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北へ(13)

 吹雪の中でアルはベオ・ガルによって子どものように両脇を抱えられていた。顔の雪が払われる。アルの焦点の合わない目に気づいたベオは平手打ちを食らわせる。意識を取り戻したアルは大量の水を吐き出した。腹の中を全て吐き出して、酸素までも吐き尽くした後で、喉を押さえながら激しく咳込んだ。


「よし、生きているな」


 ジーンが吹きつける風雪に目を細めながら叫んだ。ベオはアルの腕を取って立たせた。


「話せるか。一体、誰にやられた?」

「……っぱりあれは幻だったんだ」警笛の鳴るような風が吹いて、アルの声をさらっていった。

「何だって。敵は誰かわかるか?」

「猿! 猿です!」アルは正気を取り戻すように怒鳴った。

「猿だと?」ベオは驚愕した。「山小屋へ戻ろう」


 ジーンは腰のランタンを揺らし、腕で顔を守りながら戻ってきた。「この吹雪じゃ何も見えんな」


 ベオは二人の背中を押して山小屋へと急いだ。アルは膝に手をついてへたり、ジーンは体の雪を払いながらカベルたちに首を振った。


「心当たりがあるのか?」


 ベオは扉に鍵をかけると、小屋中の窓という窓から外の暗闇に目を走らせた。それからジーンたちの元へ戻ると、どっかと腰を下ろした。ペトラが話しかけようとしたが、男たちの神妙な顔つきに沈黙してしまった。ベオはクーロとカシアが穏やかに眠っているのを確認すると、話し始めた。


「あれは”氷猿”という。俺の敵だ」

「それじゃ、あんたを狙ってきたのか?」ジーンが訊ねる。

「それはわからない。だが、私の狙いであることは間違いない」

「なぜアルを襲ったんだ?」

「あれは小賢しい真似をする。近くにいた人間を弄んだんだろう」

「それはその通りだと思います。挑発的で舐めたやつでした」

「顔ははっきり見たか?」

「青白い顔の禿げた猿です。一枚布のローブを羽織って、ちょうどそんな仮面をしていました」


 アルはベオの仮面を指さした。ベオは仮面をその手に取って目を落とした。


「ベオさん、どういうことですか。それはあなたたちの部族の神様だって言いましたよね? それとそっくりのものをあの魔物が被っていたんですけれど」


 ジーンはベオから仮面を受け取るとじっくりと観察した。


「それは、そうだろう。なぜなら、あいつは元々サルーミ族の人間だからだ」

「人間? あれがですか?」

「名前はボルソ・フィンク。嫉妬と虚栄心に満ちた傲慢な男。哀れな男だった」

「どうしてあんな姿に?」

「詳しくはわからん。鳥の男にそそのかされたんだ」

「鳥の男?」

「怪しい魔術――いや、ペテンを使うその男が我々の村にやって来たのは今から十年前のことだ。とある商人の馬車に乗ってやって来た。我々の仮面とは違うが似たような仮面を被っていたので、子どもたちはあっという間に彼を取り囲んだ。親たちも興味深げにその様子を見たものだ。手から花や玉を取り出したり、宙に浮いたりしていたな。俺を含めた村の男たちはその男のことを信じてなどいなかったが、ボルソは違った。あいつはすぐさま女子供に混じって、鳥男のイカサマに夢中になった」


