北へ(8)
一週間後、アルたちはメナスドールの山岳地帯手前に位置するクカグに到着した。そこに至る旅は順調だった。一度だけ十匹超の野犬の群れに出会ったが、アルが立て続けに半数を矢で射抜くと群れは散り散りになった。
スメイアからメナスドールへ入るにはどのルートを取ろうとも、山越えの必要があった。スメイア北西部からメナスドールへ入るルートが最も楽な道のりだとされていた。それでも三千メートルから四千メートルを超える山々を登る必要があった。クカグの宿に泊まった時、主人がアルたちに言った。
「メナスドールへ行く気なら、南側のルートは止めときな。川が増水しているんだ。ついこの間もおまえさん方みたいな商人が四人ほど流されたって話だ」
「そうすると、レフォードに向かうにはどういけばいいんですか?」
アルはテーブルの上に地図を広げた。宿屋の主人はクカグからさらに北上するように、指でなぞって示した。
「遠回りだが、道も良いしこっちのほうがいいぞ。ここからは高原地帯だが、すぐに山登りが始まる。崖沿いの道が続くから気をつけてな。毛皮の上着も忘れんなよ」
カシアはペトラに羊毛の帽子を被って無邪気に微笑んでみせた。二人はお揃いの白い帽子とキツネの襟巻きを買い求めた。男たちもそれぞれ毛皮の装備を整えた。
宿屋の主人の話した通り、そこから北上すると上り道が続いた。標高千メートルほどの高原地帯はのどかで、灰褐色の木の柵がだらだらと続き、その中で羊と牛の群れが草を食んでいる。マツやトウヒの林が点在し、時折カラスが飛び立っていく。鮮やかなスカイブルーの丸い湖があり、アルたちもそこで休憩していると、対岸にオオカミが三匹現れて水を飲んでいた。そこからさらに千メートルほど登って行く。むき出しの岩場が増え、眼前には四千メートル級の山々がそびえ始めた。その時点でペトラが頭痛を訴えたため、山小屋で休憩を取ることになった。
「ごめんなさいね」
ペトラは水を飲むと横になった。アルは馬三頭の世話をしていると、カシアはタンポポ畑に駆けて行った。カシアはタンポポの他にアザミやナデシコを見つけると次々に摘んで花冠を作っていた。山小屋の管理人は一帯に三つの牧場を経営する男で、奴隷に世話を任せて自分は左うちわの風情だった。
「お姉ちゃん、大丈夫かね?」
人の良さそうな笑顔で牧場主は現れるとペトラを覗き込んだ。ペトラは起き上がって挨拶しようとしたが、牧場主は手を振って寝ているように言った。ジーンはワインを持ってきたその男の話に一時間ほど付き合うことになった。
「……この辺りには魔物はいないのか?」
「魔物か……ウェアウルフが出るかな。オオカミを引き連れて、家畜を荒らしていくんだよ。それに、たまにだがグリフォンが降りてきて羊をかっさらっていくんだ。家もやられたことがあるんだが、その時はあきらめるしかないな。だが、本当にたまにだ」
「グリフォンは俺も相手にしたことがある。空を飛ぶ魔物は厄介なんだが、羽根や爪、くちばしにコレクターがいる。貴族連中が高く買ってくれるからリスクを犯すだけの価値はある」
「ほう、じゃああんたも魔物狩りをするのかい?」
「依頼があればな」
「専業の魔物ハンターはいるのか?」
「やってやろうって気を起こすやつはいるが、長続きしないな」
「難しいのかね」
「死ぬやつが大半だ。欲と勇気が無謀を呼ぶからな。運が良ければ、手足を失って引退する程度だな。俺の知り合いにもグリフォンの足を食われたやつがいる」
相手のしかめる顔を見てもジーンは構わず続ける。
「そいつは酒の溺れて自殺したよ。自分の妻と娘二人を殺した後、首を吊った」
「もうその話はよそう。酒がまずくなる」
ジーンはワインを注いでもらうと話題をメナスドールの情勢に移した。だが、牧場主はほとんど何も知らないと言った。メナスドールへ行く人間はいるが、向こうから来るのは会ったことがないという話だった。
「一人もか?」
「ああ、俺は長年ここにいるが、最後に会ったのは七年前、いや、八年前だったかな。何てことはない商人一人だったな。織物商だったよ。それ以来見ないね」
「元々、国交が少ないからな」
「雪と氷の国だ。わざわざ行こうって気も起きやしない」
隣の部屋で寝ているペトラのうめき声が聞こえた。二人は声を潜めて話を再開した。
