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北へ(12)

 朝になっても雪は降り続けていた。カシアはクーロと一緒に外へ出ると、雪に向かって息を吹いた。雪は空へ逃げた。アルは馬の様子を見ていた。寒さによって馬はひどく消耗していた。


「無事に山を降りられたらいいんですが……」

「荷物は食料ばかりだ。これは捨てられない。平地にでたら牧場でもあればいいが……」

「そうですね、休ませながら進むことにしましょう」


 アルとジーンが話しているところへ、ベオ・ガルがやって来た。


「牧場か……南に山を降りてから西へ少し入ることになるが、それでもいいか?」

「馬のためにも安心して休ませてあげたいんです」

「わかった。遠回りになるが、そこへ向かおう」


 ヒュネール山東側の山道は西側に比べて幅広で緩やかだったが、その分重ねて降り積もる雪の層が行く手を阻んでいた。雪の一歩を進める高く上げた足は速度と体力をこそぎ落としていく。幸い、山小屋は――簡素で粗末なものだったが――半日の行程毎に二軒ほど見かけた。充分な休息を取りつつ順調に山を下っていく。女の子二人は馬車でおしゃべりに興じていたかと思うと、急にそこから降りて今度は先導するように走りだしては雪合戦を始めた。クーロが歌を歌い始めるとカシアがハミングで付いていく。歌詞を教えられると、カシアもクーロに合わせて高らかに歌う。二人は背の高いモミの木から落ちる雪の音に驚くと玉の跳ねるような笑い声を響かせた。


 アルは馬の息遣いに集中していた。馬車に繋がれた馬は頭を上下させて鼻を鳴らしながら懸命に足を運んでいた。アルは慣れない寒さに、手綱を握る手に力が入る。指先の感覚の鈍さは革手袋の中で異物のように転がった。馬の鼻から飛び散った鼻水は口の回りで照り輝いている。アルはボロ布でそれを拭ってやった。山小屋に入るなり、アルは馬たちのために焚き火をこしらえた。白く烟ると目は真っ赤に充血した。

「様子はどうだ?」

 ジーンとベオが飼葉と水、それとアルの分の食料を持ってきた。

「ジーンとカベルの馬は大丈夫です。僕の方は恐らく風邪をひきましたね」


 アルはパンと干しイチジクを口にした。ベオが馬の様子を見て回りながら飼葉を与えた。燕麦やふすまがその手からポロポロと落ちた。それから黄褐色の薄いクッキー状の物を取り出した。アルの馬はベオの手からその匂いを嗅ぐと口にした。


「それは何ですか?」

「ポフグと言う。ミツバチの集めた花粉を蜂蜜で固めたものだ。食べてみろ」

 アルは馬と同じように匂いを嗅いでから口にした。少し重い食感だったが、最初に花の香りが一気に広がり、後から徐々に蜂蜜のまろやかな甘さが広がった。

「滋養強壮に効果がある。長い冬を越えるために蜂が蓄えるエネルギーの塊だ」

「すごく美味しいです」


 ベオは当然だというようにうなづいたが、馬に目を向けると冴えない表情を見せた。

「どうしましたか?」

 アルはポフグを食べ終えて手についたクズを払うと、山羊のミルクを飲んだ。

「何とも言えんな。君の言う通り、この馬は具合が良くない」

「やっぱりそうですよね……」


 ベオがカベルとジーンの馬にもポフグを与えてやると、馬たちはあっという間に平らげておかわりを催促するようにその手に鼻を寄せた。ベオは馬を顔を厚い両手で受け止めてやった。


「通常馬にポフグ与えれば、このように貪るように食べるものだ。だが、その馬は食欲がない」

「この気候に順応できていないらしいな」ジーンがため息まじりに言った。

「これからの時期は連日の吹雪もあるだろう。天気は期待せぬことだ。これを渡しておく。歩きながらでも少しずつ食べさせると良い」


 アルはベオからポフグをいくつか受け取ると礼を言った。


「この先の山小屋は?」

「一時間も歩けばあるが、ここより粗末なものだ。その先まで進んだほうがいい」

「そこまで行くしかあるまい」


 ジーンとベオが山小屋へ戻ってもアルは一人、馬の体をさすり続けた。外ではクーロとカシアの楽しげな声が響いた。出発の段になると雪の勢いが増していた。雲の重く低い空はアルの馬の具合を表すようだった。馬三頭を馬車に、アルとジーンは後ろからそれを押して進んだ。


