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北へ(6)

 エメラルドグリーンの海の上には未だ薄灰色の雲が塗り込められている。水平線近くに少しだけ雲の切れ端が見える。カシアは目覚めるとアルの側に寄って来た。

「何してるの?」

「何も。ただ海を見ているだけだよ」

 他の三人は前日のイノシシ肉とパンを水で流し込んでいる。アルはカシアに食事を薦めたが首を振られた。

「お日様は?」

「反対側だから、ここからじゃ見えないよ」

 潮風で顔にかかる髪を両手でかき分けるカシア。ペトラの呼声に、彼女は駆けて行った。


 崖の海岸線に沿って進んでいく。グールの一件から森に入るのははばかれたが、入らざるを得ない箇所がいくつもあった。今度はジーンが先を行き、様子をうかがいつつ旅を続けていた。

「少し東側に進路を取って森を行ったほうがいい」

 ちょうど午天時の休憩をしていると、ジーンが偵察から戻った。


「何かあったんですか?」


 全員が徒歩でジーンの後をついて行った。森を抜けると目の前はすぐ崖になっている。高さは三十メートルを超えている。朝に比べて高い白波がその崖に打ち寄せている。ジーンは木に手をかけて一同に崖の一点を指した。崖の凹んだ箇所に動く気配があった。


「見えるか? ハーピーだ」

「ええ。見つかると面倒ですね」


 一匹のハーピーがその箇所に飛んできて浮揚している。足には獲物の鳥をつかんでいる。青紫の翼には羽先を染める黒が縞模様を形作る。緑色の身体には黒いアザのような無数の斑点が覆い、僅かに尖った口先から悲鳴のような鳴き声を上げている。


「また少し森を行くことになるが、我慢してくれ」

 ジーンの言葉に反対するものは誰もいなかった。どこか重苦しい雰囲気の中での旅が続けられた。


「なぜ翼のある怪物からは逃げるの?」

「急にどうしたんだい?」

 森の中で一夜を明かすことになった。火を熾すために枝集めをしているアルにカシアが近づいてきた。彼女の頬には黒い筋が見えた。アルに教えられてカシアは自分の顔の汚れを擦った。

「ねえ、どうして?」

「戦わないで済むならそれにこしたことはないよ」

「こっちは三人もいるんだから大丈夫でしょう? カベルは強いのよ。あなたは?」

「そういう意味じゃないんだ。確かに僕はカベルさんほど強くないけれど、魔物は数に物を言わせて襲ってくる場合が多いんだ。数にものをいわせて襲われれば、とても君を守り切れないよ」


 カシアはどこか落ち着かない雰囲気でアルの話を聞いている。


「ハーピーは空を飛ぶから厄介なんだ。あの大きな翼を見たでしょう」

「矢で撃ち落とせばいいじゃない」

「そうだね。でも僕はまだまだ下手くそなんだ。なかなか上手くいかないんだよ」


 カシアはアルの真似をして枝を拾った。カシアの腕の中には、あっという間に抱えきれないほどの枝が集まった。アルが手伝おうとしたが、少女は自分が持つと譲らなかった。


「そろそろ戻ろうか」

「……行きたくない」


 アルは薄々感じていたことが起こり、ため息をついた。


「何があったんだい?」

「もう、お家に帰りたい」

「どういうことだい?」

「お家に帰りたいの!」

「……とりあえず、みんなのところへ行って話をしよう」

「やだ、私の話なんか聞いてくれないもん!」


 アルは混乱と当惑の内にいた。涙ぐむカシアにまごついていた。


「最初から話をしてくれるかな? 実を言うと、僕は君たちの事情……なぜメナスドールに行くのか聞いていないんだ」

「……私はお嫁さんになるんだって……」

「『お嫁さん』か……」

「でも、人質にされるんだって! それから奴隷にされて殺されるんだって!」

 カシアの顔は歪み、サファイアブルーの瞳からコップの水が溢れるように涙が溢れる。

「人質にも奴隷にもならないはずだよ」

「だって……だって、エミールが言ってたもん」

 カシアの涙は止まらず、言葉が涙で滲んでいく。

「……本当なのかい?」


 カシアは肩をひくつかせながらうなづいた。アルは努めて落ち着いた声を出した。

「きっと、事情を知らないで、勝手な思い込みで言ってしまったんだろうと思う。そうでなきゃ、ペトラさんやカベルさんは付いて来ないんじゃないかな。それに、カシアちゃんは大事なお嬢様なんでしょう。そんな大事な子を、むざむざ奴隷にされるようなところに行かせるなんておかしいでしょう? スメイアとベルメランクは戦争になってしまっているから、大人数でスメイアを通るわけにはいかないんだ。だから不便な旅になってしまっているけれど、君を守るため、旅の安全のために僕らがいるんだ」

