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北へ(9)

「酷い雨だ」

 三人は雨に冷えた体で洞窟を奥へと進んでいった。入り口から数メートルは外より高くなっているため水が入ってこない構造になっていた。絶え間なく流れる水のカーテンが外と内とを隔絶していた。三人は着ているものを脱いで水を絞った。

「ここで合っているんだな?」

「そうだよ。奥にいる。それにしても酷え目にあったぜ」

 アルが靴を脱いでひっくり返すと中から大量の水が吐き出された。水を吸って重くなった革の上着や鎖帷子はその場に置いておくことにした。アルは薄い綿のシャツ一枚になったが、湿った生地が冷たく肌に張り付いた。洞窟を数メートル進むと、そこからは緩やかに下っていく道となっている。片麻岩の褶曲が渦巻くように内奥の暗闇に誘うようだった。奥にぼんやりと薄明かりの点が見える。シバブを先頭にそこまで行くと松明が床に転がっていた。

「暖かいぜ」シバブは三人分の松明に火を着けて渡した。「おいっ、俺だ。連れてきたぞ!」シバブは奥に向かって叫んだが、返事はなかった。


「この洞窟は深いのか?」

「ん、いや。わからん。ここから少し先に行った所にちょっとした空洞がある。そこが俺らの根城だ」

 外の雨音が消える。岩壁から――雨水だろうか――清水が湧き出るように水が流れ出ている。細流の勢いの良い音が、洞窟の反響によってどこか幻想的に響き渡っている。歩きながらシバブが何度か奥に向かって呼びかけるが、やはり返事がなく、奴隷は首を傾げていた。ジーンが剣を抜くと、シバブが飛び上がって慄いた。

「いや、いや。違うんだ。止めてくれ。俺は騙そうって腹はねえんだ」

 シバブはあたふたと後ずさりながら手にした松明を振り回した。

「そいつをしまってくれよ」

「黙れ。声を出すな」


 ジーンは抑制の効いた声で冷静に毅然と言い放つ。その言葉は手にした剣よりも鋭く辺りを切り裂き、シバブは直立した。


「様子がおかしいですよね」アルも背後に目を向けつつ、ゆっくりと剣を抜いた。

「ここにいるのは、お嬢ちゃんを入れて八人だったか?」

「そうだ」

「それだけいて返事がないのはおかしい。ここに獣か魔物はいるか?」


 シバブは存外の質問に首を懸命に振った。

「まさか。一年以上ここにいるが、そんなもんに出くわしたことはねえぞ」

「だとすれば、野盗の類か……俺が先頭を行く」


 ジーンは二人に少し離れて付いて来るように言った。黒髪の傭兵は洞窟の天井と足元を照らして何かを探している。一度右に折れてから、左に曲がると広い空間に出た。高さが二十メートルほど、幅が三十メートルほど開けており、左右に天井まで繋がる柱状の岩がそびえ柱廊のように並んでいる。ゴツゴツした岩場の足元にはその小さなくぼみに水たまりが無数にできていた。洞窟の奥から氷の舌にような冷たい風が流れ込み、シバブは身を震わせた。


「だいぶ冷えるな。本当に誰もいないのか」


 シバブは小さく独り言を言ったつもりだったが、その声は洞窟内にさざなみのように反響していった。それに慌てて口に手を当てた。アルは周囲を見回した。壁面には炎の灯りが時折風に揺らいでいる。気がつけばジーンが屈み込んで地面を探っている。彼が黒い何かをつまみ上げて観察していると、アルはシバブをつかんで後ろへ引っ張った。上空から音もなく黒い影が落ちてくると、それはアルに向かって耳をつんざくような甲高い叫び声を上げた。剣を抜いたジーンが背後からそれに斬りかかるが、それは一瞬早く上に飛んで逃げた。


「よく気がついたな」

「上を見ていたら一瞬光が動いたんです」

「エルピーズ――巨大コウモリ――だ。食いつかれるなよ!」


 天井で魔物の目が動いた。落下するようにエルピーズは、アルとジーンに襲いかかってきた。二人は魔物の左右に飛び退いた。老木の広がる細枝のように長い腕に、薄い翼が凧のようについている。その翼は下部に行くほど黒紅に色濃く、上部では透けるような薄卵色に血管が奇妙な川のように浮き出ている。黒真珠のような大きな目と割れたいちじくのようにに引き裂かれた口は中心が異様に赤く、その上につく尖った鼻は子どもがつねったように小さい。耳は一見したところ見当たらないが、折りたたまれたふいごのように張り付いているため頭部は丸いが、時折魚のエラのように大きくうごめいている。あばらの浮いた胴体、甲と指が細長い足は筋張っており、棘刺すような風貌をしている。体毛は黒いものがわずかに胸の辺りに残るだけだった。


