそれがわかったかのようにカシアの頬を舐めた。
「馬も好きだけど、犬も好きだよ」
「そうなんだ。犬は飼っていたの」
「ええ、そうよ。ビケっていう白いおじいちゃん犬……」
「それじゃあビケはお家に置いて来たんだね」
「ビケは死んじゃった……」
「それは……ごめん」
カシアの目にはかすかに涙が滲んだ。
「いいの。おじいちゃんだったし、病気だったから。本当だったら、一緒に連れてこられたんだけど、仕方ないの」
「そうか……君は強い子だね」
「ねえ、オオカミって犬の友達でしょう?」
「友達……友達というか、親戚というか、仲間というかそういうものだね。それがどうしたの?」
「この間オオカミが襲ってきて、あの時はとっても怖かったけれど、ちょっとビケのことを思い出したの」
「そうだったんだ」
「だから、あんまりオオカミも犬も殺さないであげて」
アルは思わぬ提案に声を上げて笑ってしまった。そこにペトラが顔を出した。
「どうかしたんですか?」
「いえ、特には……」アルが続けて、カシアからのお願いを話すと、ペトラは困ったように微笑んだ。
「お嬢様、オオカミはやっつけねばならないのですよ。そうしないと、お嬢様が食べられてしまうのですから」
「オオカミにもご飯をあげれば仲良くなれるもん」
「オオカミは家畜も人も襲って食べてしまうんですよ。ですから、退治しないといけないんです。先日、お嬢様も襲われたじゃありませんか。もう少しで大変なことになっていたんですよ」
ペトラは徐々に興奮する自分を抑えきれずにいた。ヒステリックになっていく様子に、アルは割って入った。
「僕は何度もオオカミに対処しているから、追い払い方を心得ているんだ。だから僕たちに付いていてくれるかい。もしそうでなければ、ペトラさんの言う通り食べられてしまうからね。そんなことをしたら、オオカミを殺さなきゃならないんだ。オオカミを殺さずに済ますためにも、ちゃんと僕たちのそばにいて欲しい。わかったかい?」
「……わかった」
「ありがとう」
アルはペトラに目配せをした。彼女はしぶしぶ納得した様子だった。アルは馬の体を手で励ますように叩いた。手を伝う馬の温かさに、アルは心の底からほっとした。