「……でも……」

 アルは笑ってみせた。「不安かい?」

 カシアがうつむいて涙を拭っているのを、アルは笑って覗き込んだ。カシアはアルと一瞬目が合うと笑ってしまった。

「旅は初めてなの?」

「うん」

「それじゃ不安に思うのも仕方ないね。でも旅はいいものだよ。風が運ぶ草花の匂いと鳥や虫の歌声、森では美味しいきのこが生えているし、川には魚が跳ねて飛沫を上げるんだ。今は陰っているけれど太陽が出れば光がまぶしく大地を照らすし、雨が振れば虹が出る。虹は見たことある?」

「あるよ。大っきく空に橋みたいにかかるのを」

「きっと、この旅でも見られるんじゃないかな」

 カシアの表情が緩むと、アルは増々口角を上げて微笑んでみせた。ようやくアルの顔をじっと見ることができたカシアの口から笑い声が漏れた。二人は笑い合い、みんなのところへと戻った。


 アルが戻るとすでにジーンが火を起こしていた。ペトラはイノシシ肉の赤ワイン煮込みを作るつもりだったらしく、マッシュルームやローリエを摘んでいた。

「お嬢様、どちらにいらしていたんですか?」

 アルの後ろで薪を手に抱えていたカシアを見て、ペトラは驚いた。彼女は持っていた籠を取り落とすと、カシアの肩を抱いた。

「お嬢様はそんなことをなさらなくてもいいんです。危ないので座って待っていてください」

「いいえ、私にも手伝わせてほしいの。これくらいできるわ。それに、ずっと馬車で座っていてお尻が痛いんですもの」

「でも枝で怪我でもしたら……」

 ペトラの心配をカシアは大声でかき消した。

「これくらいでしたら、大丈夫ですよ」

「一人でうろつくのは勘弁して欲しいが、大人が一緒ならば枝拾いくらいさせてやればいい」

 アルとジーンはカシアに加勢した。ペトラは困惑していたが、しぶしぶそれを認めると幾ばくかの注意をした。

「それでは、今度は私とお料理を手伝っていただけますか?」

 ペトラは落としたキノコ類を拾い上げて、カシアと一緒に夕食を作リ始めた。出来上がったイノシシ肉のワイン煮は肉が固く、皆飲み込むためにしばらく噛み続けていた。全員で黙々と口を動かし続ける様子に、カシアはペトラと顔を合わせて笑い声を漏らした。


 アルは森の静寂に一人耳を傾け、膝を抱えて焚き火を見つめていた。枝を手に火のついた炭をひっくり返すと、灰が舞い勢いが増した。火花の弾ける様子は水中を泳ぐ小さな生き物のようで神秘的でもあった。アルは立ち上がって全員の眠っているのを確認すると焚き火を離れた。