 ジーンが飛び込んで上段から鋭く斬り込んだ。エルピーズはバネのように飛び退くと、今度は洞窟の支柱につかまった。コウモリの魔物はその大きな目に透過する白い膜のようなまぶたを表してジーンの様子を窺っている。弾かれる弦のたわむ音が響く。アルの放った矢はエルピーズの翼から胴体を貫通し、不愉快な叫びを上げて落下した。大きな口が苦悶に歪んで裂けると、中から鮮やかな薄いピンクの歯茎がむき出しにされ杭のような歯を見せつけながら叫んでいる。ジーンが体勢を低く、滑りこむ。地面を蹴ると、間欠泉のようにエルピーズの頭が宙に飛んだ。その頭が地面に落ちると、シバブは短く情けない悲鳴を上げた。


「やりましたね」

「よく当てた。おかげで楽に始末できた。が、一匹では済まないだろうな」


 二人は天井に松明を向けるが、気配はするものの魔物の姿はなかった。


「壁沿いに進むぞ」


 ジーンを先頭に、後方でアルは弓を構えながら進んだ。壁のかがり火はそこから三つ目で途切れている。奥からコウモリらしき甲高い声がした。かがり火の下に十本近くの松明が落ちている。ジーンは二人に、全てに火を着けるように言い、それからそれを奥に散らばるように放り投げた。おかげで辺りはだいぶ明るくなった。反対側に回り、同様に松明に火を着けてばらまいた。アルが天井を警戒しながら松明を手にさらに奥に向かうと、足元の暗がりに鈍く重い感触があった。松明をかざすと、アルの足先に人間の胴体があった。厚い亜麻色の鹿革の鎧から茶褐色の胴着が覗くそれは成人男性のもので、頭部と手足は引きちぎられている。アルの肩口からシバブがそれを見る。奴隷は震える恐慌の悲鳴を上げた。ジーンが震えるシバブの腕を取った。


「知り合いだな? 誰だ?」

「バジェだ。ああ、何てことだ」


 シバブは一気に血の臭いを感じ、こみ上げる吐き気をこらえきれなくなった。アルは何かの気配に感づくと、奥の暗闇に目を凝らした。


「壁へ!」


 ジーンはシバブの背中を抱え上げる。暗闇の奥から黒い固まりが伸びて来た。小さなコウモリの集団が追い立てられるようにガラスの擦れるような鳴き声を絶え間なく発しながら向かってきた。広間に達した黒い固まりは、縦横無尽に飛び回った。寸でのところで壁際にたどり着いた三人は身を縮こませながら、その様子を眺めていた。縦横五メートルほどの、一匹の魔物のようなコウモリ集団は、どこか混乱したように右左にその黒い手を伸ばしては引っ込めた。すると、さらに巨大な群れが暗闇から伸びてきた。その中には四体のエルピーズが混じっていた。三人は身を伏せて飛び去るのを待ったが、群れが入り口に向かうことはなかった。エルピーズが一体群れから地面に降り立つと、三人の方に向かってにじり寄ってきた。ジーンが剣を突き出して牽制すると、コウモリの魔物は群れに飛び込んで再び上空を飛び回り始めた。