「国王はガリウス・ムーンボルドーだったか、やつはどうなんだ?」
「七十を超えているはずだ。もういい年だな」
「後継者は?」
「たしか、子どもが三人いたはずだ。男二人に女一人だったかな」
「それじゃあ一番上は五十歳くらいか」
「ああ、そうだ。一番下は第三王妃に産ませた子で、年が離れている。まだ二十そこそこのはずだ」
「一番上が継ぐんだろう?」
「恐らくそうなんじゃないか。まあ情報がない以上何とも言えんよ、他所の国だしな」
その時、外からジーンを呼ぶ声がした。二人が山小屋を出ると、アルが全速力で走って来るのが見えた。その様子にすぐさま異常を察知したジーンは牧場主にペトラを頼んで走った。
「何があった?」
アルは息を整えながら言った。「カシアがいなくなりました」
「おまえが付いていたんじゃないのか?」
「いえ、カベルです。彼が一緒だったんです」
「やつは?」
「こっちです」
二人はパンの耳のような明るいブラウンカラーの大きな牛の間を駆け抜けると、濃緑の草原にむき出しの岩の一段低くなっている箇所にたどり着いた。三十メートルはあろう高さの一本のモミの木の根本にベルメランクの騎士は横たわっていた。隣にはヤリドの黒い馬がいる。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
カベルは呼吸も荒く、虚ろな目をジーンに向けた。
「俺は……大丈夫だ……」
ジーンはアルに向かって首を振る。二人はカベルに手を貸して立たせせるが、彼はそれを振り払った。
「……大丈夫だ、離してくれ……」
カベルはそのまま二、三歩進むと膝をついて頭を抱えた。激しい頭痛に見舞われて、顔をしかめた。ジーンがカベルを馬に乗せて山小屋へ戻ると、牧場主が水を飲ませた。ジーンはカシアの行方について訊ねた。
「どの方角へ行ったのかもわからないのか?」
「……すまない」
「参ったな」
「急に頭痛とめまいがして……くそっ……記憶がない」
カベルは歯を食いしばり拳を振り上げるが、再び針を刺すような頭痛に見舞われた。
「あっちの姉さんと一緒だよ。高山病だ。少しおとなしくしておきな。神経に触る」
牧場主が濡れタオルを絞ってカベルに手渡した。
「こっちは頼む。アル、行くぞ」
アルとジーンは馬を駆り先ほどのモミの木に戻った。東側には粗野な岩肌の山がそびえ、北西には緩やかな段丘の草原が落ちていく。北風が二人の焦燥をなでる。ジーンが東側へと向かったので、アルは北西に馬を走らせた。アルはカシアを呼び続けた。緑色の炎のように燃え上がるトウヒとモミの林を抜けると、牛舎を発見した。アルはそちらに目掛け、馬が柵を飛び越える。
「誰かいませんか!」
馬を降りて牛舎の中に駆け込んでいくが、中には牛が数頭寝そべっているだけだった。すぐさま馬に乗り込んで、大声で呼びかけ続けた。百メートル先の小屋に向かうが、そこにも誰もいなかった。
「どうなっているんだ?」
牛の鳴き声が一度聞こえた。アルは突き上げる動悸の激しさを必死に抑えこもうと、胸をつかんだ。それからさらに声高に叫んだ。とにかく馬を走らせて行く。人影が見えない奇妙さに不安が募っていく。アルはとっさに手綱を引いた。草原の段丘の先に数百メートルはあろう崖が口を開けていた。向こう側にはさらに三、四十メートルの絶壁がそびえ立っている。アルは膝をついて崖下を覗いた。光の斑紋が薄暗い中にきらめき、川が流れているのがわかった。アルは下を覗きながらカシアを必死に探したが姿はなく、岩壁にアルの声が反響するばかりだった。北に向かって行くと崖の間隔が広がっていく。二十メートルほど広がったところで、吊橋がかかっていた。アルは渡ろうとしたが、ボロボロで踏板がほとんど失われていた。アルはそこで一旦捜索を中断し、モミの木のところへと戻っていった。アルが戻ると、ジーンがすでにそこで待っていた。二人ともカシアの手がかりを見つけることはできなかった。未だ空の半分以上は青く抜けていたが、北東の山の頂上付近に黒い雲が現れ始めていた。
「子どもの足だ。そう遠くへは行けないだろう」
「そうなると、連れ去られたということですか?」
ジーンはうなづいた。「そうなるな」
「考えられるのは、熊やオオカミに襲われた可能性でしょうか」
「あるいは、グリフォン、ウェアウルフ……」