 焚き火の明かりを中心にアルは周囲を探った。一度、カラスの甲高い鳴き声が聞こえた。手をかけた木には大きな蛾が止まっている。

「おい」

 アルが松明を向ける先にカベルが立っていた。

「どうしたんですか?」

「話がある」

 カベルの青白く不気味な顔貌に、アルはどうしても馴染めなかった。

「……ええ、どうぞ」

「あの馬はどこで手に入れた?」

 アルは思わずため息をついてしまった。

「またその話ですか……」

「答えろ」カベルは剣を抜いた。

「何もそんな脅すような真似をしなくてもいいんじゃないですか」

 カベルが一歩踏み出すと、草むらからカエルが飛び出した。

「わかりました。言いますよ」

 アルはマーグノールでの戦争に参加し、偶然馬を拾った話をした。話を終えてもカベルは動かなかった。

「到底信用できない」

「そうだとしても事実なので、これ以上はありませんよ。ベルメランクの馬とはいえ、何をそこまで執着するんですか?」

「……あの馬は、俺の友人の馬だ。彼の名はハイセル・クラステム。ペトラの夫だ」


 アルは驚いて何も言えなかった。


「偶然拾った、だと? ただそれだけのことだとしたら、なぜ傭兵に特別なツテがあるなどと嘘をついた。貴様の言っていることは信用できない」

「信用できないのはこっちも同じですよ。雇い主にいきなり斬りかかられるなんて経験は初めてでしたからね」

「俺は必要なことをするだけだ。あの程度の剣を避けられないのならば、どのみちこの道中で死ぬ。あの時、不満なら契約破棄してもいいと言ったはずだ」

「死ぬつもりでこの仕事を引き受けてはいませんよ。とにかく僕の話が信用できないというなら、どうすればいいんですか? 一体何が望みなんですか?」

「馬は返してもらおう。貴様のような人間には過ぎたものだ」

 カベルはさらに近づいて、剣をアルに差し向けた。

「……わかりました。馬は返します。それでいいでしょう?」

 次の瞬間、アルは剣を抜くと同時にカベルに振り下ろした。カベルはそれを受け止めると鍔迫り合いになった。

「どういうつもりだ?」

「馬を返すのは構わないですよ」


 二人は互いに押し返すが剣を合わせたまま硬直した。アルは歯を食いしばるとカベルを突き飛ばした。カベルの体勢がよれたところへアルは三連撃を放った。カベルは一撃目、二撃目を受け流すと三撃目を受け、再び鍔迫り合いとなった。そこから巻き込むようにアルの剣を下へ下げると体当たりをした。カベルが下段からの斬り上げで追撃を放つと、アルは飛ばされた勢いを利用して地面に転がってそれをかわした。カベルが突きを放つ。アルは前転をするようにカベルの横に飛び込んだ。アルは身体をさらに回転させてカベルの足に斬りかかる。カベルの前蹴りがアルの顔面を捉える。さらに斬り上げるが、アルは上手く剣を合わせていなした。二人は間合いを取って睨み合った。


「まだやるつもりか?」

 カベルは顔色ひとつ変えずに感情の乏しい声で話した。アルは立ち上がって蹴られた顔を拭った。

「もちろん。まだまだ、これからでしょう?」


 アルは正眼に構えたままカベルの周囲を回り始めた。カベルは片手に剣を下ろしたまま特段構えようとはせずにアルの動きをうかがっている。アルが踏み込んで突きを放つと、カベルは後ろに身をそらしてかわした。たたみ掛けるように突きを放つが、カベルは間合いを見切り無駄な動きを見せない。無用に半歩アルが踏み込んだ。アルの突きをかいくぐると、カベルが下から斬撃を放った。アルはとっさに左手を離して半身をそらしたおかげで布一枚を斬られるにとどまった。その時、短い悲鳴が上がる。アルは大きく後ろに下がった。すると木の影からペトラが姿を表した。彼女は慄きながらも二人に声をかけた。

「何をしているんですか!」

 アルとカベルはペトラに目を向けながらも、互いに牽制しあっている。

「答えてください。一体何をしているんですか!」

 二人の眼光と不穏な空気、アルの切れた服を見たペトラは二人の間に歩を進めた。それを見た二人の剣士は剣を収めた。

「馬はお返ししますよ。旦那さんの馬なんでしょう?」


 アルは興奮を抑えようと目をつぶりながら言った。大きく息を吐いて再び目を開けると、ペトラの狼狽したような表情があった。ペトラはカベルに目で訴えた。アルが戻るとジーンが目を開けた。彼は焚き火のそばで片膝を立ててリラックスしていた。

「どうだった?」

「わかっていたんですか?」

 ジーンは焚き火に薪をくべた。

「……馬を引き渡すことにしました」

「そうか」

「それだけですか?」

 ジーンはゆっくりと顔を上げた。「あとは顔を見ればわかる」


 アルは肩をすくめると焚き火から少し離れたところにあるヤドリギの寄生したコナラの傍に腰を下ろす。カベルに蹴られた顔をこすると、唇を真一文字に結んだ。アルはジーンを見るが、彼は目をつむっている。話しかけるのをあきらめ、アルはそのまま眠った。


 ペトラはカベルに詰め寄った。カベルの松明に夏虫が漂っている。

「アルさんと一体何が?」

「馬を手に入れたいきさつを聞いた。どうやら戦場で拾ったらしい」

「それでは、なぜ揉めていたの?」

「やつが先に襲いかかってきた。それだけだ」

「なぜ? 彼はそんなことをする人とは到底思えないわ。カベル、あなたが何か気に触ることでもしたんじゃないの、ねえ?」

「いずれにせよ、やつは馬の譲渡に同意した。ハイセルの馬は戻る」

「私は馬が欲しいんじゃないわ!」

「……ハイセルを殺したのはやつかも知れない。やつがそうではないとは言い切れない」

「今は、カシア様を送り届けるのが先でしょう。無用な争いは避けるべきなんじゃないの? よりにもよって雇った護衛の方と斬り合いをするだなんて……」

「元よりここで殺すつもりはない。さっきも言ったが、やつが仕掛けてきたことだ。それにたかだか傭兵一人、また雇えばいいだけだ」

「彼は充分に務めを果たしてくれているわ。そういう風に言わないで」

「わかった。カシア様を送り終えるまでは、この件は置いておく」


 二人は休んでいるカシアを起こさぬようにそっと戻った。カベルはアルを探ったが、彼は微動だにせずに深く眠っているようだった。翌日は午前の内に森を抜けると、川を発見した。カシアが声を上げて喜ぶと、靴を放り出して水辺に走っていった。カシアが入って行くと、最大でもそのすねぐらいの深さだった。ペトラもカシアに続いて入っていく。彼女たちが水遊びを始めると、明るく甲高い声が響き渡った。カシアはもっと遊びたいと不平を言ったが、小一時間ほど休憩を取ると旅を再開した。

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