北へ(1)
戦場から帰還したアルは、自分の家が廃墟同然になっているのに愕然とした。苔に覆われた扉を開けようとすると扉は外れてしまった。ムカデや蜘蛛が逃げる。中に入ると蜘蛛の巣が至る所に散見した。アルは銅貨が十枚も入っていない袋と剣をテーブルに置くと椅子に腰掛けた。周りを見渡してからテーブルに息を吹きかけた。埃が舞い散る。
「掃除をしなきゃいけないな……」
ぼさぼさになった頭をかきながら、ほうきを取ろうと戸棚へ向かう途中その足元に大きく嫌な音が響いた。アルは立ち止まって足踏みすると再び大きな音が鳴り、すぐ近くにはふかふかと柔らかい感触があった。積もった埃は当然だったが、床板が腐っていたのは予想外だった。アルが力を加えるとそれは簡単に剥がれてしまった。腐った床板を手に外に出ると森の穏やかな空気が木の葉をにわかに揺らす中、馬が木漏れ日におよび草を食んでいる。アルは取って返すと弓矢を手に狩りへと出かけた。弓弦を弾きながら自久しぶりの狩りに期待と幾ばくかの不安が混じっていた。五分ほど森を散策すると、一頭の牝鹿が草むらに鼻を近づけているのを見つけた。アルは鹿の側面を取ると、弓を取り出した。音もなく放たれた矢は左に逸れて草むらに消えた。鹿は緊張に身を震わせると、一目散に駆け出した。アルの手は細かく震えていた。アルは試し撃ちをしてみた。その際も少し左へと軌道が逸れていった。一度弦を張り直して、何度か試射を繰り返した。矢は理想通り真っ直ぐに飛んでいった。森へ分け入っていくと、ウズラが木の上に止まっているのを見つけた。三十メートルほどまでそっと近づくと、矢を射った。矢は木の幹を捉え、ウズラは飛び去った。アルはため息をついて、腕を振ってはストレッチを繰り返した。そこから十分ほど進んだところで再び若い牝鹿を見つけた。うろうろしながら地面の匂いを嗅いでいる。アルは一呼吸置いてから弓を引いた。狙いを定めている時、手が震えるのを感じた。アルは背中に力を込めて矢を放った。鹿は頭を貫かれて倒れた。緊張から解放されたアルは大きく息を吐く。震える手を力いっぱい握りしめると口元がほころばせた。仕留めた鹿を担いで戻ろうとしたとき、久しく忘れていた清流の音を聞いた。アルは鹿を下ろして走りだした。着ているものを全部脱ぎ捨てると川へ飛び込んだ。水中にはアルに驚いて魚が逃げ出した後の砂煙が何本も舞っていた。アルはそれを追いかけるように泳いだ。川の透明な流れが全てを洗い流してくれるようだった。
忘れていた食欲を取り戻した。積み上がった動物の骨を見て外された枷がどれほどの重さだったのかを思い知った。その日は膨れた腹に手を添えてベッドへと直行した。アルは金がなかったので、それからひと月はいくつも先生の仕事を請け負った。今までにないほど精力的に働いたことで家は元通り以上にきれいになった。
白い綿毛の巨大な雲が空の大半を覆っていた日に、アルは茶色いノウサギを二羽手に家に戻ると馬影から人が現れた。ジーンだった。彼が馬をなでてやると、馬は身を震わせて喜びにいなないた。
「驚かせたか? こいつは良い馬だな」
「久しぶりですね」
「ウサギか」
「ええ、良かったらごちそうしますよ」
アルはすでに血抜きを済ませていたノウサギを掲げてみせた。さっそくナイフで足首に切り込みを入れると一気に皮を剥いだ。耳を落とすと服を脱がせるように毛皮と肉とが分かれた。
「ところで、どうしたんですか? うちに来るなんて何年ぶりですか?」
「帰ってからずいぶん先生の仕事をやってるそうじゃないか」
「ええ、お金がなくて大変なんです」
ウサギの頭と足を切り落とすと肉を手頃な大きさに切り分ける。
「おまえに仕事がある」
塩コショウを振ると鍋に並べてオリーブオイルで表面を焼き始める。それから玉ねぎやにんじんなどの野菜を炒めた。それらを鍋に入れてバターとビネガーとハーブ、赤ワインで浸してから火にかけた。
「どんな仕事ですか?」
「護衛だ」
「依頼人は?」
「ベルメランクのお姫様」
アルは思わず鍋をかき混ぜていた手を止めた。
「先生からの依頼ですか?」
「いや、違う。先生じゃない。俺がある人から受けたものだ。手伝ってくれ」
アルは煮え立つ鍋を少し火から外すと、味見をした。
「わかりました。メルヴィンは?」