二人は顔を見合わせた。のどかな風景とは裏腹に、アルの心は行き詰まりに重く沈んでいた。アルが「そもそも人を見かけないんです」と言おうとした時、ジーンの背後にあった岩陰から一人の男が現れた。二人は柄に手を掛けたが、ぼろをまとった小汚い男の姿を認めると警戒を解いた。
「おどかすのはよしてくれよ、旦那方……その、ちょっといいかい」
うだつの上がらない雰囲気でタレ目のその男は牧場で働かせられているものだと言った。合わせた手をせわしなく動かし、見られるのが嫌なのか、上目遣いに二人と目が合っては逸らしていた。
「お探しのものがあるんじゃないですか?」
嫌らしい物言いを聞くやいなや、アルは一瞬でその男の首をつかんだ。
「カシアはどこだ!」
男は両手でアルの腕をつかむが、喉笛を押しつぶされうめき声を上げた。ジーンもアルの腕を取った。
「それは話を聞いてからだ」
男は解放されると涙目になりながら激しく咳き込み唾を吐いた。それからアルの方を向き直るが、アルは険しい表情のまま男を睨みつけていた。男は獅子に睨まれたウサギのように怖気づいた。
「それで、女の子はどこだ?」
「……それは、その……」
「はっきりしろ、カシアをどこへやった!」
激高したアルに男は力なく両の手を頭上に突き上げた。ジーンがアルの一歩前に出る。
「時間がない。知っていることを吐け。金は払ってやる」
男は言い淀んでいる。ジーンはアルに視線をやり、彼の怒りを抑えた。
「どうした、話をしに来たんだろう?」
「そう、そうなんだ。金はいい。いや、もらえるんだったらもらうんだが……違うんだ」
「おい、女の子はおまえらがさらっていったんだな?」
「……ああ、そうだ。悪いと思っているよ。でも、俺たちを助けて欲しいんだ」
「どういうことだ? 話が見えない」
ジーンは再びアルと目を合わせた。アルは少し落ち着きを取り戻し、肩をすくめる。
「ああ、うん。そうだよな……順番通りに話すよ。……でも、どっから話せばいいんだ?」
ジーンが大きく息を吸うと、男はまた一瞬怯えるようにした。
「わかってる、わかってるよ。女の子は無事だ。それは大丈夫だ、信じてくれ」
「それで、人質を取って俺たちに何を要求する気だ?」
「俺たちも一緒に連れてって欲しいんだ」
「あんたらはここで働いているんだろう? メナスドールに何か用事でもあるのか?」
「そうじゃないんだ。話を聞いてくれ。俺たちは奴隷なんだ。あの男のところで、もう奴隷として生きるのは嫌なんだ。俺たちは家畜じゃない!」
「そういうことか……まずはカシアのところへ行こうじゃないか。無事を確認させてもらおう」
ジバブと名乗った男は付いて来るように言うと、東に向かって歩き出した。
「ここらの牧場はポスティモス・カルボーって男のもんなんだ」
「聞いたよ。その男ならば、さっき山小屋で話した」
「そうか、気をつけろよ。あいつは酷い野郎なんだ」
「ほう、そうか。さっきはそうは見えなかったがな」
「最初はそうさ。相手を見て喧嘩を売る野郎だからな。相手の力と持ち物――金を天秤にかけるのさ。目端が効く男だ。俺も元々は商人だったんだよ。ランペル村の出身さ。アメントースから干物を持ってメナスドールへ入るつもりだったんだ。その途中にここへ寄ったんだ。山小屋で一日休ませてもらって、朝にさあ出発だって外に出ると、荷馬車の姿がなかった。ロバも荷物も一切合切無くなってたよ。それでポスティモスに相談したんだ。あいつは雇ってやるから働けって言ったんだ。金が工面できたら出て行けばいいってな。荷物が全部無くなった俺は、それにすがるしかなかった。最初はよくしてくれるいい人だって思ったんだよ。ところがだんだんと、もらえる金が少なくなって、今じゃ一月働いても銀貨一枚に満たないんだぞ。どうすりゃいいんだよ」
「やつに文句を言ったのか? 見ようによっては、食事と宿を提供されて、少ないながら賃金ももらえる。文無しの待遇にしては、今のところいい話にしか聞こえないな」
シバブは疲れたように首を振った。「本当のことがわかったのは、二ヶ月くらい経った頃だったよ。薄々は感じていたんだが、俺の荷物を盗んだのはあいつだったんだ。正確には、やつが手下にやらせていた。それに加えて、あいつはこの近くの野盗と手を組んでるんだ。それと出入りしている商人の何人かは、俺みたいなやつらから奪った荷物をさばくのを手伝っているんだ」