「体力は大丈夫か?」

「ええ、もちろん。こうして動いているおかげで、寒さも何とかなっていますよ」

「注意しろ。汗はあっという間に冷えて体力が奪われる」

「さっさと山を下りたいものです」

「全くだな」


 木々のまばらな林の雪の浅い箇所に差し掛かると、馬車は滞りなく進むことができた。子どもたちがまた馬車を降りて走り回りだす。ペトラがカシアに戻るように言うが、彼女は生返事をするばかりでクーロと遊ぶのに夢中になっていた。


 馬車の前方を走っていたクーロの足が急に止まった。その背中にカシアは激突して鼻を打った。


「何、どうしたの?」

「しっ、黙って!」


 クーロは後ろに振り返ると人差し指を立ててカシアに言いつけた。前に向き直った時、木陰から白いオオカミが三匹顔を出した。それにいち早く気づいたのはアルとジーンだった。最も手前にいたオオカミの鼻筋に薄い風紋状のシワが浮かぶと、その腹から遅れて唸り声が小さく湧き上がった。気づいたカシアが悲鳴を上げた。カベルが御者台から飛び出して行く。同時にベオの空気を切り裂くような指笛が二度響く。オオカミは少女二人に向かって弾かれるように駆け出した。巻き上げられる雪塵に獣の狂気が煌めく。クーロは矢を放った。それはオオカミの後方に刺さった。次射が間に合わないと判断したクーロは小刀を抜き、カシアと手を繋いで逃げ出した。ベオは腰の山刀に手をかけると、投げつけようと振り上げる。先頭のオオカミは口から涎を撒き散らしながら激しく吠えたてた。


 アルは弓を改良していた。両端の反りをきつくして、ストランド数をひとつ上げて反発を強めた。バランス調整に苦心したが、その甲斐あって軌道の直線性、貫通力を得ることができた。アルはオオカミが三十メートル以内に入ったのを目算すると、手を離した。放たれた矢は向かって斜めに吹く風にわずかによろけたがオオカミの眉間から後頭部に突き抜けると、その脳を潰した。オオカミは走る勢いのまま雪に突っ込んで逆さに足を突き出した。


「横だ!」


 ジーンが叫ぶ。ペトラの悲鳴が響くが、すでにアルはクーロの側方から襲いかかるオオカミに狙いを定めていた。アルは大きく口を膨らませていた。クーロに向かって伸び上がると同時に矢はオオカミの頭を捉えていた。


 カベルが少女たちを確保すると、ベオとジーンがオオカミに立ち向かう。仲間をやられて激昂したオオカミは、ベオの腕に食らいついた。しかし、ベオの腕には牛のなめし革の上に白樺のしなやかな樹皮を編んだ籠手とそれを覆うトナカイの分厚い毛皮が付けられており、獣の牙が肉と血に食いつくことは到底叶わなかった。ベオはオオカミの無防備な頭に山刀を振り下ろした。それは深々と食い込んで頭蓋骨を砕いた。ベオはオオカミの頭を鷲つかむと腕に食い込ん獣の白い牙を外した。最後の一匹はジーンに相対すると、ベオの手に殺された仲間の死体にたじろいだ。唸りながらも尾が徐々に丸く下がっていき、逃げ出さざるを得なかった。アルは弓を下ろして息を解放した。弦の残る顫動はクジラの歌のようにその腕を包み込んでいた。


「お怪我はありませんか?」


 息せき切って馬車から飛び出したペトラは、カベルの腕の中の二人を見ると震える両の手を握りしめた。カシアは目に涙を浮かべて頭を振った。ベオは自身の娘に近づいた。


「父上!」

 クーロの抱きつくのを、咎めるように押さえた。

「不用意だぞ、クーロ。いくら単なるオオカミとはいえ、食いつかれればおまえはひとたまりもない。しかも客人と一緒だ」


 父の射抜くような眼差しと、きつく抱く両手の重さに、クーロはうつむいた。


「遊びで死ぬこともある。”ミガロ”を忘れるな。常々言っていることだ」

 ベオの熊の唸り声とも思えるような声にクーロは石像のようになった。

「”ミガロ”を忘れれば、自分をなくしてしまう。そうなればおまえは強烈な痛みと酷い罰を与えられる。そうなれば私でも助けることはできなくなってしまう。死んでしまうのだ」


