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北へ(3)

とある一軒にたどり着くとジーンは裏口のドアをノックした。遠くに犬の吠え声が聞こえる。しばらくの沈黙の後、扉が開いた。中から出てきたのは細面の色素の薄い男で、逆立った金髪に目の周りがいやに黒く染まっている。ジーンは書類を取り出してその男に手渡した。

「ここで待て」

 男は言うと同時に家の中へ消えた。中から何事かの話し声が漏れた。ジーンは木の柵に寄りかかった。五分ほど経って再びドアが開けられた。出てきたのは最初の男と、小さな女の子を連れた女だった。女の子は、泣き腫らしたのか目の周りが赤く、女の方は心配そうにその肩に手を置いて付き添っている。

「俺はジーンだ。そっちはアル」

 ジーンの言葉に特に反応せずに、男は松明に火を着けると二人にどちらともなく差し出した。アルはジーンと目を合わせると自分がそれを受け取った。


「行こう」


 男に促されるがままにアルとジーンは三人を先導した。またどこかで犬が吠え、草がこすれるかすかな音がした。口を開くものはいなかった。五分ほど歩いた地点で、アルとジーンの二人は互いの脇目を合わせた。二人の振り向きざまに男の剣が走る。松明が宙を舞う。ジーンは剣を抜こうとしたが、その柄を男の左手に抑えこまれると、体当たりを食らわされた。同時に男はナイフを突き出してきたアルを蹴り飛ばした。少し離れた所に留まっていた女の短い悲鳴が響くと、松明が落ちてきた。アルとジーンが剣を手に構えると、すでに男は戦闘態勢を解いていた。左の掌を前に、剣を鞘に収めた。


「すまなかった。悪気はない」

 男はさも何事もなかったかのように二人を諌めるが、アルとジーンは剣を構えたまま動かない。

「どういうつもりだ?」

「なに、単なるテストだ。あんたらの力量を知りたかった。もう充分だ」

「いきなり後ろから斬りかかっておいて、それだけか?」

「あの程度で死ぬようならば、今回の仕事を任せるには値しない。こちらは不安は取り除かねばならない」


 アルはジーンを見るが、ジーンは動く様子がない。地面に落ちた松明が周囲を焦がし始めた。


「不服ならば今回の仕事はなかったことにしてくれていい。帰ってくれ。引き受けるならば、報酬は倍払おう」


 ジーンはアルの顔を見た。アルは険しい表情のままジーンを見つめて動かなかった。


「……いいだろう、仕事を続けよう」


 二人は剣を納め、アルは松明を拾う。男は金の入った袋をジーンに差し出した。


「カベル。カベル・アルヴァンだ」

「僕は……」

「アルとジーンだな」


 ジーンは金を受け取ると中を確認してアルに投げて寄越した。アルは中に金貨を見た。


「行くぞ」


 今度はジーンがアルに言った。カベルは後ろの女について来るように声をかけた。少女はうつむき、女は男三人の顔色を不安な面持ちでうかがっている。


「アルです、よろしく」

 アルが女の方へ近づこうとするとカベルが立ちふさがった。

「こちらは大丈夫だ。案内を頼む」

「……わかりました」


 崖を迂回して桟橋に着いた時ゴディンは舟をこいでいた。


「お疲れか?」

「おお、悪いな。ついつい気持よくてな」


 ゴディンがカベルたちの方に目をやると、女はそっと少女を隠した。

「さあ、乗ってくれ」


 カベルが少女に手を差し伸べて舟に乗せる。少女が一歩踏み出すと舟が揺れる。その足はにわかに顫えていた。全員が乗り込むのを見てゴディンはロープを解いた。沖合は行きと同じく凪いており、海は鏡のようだった。ゴディンはカベルにも舟漕ぎを要求した。おかげで舟はずいぶんと速く進んでいた。


