北へ(7)
アルたちはアメントースに到着した。そこまでの道中、アルとカベルの間で会話が交わされることは一切なかった。馬は約束通り馬車へ繋がれ、その代わりに馬車の馬をアルが乗っていた。アルがアメントースに来たのはストルフ・メッツトープの護衛以来のことだった。ここでは先にアルが街に入り、宿の手配をすることになった。アメントースは、戦争中だったが、以前訪れた時と同様の賑わいを見せていた。アルが屋台の果物屋の女将さんに話を聞くと、南部への船便の数は減ったが、代わりにヴィラム諸島行きが増えたという。
「荷物は前よりちょっとばかし増えたくらいよ。さっさと終わってくれるのが一番だけど、ここらまでベルメランクも攻めて来ないでしょうから、あんまり戦争も関係ないのかもね」
アルは袋いっぱいにリンゴを買ってその場を後にした。それから以前と同じ宿に行ってみたが、部屋がなかった。その区画の宿屋は全て部屋が空いていなかった。一旦ジーンに合流し相談することにした。
「街の外の漁師の家にでも泊めてもらうか」
カシアはアルの買ってきたリンゴを美味しそうに食べている。
「ちゃんと身体を洗いたい」
少女の訴えはそれだけだった。郊外の漁師の家は狭く、五人が寝泊まりできる広さはなかった。砂浜に組まれた木には網が干されている。四、五人の子どもたちが岩場に集まって潮だまりをじっと覗いている。カシアはその子どもたちをじっと見つめていた。
西の水平線は入道雲に覆われており、すでに太陽はその背後へと移動して薄オレンジの光を放っている。とある漁師の家で非常に大柄な人物に出会った。肩まで伸びた茶色い長髪は緩やかに縮れ、大きな鷲鼻に無精髭を生やしている。荒々しい眉毛の下から覗く目は薄青く、陽に焼かれた漁師の眼差しだった。ジーンが宿探しをしていると話すと、その男が自分の家で良ければ泊まって行け、と言った。男はヴェルナー・ペーペルコルンと名乗った。
「宿がないのか。残念だったな。でも、最近ではよくあることだ。アメントースを訪れる者が増えたから」
「へえ。ここに何があるんだ?」ジーンがヴェルナーと並んで歩くが、身長百八十二センチのジーンよりも背が高かった。
「これはしばしばあることだ。今は夏の刈り入れが終わって、小麦などを持ってくる者たちが多い」
「戦争が理由なのでは?」
「なるほど。そういう者もいる。だが、スメイアが物資を欲しているならば商人は国に物を流すだろう」
「強制徴用や強奪に近い形で没収された、なんて話も聞く」
「そういった事も充分ありうる話だ。特に組合を通していないケースではな。スメイアでは自由貿易を標榜する者に対する締め付けは緩かった。だから隣国との取引が活発なのだと思う。しかし風向きが変わったのかも知れない」
「アメントースは変わらないのか?」
「基本的には今までどおりだ。変える必要はないと思っている。しかし、スメイア兵が押し寄せるかもしれない。これは誰にもわからない」
「嫌な世の中だな」
「憶測でものを言う者たちは多い。それだけ不安なのだ。だが、漁と一緒だ。潮の流れを読むように、じっくりと見ていれば乗り越えられない波はない」
「そうかもしれないな」
「いや、その通りだ。あんたらはまだ若い。今は実感がないだろうが、心に留めておくといい。そういえば、この街に何しに来た?」
ヴェルナーは一同の顔を一通り眺めた。その中で御者台のカベルに目を留めた。
「俺とあの若いのは、馬車の連中の護衛だ。戦争でベルメランクから逃げてきた。親戚を頼ってメナスドールまで行くんだそうだ」
「農夫には見えんな。商人か……それとも……」
「元々は商人だそうだ。あの男に関しては、とてもそうは見えないがな」
ジーンとヴェルナーは顔を見合わせて笑った。
「あの馬車に荷物を積んでいる。メナスドールへは行ったことがあるか?」
「俺はメナスドールには行ったことがないな。生まれてこの方、もっぱら海に行くばかりだ」
「あんたは漁師なのか」
「そうだ。生まれてからずっと、いや、母の腹の中にいた頃から漁に出ていた」ヴェルナーは豪快に笑った。「この辺りで網を引けば鯛、鱈、イワシがよく捕れる。クジラも来るぞ。クジラは一筋縄ではいかん。銛を打ち込んでやるんだ。十メートルを超える大きさのを仕留めたことがある」
「ほう、それはすごいな」
「ああ、見せてやろう。ここが俺の家だ。泊まっていってくれ」
ヴェルナーの屋敷は港から一本通りを入った所にあった。百坪を超える広さの三角屋根の家は四階建てで、石造りに漆喰が塗られている。ナラの窓枠は黒く、小さめだが色とりどりのガラスが嵌めこまれている。玄関には三匹の猫――白いオッドアイ、毛足の長い茶トラ、白黒のタキシード柄――が寝そべっている。カシアが猫に近寄ると、一斉に逃げ出してしまった。
家に入ると二階にある空き部屋に通された。全員荷物を置いてから一階のリビングに集まった。壁に数種類の銛、サメやウミヘビの頭蓋骨、ウミガメの甲羅が飾られている。サイドボードにはヒトデや貝殻の入った瓶がずらっと並び、カシアとペトラは感嘆の声を上げる。
「よし、今度は裏に来てくれ」