 クーロはうつむいたまま、その頬を伝う涙が落ちると雪の上に小さな穴を穿った。ベオはクーロの両肩からそっと手を離すと、指で涙を拭ってやった。


「果たすべき役目を忘れるな」


 ジーンは逃げたオオカミの背中が消えてからもその先を見つめていた。厚い雪化粧の木々からわずかに覗く葉は黒く、風景にシミのように広がっている。


「まだ何かいますか?」

「……何かおかしいと思わないか?」

 アルはモノトーンの世界に目を凝らした。

「わかりません。特に変わったところは……」


 突然、モミの木の枝が揺れるとアルは矢を放った。飛び出したのはベオ・ガルの仮面にも似た面妖な顔を持つヒゲハゲタカだった。巨大な羽を持ち雪山の王者の風格を漂わせてひとつ羽ばたくと、人間たちに向けて警告とも取れるような奇しい鳴き声を上げながら飛び去った。


「鳥ですね」


 ジーンとアルは違和感の正体をつかめぬまま皆のもとへと戻ると、鼻をすすりながらウサギのように目を赤くしているクーロ・ガルを横目に、彼女の父親はアルの肩を豪快に叩いた。

「さっきは助かった。良い腕をしている」


 アルは弓をくるりと回して背負った。「当たって良かったです。それよりも、子どもたちに怪我は?」


「二人とも無事だ、問題ない。ありがとう。弓はどこで習った?」

「ジーンに少し手ほどきを受けました。あとはほとんど我流ですよ」

「本当か、なるほど。今一度構えてみてくれ」


 アルが構えるとベオはその肩に触れた。


「少し外に開いている。肘に力が入っているな」


 アルは何度か構えて見せた。ベオはアルの胸を押さえつつ肩甲骨を動かして彼の姿形を整えていく。アルは背中の突っ張りを覚えた。


「使う筋肉が少し変わったからだ。君ならすぐに慣れるだろう」

「どうですか?」アルはジーンに顔を向けた。

「良いんじゃないか? 体が安定したよ」


 ジーンは率直に認めたつもりだったが、アルは邪推したような顔を見せていた。ジーンは鼻で笑って「次も期待しているよ」とだけ言った。


 馬車に向かう途中のクーロがアルの前に立ち止まった。アルが声をかけようとしたところでクーロが「ごめんなさい」と叫んだが、語尾は消え入りそうなほど小さな声になった。アルはぎょっとしながらも、たちどころに丸い笑顔を見せた。


「大丈夫だよ」


 クーロは走りだすと馬車に飛び込んでいった。馬車が再び進行を始めると、雪がちらつき始めた。今度はベオも馬車を押すのに加わっていた。


「ところで”ミガロ”とは何だ?」

「”ミガロ”は教えだ。あらゆる教えだ。そしてそれは世界を創っているし、世界を覆っている」

「物質のようなものですか?」

「物質にも、生き物にも、光と闇にも”ミガロ”の教えは含まれる」

「教えということは何か独特の概念のようなものか?」

「何と言ったらいいか。そのようなものでもあるし、精霊のようなものでもある。説明しづらいものだ」

「ひどくぼやかされたエーテルのような」

「無は”ミガロ”とどう関係する?」ジーンが水を向けた。

「”ミガロ”は全てに含まれると言った。だから無にも”ミガロ”があるはずだ」

「それは厄介な問題だな」


 ジーンは困惑して笑ってしまった。だがサルーミ族の戦士ベオ・ガルは大真面目の姿勢を崩さない。


「”ミガロ”と神の関係は?」アルは馬車を押す手の力に合わせて言葉を発する。

「神にも”ミガロ”は含まれる。そして神は”ミガロ”を用いてこの世界を創った」

「世界の素みたいなものですか?」

「うむ、しかしもっと幅広い。”ミガロ”はそのもの自体にも意志や思念を持つものだ」

「そう言われると、とたんにイメージしづらくなりますね」

「サルーミ以外の者たちには理解できないだろう」

「そのようだ」ジーンは白旗を上げた。

「そうですね。でもなんとなく感触を得たような気がします」

「それで良い。感謝する」ベオが力を込めると馬車のスピードが一段増した。

「そんな、お礼を言うのはこちらの方です」

「さっきのこともある。礼はせねばな」

「それなら、お互い様です。僕も助けてもらいましたから」

「そろそろ次の山小屋に着く。今日はそこで休むとしよう」


 その日の夜はほとんど会話もなく、夕食を終えると傭兵二人を除いて皆すぐに眠りについた。ジーンは火の番を、アルは外の警備がてら馬小屋にいた。夜の深まりとともに指先がしびれるような寒さに見舞われた。雪はまばらだったが、時折吹きつける風が獣の唸り声を思わせた。そのせいで馬小屋で焚いた火は煽られてしばしば消え入りそうなほど小さくなった。