「何か意図があったのか?」ジーンが訊ねた。


「恐らくそういったものはなかったろうと思う。珍しいものにすぐ飛びつく癖のある男だったからな」

「そのボルソという男が魔物になったのはどうしてだ?」


「村の祭で狩りの腕を競うんだが、そこで一番になった者から村の娘と結婚をすることが許される。俺はこの子の母親――ミーラを娶ることができた」


「ボルソは?」


 ベオは頭を振った。


「やつは一匹も仕留めることができなかった。元々、何をやらせても駄目な男だったからな。狩りでウサギ一匹捕るのも見たことがない」


「あんたはそいつの嫉妬を買ったわけだな」


「そうだ。その日からボルソは村の者たちから離れて暮らすようになった。森の奥の隠れ家で生活をしていたようだ。鳥男がボルソの元を頻繁に訪れるようになったのも、それから間もなくだった。半年ほどはボルソも村に出入りしていたが、それから一切見かけなくなった。誰も、だ。この子が生まれて最初の冬だった。よく晴れた満月の夜だった。俺はミーラに起こされた。『変な物音がする』と。俺が外へ見回りに行くと、家から悲鳴が聞こえた。すぐに取って返すと、気絶した妻を抱えたボルソがいた。すでに”氷猿”の姿だった。君も見た通り、異様な姿だった」


 アルはベオに小さくうなづく。


「化け物だと思った俺は飛びかかったが、やつはすり抜けるように外へ飛び出していった」

「なぜその猿がボルソだとわかった?」

「声だ、あの不愉快な尖り声は間違いなくボルソのものだった。外へ出たやつは笑っていた。そして、同時に泣いていた。そのまま逃げられるはずだったが、俺を待っていたのだ。チャンスを逃すまいと俺は再び飛びかかった。俺はやつにつかまれると地面に何度も叩きつけられ、屋根に向かって放り投げられた。雪がなかったら死んでいただろう」

「それからどうした?」

「村長の元へ駆け込んださ。狩り仲間の男たち四人と共にボルソの隠れ家へと向かった。その頃にはずいぶんと吹雪いてしまっていたな。だが、そんなものは関係なかった。ミーラをさらわれた俺はとにかく急いだ。やつは隠れ家の前で、辺り一面血まみれの中子どものように泣いていた」


「殺されたのか……」

 暖炉の炎が玉響に燃えると、ベオの瞳に業火が宿った。


「そうだ。殺した。殺して食ったのだ。あいつはミーラを食っていた。手も足も、腹わたも。辺りには彼女の肉片が散らばっていた。やつは俺たちを認めると、何と言ったと思う? 『こんなはずじゃなかった。こうするつもりじゃなかった』と泣きながら謝ってきた。俺は我を失った。刀をやつの頭に食らわせるために。だが、俺は弱かった。仲間も援護してくれていたにも関わらず、俺は一方的にやられたんだ。最初と同じように殴られて、放り投げられて気を失ってしまった。目を覚ました時、四人は殺されていた。全員が首を刈られていた。起きた俺の目の前に、ミーラの頭を突きつけてこう言った。『嫌いって言われたんだ。愛しい人に嫌いって言われたんだ』とな。号泣して声を震わせてな。それから一気に怒りの表情に変わると、力に任せて両手でミーラの頭を圧し潰した。それからまたやつは泣いた」


「……狂ってます……」

「その通り、狂っている。だから私はやつをこの世から消さねばならん。この子のためにも」


 ベオは触れれば壊れてしまうシャボン玉でも扱うかのように己自身の娘を頭をなでる。


「でも……なぜそんな危険な旅に娘さんを?」


「初めは姉夫婦の元へ預けていた。しかしやつはどこかで俺に、いや、ミーラに娘がいることを知ったのだろう。二年前にやつは村を襲ったのだ。義兄は大怪我を負い、姉はこの子を守って殺された。村にも多くの負傷者が出た。反対もあったが、これ以上、迷惑はかけられんと思ったのだ。それに自分の娘だ。その責任を他人に委ねたくない」


「ひとつ疑問がある」

「何だ?」

「なぜあんたは殺されなかった?」

 ベオはジーンの問に答えられずにいた。息の詰まるような時間が過ぎる。


「殺されていれば、どんなに良かったことか!」ベオの握りこぶしが憤怒と憎悪に固められてゆく。「この命で済めば、どんなに良かったことか」ベオの握りこぶしは後悔と慚愧に顫えている。「私が弱いばかりに……力がないばかりに……」