「どうします?」

 けたたましい翼手の羽音が響き渡る。

「やるしかないようだな」


 アルは飛び交うコウモリの固まりに向けて矢を放った。矢はそれを捉えるが、急激に速度を落とすと数匹の小さなコウモリを伴って落下した。数発同じようにするが、それ以上の成果はなかった。群れが分裂し、飛び回るものと天井にぶら下がって休むものとが出始めると、アルはエルピーズに狙いを定めた。岩柱を影にして、叫ぶ魔物に矢を放った。腹部に直撃すると、エルピーズが落ちてきた。悲鳴を上げながら四肢で着地したところをアルが斬りかかる。黒い影がエルピーズをかばうようにアルの前に突っ込んできた。大量のコウモリがアルを飲み込む。アルは両腕を顔の前で交差して身を守った。小さいながらも間断なく体当りしてくるコウモリがアルの服に何匹も引っかかり、さらに腕や体に無数の細かい傷を作っていく。アルは地面に伏せるが、コウモリは地面に激突するのも構わずにアルに特攻を続けた。腕のすき間からエルピーズの大きな影が目の端をかすめた。アルは壁の方向に向かって飛び込もうとした。エルピーズの足の爪がアルの脇腹に食い込む。ジーンの呼び声が虚しく響き、エルピーズはアルをつかんだまま一気に広間の空間を揚々と巡り飛んだ。岩柱の近くでエルピーズが進行方向を切り替えようとスピードを緩めたとき、アルはエルピーズの足目がけて剣を振った。これまでにない耳をつんざく絶叫と共に魔物は落下し、放り出されたアルは柱に激突した。アルは岩のくぼみを上手くつかんで柱のちょうど中程にしがみついた。そのまま下へ降りようとしたが、五メートルほどの高さのところで足場が崩れた。アルは地面に体を打ちつけられ、あちこちを擦りむいた。ジーンとシバブがアルのもとへ中腰で駆け寄ってきた。


「まだ動けるか?」

 ジーンはアルを抱え起こした。

「平気ですよ、ちょっと打っただけです」

「……わかった」


 アルは作り笑いを浮かべたがその胸、背中、太ももと全身傷だらけだった。腹部の傷が――幸い爪は深部まで達しっていなかった――最も酷い状態で、押さえる手が深紅に染まっていた。アルを一人で立たせると、ジーンは少し離れたところでのたうつ片足のエルピーズにとどめを刺した。洞窟内はコウモリたちの騒ぎが反響し通しで、その騒音に三人は頭痛がするようだった。

「何かないのか?」

 ジーンはシバブに詰め寄る。シバブは返事をするが、騒音にかき消された。

「奥だ、もう少し奥に行くと小さな部屋がある。そこに道具箱があるよ」

 シバブはジーンの耳元で怒鳴った。

「カギはここだ」

 シバブは腰にぶら下げた革の小袋を叩いた。

「そういうことは先に言っておけ! そこへ行くぞ!」


 今度はシバブが先導して奥へと導いた。コウモリたちはあちこちに休んでは飛んでを繰り返している。半分ほどの松明はすでに火が消えていた。上空を飛び交うコウモリがアルとジーンを断続的に襲った。シバブはくぼみに足元を取られると松明を落とした。慌てて拾おうと手を伸ばすと、落ちた松明の先に下顎のない人間の頭が転がっていた。色のない目が半分閉じたまぶたの奥から地面に向けられ、食いちぎられた頬から覗く茶色い歯は取れかけている。シバブは吐しゃした。うずくまるシバブに、アルが声をかけようとした。シバブはエルピーズに首根っこをつかまれて急上昇した。魔物の気色の悪い鳴き声に奴隷の絶叫が混じった。広間の中央付近、シバブは喉を自ら引き裂かんばかりの声を張り上げて落下した。鈍く重い質量の落ちる音が響いた。シバブは頭が割れ、口や鼻など体中の穴から体液をほとばしらせた。四肢を投げ出した――左半身から落ちたため左腕と左足は骨が粉砕しあらぬ方向に曲がっている――奴隷は、洞窟の広間の真ん中に魔術儀式の生け贄のように転がった。


 アルとジーンはシバブのもとへ走った。床に転がる松明の炎は、血だまりに浮かぶ潰れた肉塊を浮かび上がらせていた。早速エルピーズが一体、血をすすりにそこへ降り立った。


「カギを取れ、いいな!」


 二人は左右に分かれてエルピーズに襲いかかった。コウモリの魔物は耳を尖らせると歯をむき出して自らの獲物を守った。ジーンの払い斬りをエルピーズは飛び退いてかわすと、長い腕を振るった。外套がひるがえるようにエルピーズの羽が舞う。魔物は連続で攻撃を繰り出すが、ジーンはことごとく見切っていく。アルはコウモリの群れに囲まれ、目の前が黒いモザイクに覆われた。さらにもう一体のエルピーズが急降下しジーンに飛びかかった。エルピーズの最も長い爪は人差し指のものである。およそ十センチほどの長さがあり――分泌液によって油の浮く水たまりのように光る様子は一個の甲虫のようにも見える――、それがジーンの足をひっかく。ズボンの切れ端が舞い、血が数滴飛ぶ。立て続けにもう一匹が牙を向いた。エルピーズの口が開かれると粘つく唾液が牙の先端から伸び、ちょうど洞窟の岩柱のように形作った。ジーンは魔物の瞳に映る自分自身を見た。左手で迫り来る魔物の下顎を持ち上げるようにすると、勢いそのままに魔物は後方に飛んでいった。ジーンは最初の一体に突きを放つと、その頭を斬り裂いた。