 アルの馬の状態は上がらなかった。食欲もなく、呼吸は荒くなったかと思うと落ち着くといった具合であった。アルは馬の体をさすってやった。馬は目をつぶった。アルは外へ出向いた。女のすすり泣くような風が響き渡る。


「……について知りたいか?」


 風のすき間に声が聞こえた気がしたアルは辺りを見回したが、闇から飛び出してくるのは白い雪ばかりだった。


「……”ミガロ”について知りたいか?」


 アルは馬小屋の玄関の壁に背中をあずけた。馬の様子は――ヤリドの馬だけが目を開けている――変わりなかった。アルは胸を探ったが、弓を小屋に置いてきたことに気づくと剣の柄に手をかけた。


「……気にならないか? 知りたくないか?」


 存在を確信させる声がはっきりとアルに届いた。顔を半分出して外に目を向けた。誰も見えず、アルは反対側へと小走りに移動した。目を走らせるが、外は変わらずの風雪にまみれていた。


「……そうだ、そうだ。教えてやろう。知りたいことを、教えてやろう」

「誰だ。出てこい!」

 アルの声はすぐに雪に埋もれてしまった。「見られている」と、アルはひとりごつ。


「ジーン! 敵です!」


 山小屋の窓から漏れる赤いほの明かりにも影が射すことはなかった。アルは大声を張り上げて仲間に呼びかけた。風が病に呻くように鳴く。ヤリド馬が身震いをして尾を左右に揺らす。アルは再び暗闇に目を向けた。


「知りたいよな」


 すぐ耳元で話されたように間近に声が聞こえると、暗闇から顔が湧き上がってきた。凍った湖の深淵の青白い顔、闇を探る悲しい双眸、悪魔に噛みつかれたような歪んで尖った耳、欲望に飽きたらない大きな口はあざ笑う。アルの視界は暗転した。


「アル、どうした!」


 ジーンがアルを支えながら肩を揺すっていた。アルは滝のような汗で顔を濡らして喘ぐように息をしながらジーンを見つめた。


「あれ? ここは?」

「悲鳴を上げていたぞ。急にどうした?」

「何があった?」

 異変を察したカベルが身を起こす。他の皆も目を擦りながら起きだした。

「山小屋だ。どうした? 悪い夢でも見たのか?」

「いえ、僕は馬小屋で馬の世話をしていたはずです。声が聞こえて、ジーンを呼んだんですが……」

 アルが立ち上がって窓の外を見る。外はゆったりと雪が落ちていた。アルは外へ飛び出した。

「すまない、外を見てくる」

 ジーンがカベルとベオに話すと、二人ともうなづいた。


「誰かいたのか?」


 ジーンはアルに声をかけるが、アルは舞い落ちる雪を振り払いながら喚き散らしている。ジーンがその肩を捕まえた。

「アル、一体どうした?」

「気づきませんでしたか? 何者かが僕らを狙っているんです。危険な感じがします」

「おまえはそいつを見たのか?」

「ええ」

「どんなやつだ?」

「あれは……よくわかりませんが、人と獣の混じったような顔をしていました」

「魔物か?」


 アルは自分の両手のひらに目を落として惑うと、ジーンと目を合わせた。

「僕の声が聞こえませんでしたか?」

「いつだ?」

「馬小屋から叫んだんです」

「いや、全然聞こえなかったな。今日はみんな疲れていたから、夕食の後すぐに休んだだろう」

「ジーンも? ジーンも眠っていたんですか?」

「ああ、そうだ。こいつもな」


 カベルが怪訝な顔を向けてきた。アルは驚いて彼同様の怪訝な顔をすると、二人の顔を交互に見やった。ジーンはうなづいた。


「おまえも眠っていたじゃないか。ここまでの旅路に疲れているんだ。それは仕方のないことだ」

「まさか! このくらいいつものことじゃありませんか!」


 ジーンとカベルは顔を見合わせて笑った。


「何がおかしいんですか?」

「いや、悪かった。そんなに興奮するおまえを見るのは初めてなんでな。つい」

 ジーンとカベルは怪訝な顔を合わせると再び笑った。その様子にアルは非常な侮辱を感じ取り顔を真っ赤にした。

「いい加減にしてください! とにかく敵がいるんですよ!」

「わかったよ、すまなかった。外は俺たちで見てくるから、おまえは中を頼む」


 アルはジーンとカベルがランタンを片手に分かれて見回りに出るのを見送った。二人で何か会話をし、別れ際にジーンが笑った。アルは首を傾げながら山小屋に入るとペトラに呼ばれた。