「どうだい、乗り心地は?」


 ゴディンは少女と女に向かってパンを差し出した。女は断わろうとしたが、少女は女の隙をついてそれを受け取った。

「舟は初めてかい?」

「いえ、私は何度か……」

「お嬢ちゃんは?」


 少女はパンを食みながらうつむいていた。


「誰も取るやつはいやしないよ。ゆっくり食べな」

「すみません、ありがとうございます」女が代わりに答えた。

「こんなに凪なのは珍しいんだ。普通はもっと左右に揺れるんだよ。食うやつより吐くやつほうが多いくらいだ」


 ゴディンは笑ったが、誰もつられなかった。


「おっと失礼。ところで、永遠の水底の神話は知ってるかい?」


 少女は口を動かしながらちらっと目を上げた。女と目が合うと首を振った。それを見たゴディンは微笑んだ。


「この海の底には大穴が開いてるんだ。どこまでも果てしなく深い穴だ。神話の時代には今のように海に水はなく、穴は地面に開いていた。ある時、水の神アープスから産まれたアリアニスという青年がこの穴を訪れた。青年は好奇心から暗闇が口を開けるこの穴を覗き込んだ。底がどうなっているのかどうしても見たかったアリアニスは、まず松明をかざしたが底を照らすことはできなかった。次に鏡を持って陽の光で照らしてみた。光は暗闇に飲み込まれ何も見えない。穴の周りをウロウロしているアリアニスのもとへメズが通りがかった。メズはアリアニスに『一体何をしているのか』と訊ねた。アリアニスはこの大穴がどうなっているのか、どこにつながっているのかを知りたいと言った。メズは自分でもわからないと言った。肩を落としたアリアニスに、メズは助言を与えた」


「何て言ったの?」


 少女の声は春ウサギの毛のように柔らかく朗らかだった。


「メズは穴の中に下りる以外にはないと言ったんだ。しかし、アリアニスの集めたありったけのロープを繋いでみても底にはたどり着かなかった。そこで、蛇の山ネルシュに行って蛇を捕まえてくるように言われた。『ネルシュの蛇はリンゴが好物だ』と教えられたアリアニスは、言われた通りリンゴを手にネルシュにたどり着くが、そこに蛇の一匹も見当たらない。そんなはずはない、と山を登って行く。雪と氷に覆われた山頂にたどり着くが、そこは黒雲から落ちる白雪が舞うのみだった。だまされたと思ったアリアニスは地に伏して涙した。持っていたリンゴが懐から落ちると、どこからともなく声がした。『うまそうなリンゴ、ひとつおくれ』。声に驚いたアリアニスは吹雪の中、声の主を探すが見つからない。すると、大きな地震が起こった。大地にしがみつくアリアニスの前に、巨大な蛇の頭が現れた。なんと山だと思っていたのは蛇だった。『リンゴをおくれ、リンゴをおくれ』。アリアニスは驚いたがリンゴを蛇に放り投げると、蛇はそれをうまそうに食べた。持っていた全てのリンゴを食べ終え、満足そうな蛇を見てアリアニスは大穴について話した。蛇はお礼にその大穴へ下りる手伝いを快諾した。山全体が蛇のとぐろを巻いた姿で、どんどんと解けていった。それを蛇の頭に乗って見ていたアリアニスはあらためて驚いた。大穴に着くと蛇は体をその中へ入れていった。しかし行けども行けども真っ暗闇だった。アリアニスが見上げると穴の入り口が夜空の星にように小さく見えた。やがてそれも見えなくなるほどに潜っていった。とうとう蛇の体が目一杯伸びきったが、底にたどり着けなかった。その時、アリアニスは松明を手に身を乗り出した。するとアリアニスは滑って、蛇から落っこちてしまった。それっきりアリアニスを見たものはいない」


「……それでおしまい?」


 ゴディンは持って来たワインを取り出して一口飲むと、暗闇を滑る舟から灯台の明かりを眺めた。


「アープスはアリアニスがいなくなったことに気づいた。そこへメズが訪れると、アリアニスの顛末について話した。アープスは嘆き悲しんで大穴を訪れ、穴を覗き込んで涙を落とした。水の女神の涙は呼び水となって大穴から塩水が溢れだしたという。これが海の誕生だと言われている」