 アルはようやくコウモリの群れから逃れると、シバブの死体に駆けつけた。腰の革袋に手をかけた時、エルピーズもシバブに手をかけた。エルピーズは獲物を取られまいと、死体に引っ掛けた爪をもって力いっぱい引っ張った。死体は持ち上がり、アルと魔物は死体を引っ張り合う格好になった。エルピーズが威嚇を繰り返して暴れるようにすると死体が上下し始めた。アルはタイミングを計りその手を離すと、エルピーズは後ろによろめいた。アルが一気に距離を詰める。エルピーズが両腕を広げ後ろへ飛び退りながら羽ばたくと、アルは剣を振るった。その軌道はアルの右上段より鋭い流線を描いた。ツバメが切り返すように。切っ先がエルピーズの羽を捉える。さらに魔物は振るった腕の勢いで、その羽は布が裂けるように一気に分かたれた。エルピーズが痛みにのたうつ。アルも同時に落下した痛みが電撃のように全身に走る。剣を取り落としそうになる。アルはその場に片膝をついた。エルピーズがヒステリーのような耳をつんざく甲高い声を上げながら、その口はアルの構えた剣に食いついた。歯と剣の鳴る忌み音、エルピーズの顔に走る無数の皺、右腕の軋る痛み、アルの額に脂汗が滲む。

「よし、立てるか?」


 アルが二度の瞬きを終えた時ジーンの剣がエルピーズの頭部を貫き、アルの剣と十字に交差していた。エルピーズの体は痙攣し、くぐもった音を喉から発した。ジーンはアルをつかんで立たせた。

「カギは?」

「あそこです」

 ジーンはシバブの死体から革袋を切り取ると奥へ向かって走っていった。アルは黒い傭兵について行きながら広間の方を振り返った。コウモリの魔物三体の死骸が地面に転がりし、その周囲には小さなコウモリがのたうっている。アルは上を見上げる。一体だけ残ったエルピーズが大量のコウモリを伴って天井付近を旋回していた。小部屋を解錠する音がするとアルは松明を拾って走った。粗末な木の扉の両側に二人は構える。アルがジーンにうなづくと、ジーンは勢いよく扉を開けた。中は真っ暗闇だった。ジーンが部屋に入ると、小さな物音がした。ジーンが声をかけ、アルが松明を掲げる。扉の影に膝を抱えた少女が浮かび上がった。


「カシア! 良かった。無事だったんだね」


 カシアはアルに気づくと顔を上げて立ち上がった。顔がくしゃくしゃに歪んで涙がこぼれ、泣き声が遅れて湧き上がり、それからアルの胸の飛び込んだ。


「ここを出るぞ」


 コウモリたちは広間からいなくなっていた。アルは来た時には気づかなかった死体に気づいた。粗末な色あせた浅葱色の衣服が飛び散っていた。洞窟の入り口までたどり着くとアルは抱きかかえていたカシアを下ろした。そのまま自分も腰を下ろした。雨は止んでおり、入り口から流れ落ちていた滝のような水も、一本の細いものに変わっていた。足元を星の鳴るようにさやさやと水が流れている。


「お嬢さん、怪我はないか?」


 カシアは未だ取り憑かれた恐怖から解放されない様子で固まっていた。ジーンはカシアをつぶさに観察したが、特段外傷は認められなかったため、アルの怪我の様子を診た。ジーンはアルの服をめくると、左脇腹の傷を診た。水で傷口を洗うとアルは顔をしかめた。

「ここがひどいな」

「ええ、他は何ともありません」

「骨が折れているかも知れないな」ジーンが傷の辺りを触ると、アルは歯を食いしばった。それから立ち上がると、置いてある荷物をまとめた。「行けそうか?」

「もちろん。急ぎましょう。こうなった以上、カベルとペトラが心配です」

「そうだな」

 アルは傷口に手をやりながらゆっくりと深呼吸した。脈動に熱い痛みがノックする。ジーンはカシアを抱え上げると、アルに声を掛けた。アルはうなづくと、ポスティモスの牧場に向けて走りだした。


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