「この娘が熱を出してしまって」


 ペトラは腕の中に抱いたカシアの額に手を当てていた。当のカシアはほんのりと赤い顔を見せて、うっすらとまぶたを上げていた。アルも二人のもとへひざまづくと、カシアの額に手をやった。


「確かに少し熱があります。薬は持っているんですか?」

「持ってきたものを飲ませたんですが、どうも効き目がないんです。ジーンさんに相談したら、あなたなら薬草に詳しいと教えていただきましたから、それでご相談を」

「解熱ならフィーバーフューでしょう」

「それならば私も知っています」

「あとはカモミールとエルダー、それとラベンダーくらいでしょうか。どれも基本的なものですが」

「ええ。それは今お持ちでしょうか?」

「探してみます」


 アルは革の頭陀袋の中を漁った。旅に出る前には必ず常備するもののはずだったがどこにも見当たらなかった。途中で使った記憶もなかった。「忘れたのか、落としたのか。それよりも途中で確認をしていれば摘むなり買うなりできたのに」と心に思ったが、考えても仕方のないことに気づいてペトラに謝った。


「早く山を下りて村にたどり着ければ、あるいはどこか民家があればいいのですが……」

「そうですね。ただ、この雪ですから思うようにはいかないかも知れません」


 ペトラはカシアの髪をそっとなでた。


「この娘の場合、こうなってしまうと恐らく明日にはもっと熱が高くなるでしょうから」

「僕がちゃんとしていれば……」

「お気になさらないでください。よくしてもらっていますから」

「飲ませたという薬はどんなものですか?」

「棘のある果実――ヘリヤソウというベルメランク南部の固有種――を乾燥させたものと、クワとクズの根を乾燥させたものを細かく砕いてツユクサのエキスで練ったものです。インメルス家お抱えの医者がおりまして、秘伝のレシピがあるんだそうです。これです。どうぞ」


 ペトラは深い焦げ茶の丸薬をアルに手渡した。アルは一粒口にした。噛み砕くと特有の苦味、アクの強さが口に広がった。アルは顔をしかめながら飲み下した。


「こっちのほうが効きそうですね」

「優秀な薬だということは私も経験上知っています。しかし今回はなかなか効果が現れなくて」

「様子を見るのが一番だと思います」


 二人のもとにベアがやって来る。彼もカシアの額に手をやった。


「どうでしょうか」

「今はそれほどひどくはないようだが、様子を見るほかあるまい」

 アルもペトラもうなづいた。

「私が火の番をしていよう」

 ジーンとカベルが戻ると、アルは二人の様子に少しばかり落胆した。

「誰もいなかったんですね……」

「敵がいないことは喜ばしいことだ」

「カベルの言うとおりだ。アル、今日は休め」


 アルは不満だったが言葉が出てこなかったので従わざるを得なかった。


「……わかりました。後はお願いします」


 敵の所在、カシアと馬の容体が頭をもたげるが、アルは目をつぶるとまたたく間に眠ってしまった。


「こんなにも疲れていたのか……判断が鈍るのも仕方がないかな……でも、あの奇妙なやつは確かに僕の目の前に……それにしても、いつの間にジーンはあんなにもカベルと仲良く……」


 夢の中の意識は伸びきったゴムひもが破断するようにはじけ飛んだ。まばらな苔のはびこる岩場の冷たい地べたに目を覚ましたアルは、呆然としながら起き上がった。山の中腹にできた滝壺の側にいた。流れ落ちる水の轟音が耳をつんざく。滝壺からあふれる水は峻厳な岩山の崖下へと落ち虹を描き、しかし下を見ても底の見えない暗闇が広がっている。アルは一匹の山羊と目が合った。暗く霧のように揺らぐの体毛は禍々しく風をまとい、悪魔のかぎ爪のような二本の角がよこしまにそびえる。岩場にへばりつくようにして生えている木のがんじがらめの根に前足をかけている。山羊は妖異の眼差しでアルを黙って見つめていたが、アルが近づこうとする間もなく崖下へと飛び降りていった。


