北へ(4)
目覚めると雨は止んでいた。ゴディンの妻が早起きして全員分の朝食を作っていた。ゴディンの子どもたちは朝から飛びつくようにして食事を奪い合っていた。カシアは目の前に出されたスープと山羊のミルクに顔を近づけると顔をしかめて脇の方へ追いやり、パンを少しだけかじった。それを見ていたゴディンの子どもの一人が怪訝な顔を見せた。
「食べないの?」
カシアは返事をせずに隣りに座るペトラの袖を引いた。ペトラはカシアに食事をするよう勧めたが、カシアは嫌そうな表情を浮かべるだけだった。ゴディンの妻はカシアの具合を心配したが、子どもの一人がカシアの食事をカモメのようにさらって行くと、恐ろしい声で怒鳴った。アルも思わず驚いてスープを取り落とした。アルはさっさと食事を終えて外へ出た。太陽は見えないが雲間から薄っすらと光の帯が落ちている。さざなみのたゆまぬ揺らぎは奇妙な生物のように見える。アルが飽くことなくその連動を眺めていると、ジーンとゴディンがやってきた。
「そういえば朝いませんでしたね。どこに行っていたんですか?」
「牧場だよ。馬車のことが心配で眠れなかったらしい」
アルは笑ったが、ゴディンは語気を荒げた。
「下手打って冗談ですまなかったらどうするんだ。怪我すんのはごめんだぜ」
「その通りだと思います。すみません」
「依頼者の要望に答えようとする姿勢が素晴らしいじゃないか」
「ジーンも一緒に行ったんですか?」
「ああ、少しはなしがあったからな」
ゴディンはジーンの腕を引くとコソコソと耳打ちした。
「その件は誰にも言わないでくれ。正式に仕事として頼むかも、これからの話だからな」
「わかっている」
「何の話ですか?」
関心を引くのに充分な雰囲気にアルはつられた。ゴディンは下手糞であからさまな態度でごまかそうとし、ジーンがすぐさま助け舟を出した。
「仕事と報酬の件だ」
「それならそれほど慌てなくてもいいんですよ」
「そう言われればそうだな。馬車のせいで俺はおかしくなっちまってるんだ」
ゴディンはわざとらしい笑い声を発した。
「アルなら大丈夫だ」
ジーンも半ば呆れ気味にゴディンの肩を叩くと、二人連れ立って彼の家に入っていった。朝食を済ませて全員が外に出てくるまでの三十分間、アルは一人で海を眺め続けた。
「番犬ごくろうさん。異常はなかったか?」
「ええ、ご覧のとおり。穏やかなものですよ」
ベルメランクの三人が出てくる。三人とも非常に地味で質素な服装を身につけていた。ペトラは褪せた炭色のコットの上に、あずき色のシュールコーを重ね着している。カシアは白と海のような深い群青色のコットを重ね着して、白いシンプルなスカーフを頭に巻いている。カベルはというと、白いシュミーズに鴨羽の緑色のズボンとチュニックを合わせて、さらに同色の縁の大きなベレー帽を手にしていた。
「どう思う?」
「どうって……普通だと思いますが」
アルは女性陣を見ながら言うが、ジーンはカベルを見るように目で合図した。
「農民にも商人にも無理があるように見えるがな」
アルは苦笑いを浮かべた。「帽子を被って目立たないようにしていてもらえればいいんじゃないですか?」
「それに加えて傭兵の俺たちがつく。アルの言うとおり、スメイア兵に絡まれたら面倒になりそうだ」
二人の会話に気づいたのか、カベルが近づいてきた。
「何をコソコソと話している?」
「ルートの確認だ。どこを通るのが最善なのかと思ってね」
「海岸沿いに決まっている。メナスドールに入るのに最も楽なのがそのルートだ。でなければスメイアを我々が通ろうなどとは思わない」
「……わかった。まずは馬車だ。牧場まで行こう」
牧場ではゴディンが言う『万全の馬車』が待ち構えていた。カベル・アルヴァンがその確認を終えると、カシアがぐずった。
「どうなさったんですか、どこか具合でも?」
ペトラは自身とカシアの額にそっと手をやった。ペトラはカベルを見やって、熱がないことを示す。
「……こんなのに乗りたくない」
カシアの言葉を聞いたゴディンが青ざめた。「どこかお気に召さない部分があるんですか、お嬢さん」
「こんな服も着たくない!」
カシアは地団駄を踏んで叫んだ。ペトラが少女の肩に手を添える。
「お嬢様、どうか我慢してください。私たちは見られるためにここにいるのではありません。目立ってはいけないのです。それに、このように平民が乗るような見た目でも中はしっかりしたものです。ご覧ください」
カシアはペトラの手を振り払うと、再び喉が潰れるほどの大声で拒否した。カベルも歩み寄るとペトラと共にカシアのもとへひざまづいてなだめ始めた。何度か同じやり取りを繰り返す羽目となり、カシアが泣きべそをかいてしまった。そこへアルが自分とジーンの馬を連れて戻ってきた。
「何があったんですか?」
アルはジーンの馬と結んでいた手綱を解いた。ジーンの馬は首を大きく振って二、三度後ろ足を蹴り上げた。カシアは本格的に泣き声を上げた。
「お姫様は馬車がお気に召さないとさ」
ジーンはアルから手綱を受け取ると自分の馬をなだめすかした。馬の顔に挟むようにして両手を添えると、首筋に沿ってしっかりとなでていく。馬は鼻を鳴らし、耳を羽ばたかせている。隣でアルの馬はその様子を眺めながら尾を揺らしていた。
「大丈夫なんですか?」
「さあな」
アルの馬がカシアの目に留まると、少女は走りだした。そして馬の前で立ち止まると、溢れる涙を袖で拭った。