「結局その穴はどこにつながっているの?」

 少女の大きな瞳には、舟の先にしつらえた松明の炎が揺らぐ。

「さあね、誰にもわからない」

「僕が聞いた話だと、海水が出る穴と吸い込む穴のふたつがあるそうです。だから大地が全て海に飲み込まれずに済んでいるそうです」アルは漕ぐたびに言葉にも力がこもった。

「別の話ではメズが蛇ごとアリアニスを穴に落としたとか、実は蛇は穴の栓で、それでアリアニスごと封をされてしまったとか、色々言われているんだよ」


「何だ、結局穴の底がどうなっているのかはわからないんだ。つまんないの」

「お嬢ちゃんはどうなっていると思う?」

「私がおばあさまから聞いた話だと、地面の下には火の海に包まれた地獄があるそうよ。だからきっと大穴も地獄につながっているはずだわ」

「海はどうやってできたんだい?」


 少女は上の方を眺めながら考えた。


「神様のおしっこじゃないかしら」

「カシア様、なんてことを!」

 動揺した女はカシアの口を塞ごうとした。そのせいで舟が大きく揺れた。

「ちょっとやめて、ペトラ。舟を揺らさないで! 落っこちちゃうわ」


 カシアは笑いながらペトラの手を払うのを見てゴディンやアルが一緒になって笑うが、カベルは黙々と舟を漕ぎ続けた。夜がさらに深まると潮の流れが変化し始め、カシアとペトラの金髪が潮風に揺れた。ミーンスフルートに着いた時には時折強い風が吹き付け、下船の際に舟が大きく揺れた。ゴディンの家に素早く駆け込んだ時には雨がポツポツと降り始めていた。


「天気はわからねえな、あんな凪の後だから荒れるかもしれねえ」

「馬車の手配はどうなっている」


 カベルはジーンとアルをじっと見据えた。ゴディンが女たちへタオルを渡しながら二人の間に入ってきた。


「それは問題ない。明日の朝に街の外れにある牧場に行けばいい。手配してあるよ」

 カベルは静かにカシアとペトラのもとへ行くと、三人で奥へと消えていった。アルはジーンを見た。

「今回の仕事は難しそうですね」

 残った三人はテーブルを囲み、ゴディンから水を受け取ったジーンはそれを一気に飲み干した。

「俺たちは傭兵だ。信用がないのは当然だろう。気にするな」

「何かあったのか?」

 ゴディンが怪訝な面持ちで二人を交互に見た。

「あの騎士が斬りかかってきたんですよ。それに女の子らと話すことも止められましたよ」

「近づいて欲しくないらしい」

「おいおい、それじゃあ俺はやばいのか? 舟でついつい長話をしちまったぜ」

「運が良かったな」ジーンが含みのある言い方でからかった。

「冗談だよな。何にも言わなかったじゃねえか」

「ちゃんとした馬車だろうな? 万が一途中で車輪が外れでもしたら、あんたの首も体から外れることだろう」


 額に手を当ててゴディンの顔がどんどん青ざめていく。


「冗談ですよ、大丈夫です。ジーンも言い過ぎです」

 ゴディンは青ざめたまま立ち上がったが、立ちくらみを起こしてテーブルに手を着いたまま強く目をつぶった。アルが手を貸そうとしたが、ゴディンはそれを断ると聞き取れないくらいの声で何かをつぶやいて寝室へと引っ込んだ。

「ちょっと冗談が過ぎますよ」

「あの程度で……まあ、これで万全の馬車を期待できればいいな」

「……それじゃ僕も休みますよ」

「そうだな。俺もそうするよ」


 アルは寝床で目を閉じた。しかし中々寝付くことができなかった。懸念と不安が胸をむかつかせ、煩悶を頭の中に渦巻かせていた。

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