「どうやって、あいつがあんたの荷物を盗んだって知ったんだ?」
「同じように働かされているやつが教えてくれたんだ。エズルってやつだ。そいつは元々、陶芸職人だったんだと。奥さんと二人でメナスドールからこっちへ来た時に捕まったんだそうだ」
「その人の奥さんもここに?」
「いや、殺されたらしい。カルボーには、『魔物に食われた』っていわれたそうだが、本当のところはどうだか……」
奴隷は沈鬱な眼差しで力なく笑った。
「そういえば、ここに来てから僕らはカルボーさんにしか会っていませんよ」
「あんたら二人は傭兵だろう? 絶対に手を出すなって言われたよ。それにちょうど今は手下が山を降りているからな」
「あんたらは何人いるんだ?」
「俺を含めて八人だ」
「だとすれば、俺たちはずいぶん高く買ってもらったんだな」
「ポスティモスの野郎は、そういうところが目ざといのさ。だから下手に手を出すことなく生き延びているんだ。傭兵付きでもやれって言われたこともあるよ」
「その時はどうだったんだ?」
「どうもこうも、俺たちはやるしかねえ。食いもんに毒を混ぜるのが手っ取り早いよ。手下のフォスターってのが腕が立つんだ。野盗との仲介もそいつがやってるよ」
「そいつが山を降りているのはなぜだ?」
「ちょっと前に宝石商が通ったんだよ。そいつから手に入れた宝石をさばきに行ってるよ」
三人は崖の吊り橋まで来ると、シバブが馬を下りるように指示した。
「ボロボロの橋ですけれど、どうやって渡るつもりですか?」
シバブは持っていた布袋から滑車を取り出した。それには輪になったロープが付けられている。シバブは命綱を腰に結んで吊り橋の下部に手をかけて身を乗り出した。アルはシバブを支えてやり、その状態で彼は桁の下に渡されていた太いロープに滑車を取り付けた。もう一本ロープを取り出して滑車に括りつけると、輪になった部分に足を通して橋桁の部分に手をかけた。
「本当にこんな方法で向こうに渡っているのか?」
「まあ見ててくれ」
シバブはロープの一本をアルに持つように指示した。そして今一度、姿勢を整えるとあっという間に向こう岸に渡って行った。シバブは対岸に降り立つと、アルに大声で呼びかけた。アルがロープを引くと滑車が乾いた虫の鳴くような音を立てて戻ってきた。
「先に行くか?」
「いえ、最後でいいですよ」
ジーンはシバブと同じように輪っかに足をかけると、命綱を腰に結びつけた。吊り橋のロープに手をかけると、シバブよりも素早くロープを手繰って進んだ。ジーンも渡り終え、アルが滑車を受け取る。準備を終えると、滑車の部分を観察した。吊り橋のロープは撚りが所々切れていた。しかし力を込めて揺らしてみると、重く固定されている感触が伝わる。アルは下を見ないように素早くロープを手繰った。
「帰りもここを渡るんですよね?」
「だろうな。高いところは苦手だったか?」
「……必要ならそうしますよ」
シバブが得意げになってアルとジーンを見やった。「まだ、落っこちて死んだやつはいねえよ」
「とにかく、カシアの所へ行きましょう」
シバブはアルとジーンを順に見て笑った。それから岩壁に沿って歩き出すと、空から大きな雨粒が落ちてきた。それはすぐさま土砂降りとなって三人をずぶ濡れにした。シバブが走るのを二人は追いかけた。崖の上から滝のように水が流れ落ち、アルの足元は川のようになった。アルは浅い箇所を選んで飛ぶように走ったが、それはほとんど意味をなさなかった。雷鳴がとどろき、稲妻が光った。空気を引き裂く轟音が鳴り響き、アルの声をかき消した。山肌の断崖を左に折れると人一人分しかない狭い道をシバブが進んでいく。ずぶ濡れの奴隷は口から雨水を飛ばしながら何事かを叫んだ。すぐ後ろにいた二人は、返事をしたが無駄だった。どの声もまったく聞こえなかった。道幅が広がって、少しの下り坂からすぐに上りになった。すると一瞬の内にシバブの姿が消えた。顔に打ちつける土砂降りに瞬きをすると、ぼやけた風景に飛沫が飛んだ。ジーンが消えた。アルは不意の出来事に戸惑い、大声で呼びかけるが何の返事もなかった。岩壁に手をついて流れ落ちる大水に足を取られまいと踏ん張りながら一歩、二歩と足を運んでいった。すると黒い腕がアルをつかむと、滝のように水の流れる壁に引っ張り込んだ。