「……これに乗る」
「カシア様、それならば私の馬に乗りましょう」
カシアは首を振った。「やだ。これに乗る」
カシアはアルの馬をちらっと見上げる。ペトラは困った様子でカベルと顔を見合わせた。カシアは鼻をすする。今度はカベルはアルの方へ歩み寄ると、その馬をまじまじと見た。
「良い馬だな。どこで手に入れた?」
「……知り合いに良い牧場をやっている人がいるんですよ」
「見たところヤリド種のようだが」カベルは無表情にアルから目をそらさない。
「ヤリド種?」
「ベルメランク南東部を中心に生息する馬だ。ミゲーロ族は騎兵で有名なんだ。知っているか?」
「それほど詳しくは知りません」
「そのミゲーロ族の誇りと言えるのがこの馬だ」
「……そうだったんですか」
「なぜスメイアの傭兵がこの馬を持っているのか不思議でならない。ヤリドはベルメランクの外には出ない。ましてやスメイアになどはな」
カベルの青白い氷のような眼差しがアルを貫く。
「傭兵には傭兵独自のつながりがあるんですよ。そこに国は関係ない」
「……なるほど」カベルは馬をじっと見据えた。「本当に良い馬だ。ところで話が戻るが、お嬢様が乗りたいとご所望だ。旅の間借り受けられないか? 無論、金は払う」
「これは僕の馬です。できません」
カベルはアルに一歩近づいた。
「お嬢様が気の済むまでの間だ。このままでは出発できない」
アルとカベルが睨み合う中、ジーンが屈んでカシアに話しかけた。
「お嬢ちゃん、この馬に乗りたいのかい?」
カシアは地面を見つめたまま小さくうなづいた。
「どうしてもかい? 他のじゃ駄目なんだな?」
カシアはやはり目を合わせようとはせず、うつむくそのままにうなづいた。
「……わかった。じゃあそうしよう」ジーンはそう言うと立ち上がって睨み合う二人の男の間に入った。「
お嬢ちゃんは馬に乗りたいそうだ。だから、アルが馬に乗せていく」
「馬を貸してくれ、それだけだ。もちろん金は払う」
カベルはすでに金を取り出していた。アルはその態度に苛立ちを隠せなかった。ジーンがアルの腕を鷲づかんで後ろへ追いやった。アルが文句を言う前にジーンが有無を言わせない表情を表していた。
「仕方あるまい。仕事だ」
ジーンはアルにそれだけ言うと向き直った。
「金はいい。あんたとお嬢ちゃんがこの馬を使ってくれ。必要なものは荷馬車に積み終えた。出発しよう」
カベルは軽々とカシアを抱き上げて馬に乗せた。自身も軽やかに馬に飛び乗る。その姿は大鷲が地に舞い降りるようだった。アルはジーンとペトラの二人と共に食料などを荷馬車に積み込んだ。ジーンに馬を貸そうか、と提案されたが、アルは御者を選んだ。
「何なら一頭、馬を融通してやろうか?」
牧場主の男が荷積みをしながらアルとジーンに言った。アルはカベルに苛立っていた自分をごまかすように笑みを浮かべながら丁重に断った。
「充分立派な馬だと思いますよ」
馬車に繋がれた馬は栗毛で顔も毛も全身が赤土のようで、太陽に輝く毛づやはガラスのようだった。
「よし、それじゃ出発しよう。世話になったな」
ジーンがゴディンと牧場主に金を払った。ペトラがアルのところへやってくるとすまなそうにしていた。
「昨日は挨拶もできずに申し訳ありませんでした。私はペトラ・クラステムと申します。道中よろしくお願いします」
「アルです。あっちはジーン。こちらこそお世話になります」
「色々むずかしいでしょうが、ご容赦ください」
ペトラは馬に乗って歩きまわるカベルとカシアを見つめていた。
「僕の方こそすみませんでした。でもお嬢さんが機嫌を直してくれて良かったです」
「ええ、本当に……」
ペトラは三十半ばの淡い栗毛のそばかす女だった。両の手をそっと組んでいる指にあかぎれが目立つ。また八の字に眉を寄せてカシアを見つめるその顔から、旅の不安を隠せなかった。
「お嬢さんはいくつになられたんですか?」
「八つです。まだ八つなのに、国のために人質同然に北へ行かされるなんて不憫で……」
「そうだったんですか……母親としては辛いでしょう」
「いえ、私はあの子の母ではありません。ただのメイドなんです」
「それは失礼」
ペトラは首を振ってアルを見つめた。
「今日のような暖かい晴れた日には外で虫取りや草遊びをするのが好きな子で、たまに、あのように父親と馬に乗って野原を駆け回ったりもしていました。でもメナスドール行きが決まってからはぐずって、塞ぎこんで、物に当たって、と大変でした」
カシアは馬上から蝶を見つけると時折笑みを見せていた。
「いくら国のためとはいえ、まだあんなに小さい娘を……」
「僕にできることなら言ってください。何でも協力しますよ」
ジーンがカシアとカベルを見ながらアルを引いて、少し離れた位置へ連れて行った。
「少し落ち着いたか?」
「ええ、大丈夫です。感情的になってすみませんでした」
ジーンはアルの目の奥を覗き込んだ。その行為に、アルにはジーンの眼差しも、カベル同様どこか底知れない無感情のものに思えた。
「仕事に集中しよう」
「わかりました」
「できないなら、置いていくぞ」
「その時はそうしてください。受け入れます」
ジーンは数秒の間、目をそらさずにアルを見つめていた。そして言葉を掛けることなくその場を離れると、自らの馬に乗り高らかに叫んだ。
「出発しよう!」