 妻を失った男の目から静かに涙が落ちていった。人の心までをも凍らせるような北方の大地の凍てつく風が悲しく吹いた。炭が爆ぜる音が沈黙を破った。


「あんな化け物相手にどうするつもりだ。何か対策があるのか?」

「それを探している。手がかりは鳥の男だろうと思っている」

「そうは言っても、鳥男だってどこにいるのかわからないんだろう?」

「……その通りだ」


「その鳥男は商人について村々を回っているって言ってましたよね。それじゃあ村で待っていれば良かったんじゃないですか?」


「ボルソを怪物にして以来、サルーミの村には来ていていない。周辺の村にも当たって情報を集めたが、鳥男に関する情報は得られなかった。そもそもそんな男は見たことがないと言われる始末だったよ。だから俺はこの北国を歩きまわっている。貴方がたについていくと決めたのも、何でもいいから情報、あるいはほんのわずかでもきっかけが欲しかったからだ」


 アルは彼の考えに深くうなづいた。「協力できることがあれば……」


「ちょっと待て」アルが言葉を継ぐ前に、カベルが遮った。「俺たちの仕事をこなすのが先だ。契約の義務は果たしてもらう」

「それはもちろん。レフォードまでたどり着くことが先決ですよ。それからの話です」

「俺もレフォードで何か話が聞けないものかと思っている」

「何だ、まだ行ってないのか?」

「そういう訳ではないが、俺のような田舎者はレフォードでは何かと疎んじられるもので、積極的に話そうとするような人間はそう多くない」

「わかった。レフォードまで道案内してくれたら情報収集を手伝おう」

「そうしてくれると助かる」

「ここからあとどれくらいかかるんだ?」

「雪が多い。十日から二週間ほどだろうな」

「俺はもう休む。話はもう止してくれ」


 カベルの宣言に一同は休むことにした。アルはジーンに休むように言われたが、横になってもなかなか寝付けずにいた。目をつぶれば氷猿の姿が浮かぶ。瞼の裏に焼き付いた禿げ猿の嫌らしい顔とシ=レプの仮面、そしてベオの妻の不幸。繰り返される凄惨な血のイメージが濡れ雪のようにこびりつく。アルには猿の幻聴が聞こえる。何かを促す声、どこかへ誘う声、人をあざ笑う声。細く萎びた指と野卑な体毛。アルはふと思った。『尻尾はあったのだろうか』


――知りたいだろう?


 アルはがばっと起き上がると、彼を起こしにすぐそばに来ていたカシアが身を縮こませて目を丸くした。


「もう、驚かせないでよ!」


 カシアはアルの腕をはたき、ペトラが笑う。暖炉には燃え尽きた薪がくすぶる。

「みんなは?」

「もう出発の準備をしているよ」


 アルは慌てて立ち上がった。


「起こしてくれればいいのに」

「だから起こしに来たんだよ」


 寝ぐせのついたまま外へ駆けていくアルを見ながらカシアはあきれたようだった。外ではちょうど馬を馬車に繋ぎ終えたところだった。ジーン、カベル、ベオの三人が行程の確認を話し合い、クーロは馬をなでていた。


「すみません、寝坊してしまって」

「俺が起こさなかったんだよ」

「ジーン、でも……」

「気にするな。馬の世話くらいなんてことはない」

「ありがとうございます。それで、馬の具合は?」

「変わりないな。今は少し落ち着いているが、これからの道でどうなるか」

 ペトラとカシアが山小屋から荷物を抱えて出てきた。アルはすぐに二人の手から荷物を受け取りに走った。ペトラは丁重に断って、中にまだ荷物があることを伝えた。アルは小気味良く返事をして山小屋へと入っていった。

「お寝坊さんにも働いてもらわないとね」

 カシアは他の皆に向けておどけて言うと、女たちは互いの顔を見合わせて笑った。


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