裏庭には小型のボートと共に巨大なクジラの頭蓋骨があった。カシアは大きさを図ろうとして、両手を広げたまま端から端へ行き来していた。
「これは、俺が四十過ぎの頃に仕留めたものだ。一日がかりだった。俺は十六人の仲間と一緒にこいつを仕留めてやった。こいつに浴びせられた潮と最後の鳴き声は忘れられない」
ヴェルナーの思い出話を一通り聞き終えると、ペトラとカシアが夕食を作った。ヴェルナーが捕ったというイサキとアサリのアクアパッツァだった。食後にジーンはヴェルナーとワインを飲んだ。
「家族は?」
「もういない。私は二回離婚している」
「それはすまない」
ヴェルナーは人差し指を立てるとワインを一気に飲んだ。
「気にすることはない。漁師たちのギルドを結成した後、仕事が忙しくてな。気づいたら子どもを連れてこの家から出て行っていた」
ジーンが自分とヴェルナーにワインを注ぐと乾杯した。
「二人目の妻は、俺の船に乗っていた若いのと駆け落ちして出て行った」
「それじゃあ今はここに一人でいるのか?」
「一人で住んでいる。その通りだ。だが、実は、愛人がいるんだ。しかし彼女は病気になって山へ療養しにいっている」
「それは大変だな」
ヴェルナーは再びワインを一気に飲み干した。「しばらく連絡がない。やはり俺には一人が向いているんだと思う。一人は気楽なもんだ。あんたは連れはいるのか?」
ジーンは苦笑いを浮かべて首を振った。「まさか」
ヴェルナーは納得するように頷き返した。「そうか、そうだろう。結局、仕事があればいい。充分生きていける」
順番に湯浴みを終える中、最後にアルと交代でジーンがそれをしに席を立った。アルはリビングの壁に掛けられているヴェルナーのコレクションを眺めている。
「これはサメですよね? すごい歯ですね」
ノコギリ状の鋭い歯が並んでいる。ヴェルナーはサメの歯が詰まった瓶の中から一つを取り出すと、アルに手渡した。
「一つ、これをやろう。プレゼントだ」
「本当ですか、ありがとうございます」
アルは感心しながら歯をじっくりと眺めた。爪をノコギリ部分になぞってみた。段々状の硬い感触が伝わる。
「この歯で噛まれたら、ひとたまりもないでしょうね」
「その通りだ。俺の幼なじみは、サメに食われて右足を失った」
「それは気の毒に」
「まだ、二十歳もそこそこの頃だ。そいつと俺とは同じ親方の船に乗っていた。穏やかで晴れた日だったよ。漁をしていると魚が大量に跳ねるのを見つけた。網をぶん投げるとあっという間に大漁になった。そこでやつは誤って海に転落した。水面に顔を出して二言、三言冗談を言うと、やつは一気に水中に消えた。俺は何が起きたかわからなかったが、慌てて親方が叫んだんだ。『サメだ!』とな。下からどす黒い血が浮き上がって来た時はぞっとした。それからやつが浮上したんだ。だがサメと聞いて、誰もやつを助けに行くことはできなかった。俺も他の船員も凍りづけにされたみたいに固まっていた。わかるだろう? 仕方ないことだ。そんな中、親方が飛び込んでやつを助けた。俺たちの硬直は、親方の勇敢さによって溶かされたんだ」
アルは生唾を飲み込んだ。「サメはどうなったんですか?」
「右足を食って満足したのか、姿を見たものはいない。海の恐ろしさだ」
アルは手元のサメの歯をもう一度確かめた。鏃のような形状をしている。アルはそれをヴェルナーに手渡した。
「やっぱり、お返しします。ああ、その……何だか不吉な感じがして。すみません」
アルはそのまま部屋に戻って休むことにした。ヴェルナーは満足そうに笑みを浮かべ、サメの歯を弄んだ。
出発を前にジーン、アル、ペトラの三人はヴェルナーに礼を述べた。
「大変助かりました。本当にありがとうございます」
「ご婦人、礼はいい。困った時はお互い様だ。それに、旨い料理をありがとう」
「そう言っていただけるとありがたいわ」
「私も老い先短い身だが、たまには話し相手が必要なのだ。また、この街に来た時には立ち寄ってくれ」
三人はその提案にうなづくと、あらためて礼を言った。
「ところで、私からお願いがあるんだが」
「何でしょうか?」
「あなた方はメナスドールへ行くと言った。メナスドールには山に療養所がある。そこに私の愛人がいるのだ。ここのところ連絡がなくてな。どうか手紙を渡して欲しい。できればでいい」
ジーンが手紙を受け取った。「宿の礼だ。喜んで引き受けよう。何と言う療養所だ?」
「ハンプデール山にあるテットガス療養所という所だ。詳しくは、近くにクリフドーサという街があるので、詳しい場所はそこで聞いてくれ。私の愛人の名前はイスタシア。イスタシア・ショーシャという」
「私たちは首都のレフォードへ行くんですが……」
「大丈夫だ。帰りに俺が手紙を届けよう」
「ありがとう、恩に着るよ」
カシアが出発を急かしたので、ヴェルナーに別れを言って出発した。アメントースを出る前に、野菜、果物や干物などの食料を馬車に詰め込んだ。カシアはドライフルーツが気に入り、木箱からイチジクやデーツを取り出して食べていた。アルはその様子を見つめて安堵した。