「これは幻だと思うかね?」


 アルは山羊の飛び降りるのに気を取られていたところ、突然真後ろから声をかけられた。振り向きざまに剣を抜いて斬りつけた。さらに追撃の一閃を放つ。アルの攻撃は声の主を捉えたかに思えたが、手応えはなかった。柳の木のようにすかされた。猿の顔があった。馬小屋で襲ってきた奇怪な顔。それは禿頭の猿だった。猿のようだったと言うべきだろうか。蒼白の顔面に嫌らしい微笑みのシワが深まる。二メートルほどの巨体の猿はゆっくりと体をしならせてアルを覗き込み、体毛は亡霊のように妖しい雪白で、死に装束を思わせる淡青色の一枚布でできたマントに身を包んでいる。


「散々おちょくってくれたな!」


 アルはさらに斬りかかったが、猿は軽業師のように飛び上がって反対側へと逃げおおせた。アルは身を翻す。息つく間もなく剣を振るった。右上段、なぎ払い、平突き二連。猿はアルの剣撃に合わせて嘲笑いながら全てかわす。


「無駄だよ、無駄無駄。全部、無駄」


 下段斬り上げを猿は飛び退る。アルは突きを構えて飛び込む。猿は再びアルの頭上を飛び越えてふわりと岩の上に着地した。


「無駄なら、なぜ逃げるんだ」アルは自問するように小さくつぶやくと、体を反転させて剣を背負うように上段から斬りつけた。大きく踏み込んだ左足は獅子をも踏み潰すような勢いで、その一撃は猿の頭を真っ二つにかち割った。


 猿の笑い声が響く。彼は喜びに沸く。それは歓嬌に打ち震える。驚異に目を丸くする。猿の顔面に無数のヒビが走る。異様な痙攣現象が始まり、眼球が明後日に向くと、まばゆい発光と轟音の波動がアルを吹き飛ばした。さらなる笑い声。アルが立ち上がると、猿は元の姿に戻っていた。


「ほらネ」


 眼球だけが明後日を向いたままだったので、禿げ猿は細長い知的な指を自身の眼窩に突っ込むと眼球をつかんで元の位置に調整した。あふれる涙と神経に触る短い悲鳴を何度か上げる。


「無駄に無駄を重ねるか?」


 アルは荒れる息を整えながら剣を構えている。


「ここはどこだ。幻か?」

「さあね。それもいいかも知れない」

「おまえは誰だ?」

「名前を知って意味あるか? それを知ってどうするか?」


 アルは息をゆっくりと吐いて気を落ち着けた。


「なぜ攻撃してこない? 殺すチャンスはあったはずだ」

「殺してみるのも面白い。生かしておくのも面白い」


 左右に跳ねながら頭上で手を打ち鳴らす猿に、アルは足元の石ころを素早く蹴った。石は真っ直ぐに猿の顔面に向かって飛んでいった。石が猿の額を捉えると、乾いた金属の軽い音が響き石は崖下へと落ちていった。猿の顔に再びヒビが入った。猿は大きく手を広げると、今度は自分の顔を手の平で覆った。ひび割れた顔からその破片が落ちる。指の間から妖しい眼光がのぞく。左右の手がゆっくりと上下に外されると、現れたのはサルーミ族の狩猟の仮面だった。


「おまえを殺さなきゃ、ここから出られないんだろう?」


 猿はガラスをひっかくような大笑いをした。仮面の両目がカメレオンのように互いに逆さまに回る。


「いちいち笑って!」


 一足に距離を殺し、一息に三連突きを繰り出す。アルの攻撃は猿の胴体を貫くが、はためくシーツを突いているようだった。猿のマントがアルに覆いかぶさる。アルはそれを投げ捨てると、目の前に猿がいた。アルは時が止まってしまった。猿がアルに突っ込むと、猿の体は水のようにアルを通り抜けていく。その勢いに押され、アルは滝壺に吹き飛ばされた。水中でもがく。肺に残る空気が泡となる。同時に、強烈な目眩に襲われる。泳げるはずの彼は、そのまま沈んでいく。水そのものに体をつかまれているように。


「楽しいだろう、楽しいねぇ。知りたかったろう、知りたいねぇ」


 眼前には仮面が張り付くように追いかけてくる。猿の手拍子に合わせて饗声が響く。水の中でもはっきりと。水全体を震わすように。アルは水につかまれたまま、沈められたかに思っていたが、気づけば滝を登っていた。天球の氷青色が身悶えしながら渦巻き、アルを飲み込んでいく。アルは手足をばたつかせながら空の一点に吸い込まれていった。


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