「あいつは別の仕事で出払っているそうだ。この件は、俺たち二人と向こうの護衛が一人つくことになっている」
「ちょっと鍋を見ててください」
アルは馬に飼葉と水をやりに行った。ジーンはスプーンで味見をすると塩コショウを追加した。
「ワインをもらうぞ」
ジーンはアルの返事を待たずに家の中に入ってコップを取ってくると、鍋の煮え立つ泡をじっと見つめながらワインを飲み始めた。アルが戻ってくると、コップを掲げた。
「そういえば戦争に行っていたそうだな?」
アルは肩をすくめた。「成り行きです。奴隷にされて無理やりね」
「それは災難だったな。戦争は実入りがいい仕事なのに」
「ジーンは戦争に行ったことあるんですか?」
「ああ、もちろん。傭兵だからな。最初に参戦したのは十五の頃だったかな。今のベルメランク皇帝ロムルス・メネル・ハイエンシールらドニ人とインメルスのミゲーロ族との内戦だった」
「どうだったんですか?」アルはウサギのシチューをよそってジーンに手渡した。
「滅茶苦茶だったよ」ジーンは笑った。「雨続きで泥だらけだった。戦争というより泥遊びだな」
アルもジーンもシチューに息を吹きかけて冷ましながら口に運ぶ。
「しかも、ドニ人とミゲーロ族の他にもコウル族とチュチュ族も入り乱れていたからな。訳がわからなかったよ」
「大変だったんですね」
「最初がそんなだったから、おかげで免疫ができた。後の戦争は楽だったな。アル、戦争で学んだことは何だ?」
アルは記憶を探るように空を見上げた。
「……何が何でも生き残れって言われて、それがその通りだなと思いましたね」
ジーンはウサギの肉を食べながらうなづいた。
「俺からもアドバイスしておくよ。全員が敵だと思え」
「全員ですか?」
「そうだ、戦争では味方はいない。特に傭兵にとってはな。背中を斬られたのは一度や二度じゃない」
「後ろにも目を持てってことですか?」
「それはもちろんだが、簡単に人を信用するなということだ」
アルはどう返事をすればいいのか迷った。シチューを口に運びながらジーンを見ていた。ジーンは視線に気づいてアルと目が合う。それからシチューを平らげてワインを口に流し込んだ。
「単なる俺の経験だ。気にするな」
食事を終えた二人は南へ向かった。アルはジーンにどうやってベルメランクに渡るつもりなのか訊ねた。
「ルネミス島を知っているか?」
「ミーンスフルートから南へ行ったところの島ですか?」
「そこで落ち合う約束だ」
「ベルメランクのお姫様って言いましたよね? どこまで行くんですか?」
「名前はカシア・インメルス。ベルメランクのレッジ・インメルス公爵の姪だ。彼女を北のメナスドールまで護衛するのが今回の仕事だ」
「メナスドールへ? そっちへ入るのも問題じゃないですか?」
「そうだ。そっちの手はずは向こうがやってくれているはずだが、詳しいことはわからない」
「目的は何なんですか?」
「さあな、わからない。だが、十歳ほどの娘を北にある氷漬けの国に連れて行くんだ。単なる旅行とは考えられまい」
「傭兵二人を護衛に雇って、公爵の姪っ子が北国へ行く……」
「政治がらみだな。恐らく人質に差し出されたんだろう」
馬の蹄鉄が小石を弾く。ジーンは小難しい顔をしているアルを見て苦笑いを浮かべた。
「俺たちが心配することじゃない。野盗と魔物とオオカミのことだけ考えばいい」
「……そうですね、そうします」
ミーンスフルートに入る前にスメイア軍の小隊に出くわした。小さく黒い芥子粒のようにしか見えないときにアルはそれに気づくと、手綱を引いて進路を変えた。
「どうかしたか?」
「スメイア兵です。面倒は避けたい」
アルは彼らに捕まったこと、奴隷にされたこと、馬の強制徴収のことなどを話した。
「やつらは相手を見て命令を実行する。それにマーグノール野平原での戦いのあとは少し落ち着いている」
「本当ですか?」
「先生が言っていたよ。それに今回の依頼を受けた時にも、別の仲介者からそう聞いたぞ」
「……でも、無用な面倒は避けたほうが無難でしょう?」
「わかった、そうしよう」
結局二人は幸先の悪さを感じながら大きく遠回りをして、スメイア兵との距離をうかがうことにした。アルは自分の過度な心配について弁明をしようとしたが話す機会を見いだせず、一方ジーンも薄々感づいていたがそれに触れることなくただ仕事に集中するのだった。




