螺旋に落ちる(9)
アルとヨシュアは集落に集まる兵士と奴隷たちが集められているところから少し離れた場所で様子をうかがっていた。ゴードンは到着する少し前に自分の荷物をアルからつかみ取ると、別の顔見知りのところへと行ってしまった。セラーヴ鉱山からマーグノール野平原までは通常ならば四、五日といった距離だった。マーグノール野平原はスメイアとベルメランクの国境にまたがって大きく広がっており、現時点ではどの地点で戦争が行われるのか誰もわからなかった。わからないことばかりに意識を覆われた集団が国家の思惑によって戦場へ足を運ばされているのだった。
「何人くらいいるんですか?」
「細かくはわからねえけど七、八百人だろうって言ってたな」
「他の地域からも兵が集まってくるんですよね?」
「もちろん。全部で四、五千くらいじゃないかな」
「相手がどれだけの兵で来るのかわからないんですよね?」
「……ああ、そうだ。前の戦争のときはそのくらいだったんだから今度も同じくらいだろう。兵士だって忙しいんだ。それだけいれば充分だろうさ」
人の流れに乗っていた一人の背の高い曹長が二人を見咎めた。
「おまえら、何を突っ立ってるんだ。さっさと来い!」
二人はその男に背中を小突かれながら集団に加わっていった。集落の外の兵営でアルとヨシュアは分かれさせられることになった。
「そいつは俺の弟分で……」
「うるさい、そんなことはどうでもいい! 兵士はこっち、奴隷はあっちだ!」
曹長がヨシュアの頭にげんこつを落とした。ヨシュアは頭を押さえながらアルに駆け寄ろうとしたが首根っこをつかまれるともう一発げんこつを食らわされた。ヨシュアは叫んだ。
「すまねえ、ここまでだ。生き残れよ! がんばれよ!」
アルも近くにいた兵士に腕をつかまれると奴隷たちの流れに飲み込まれた。奴隷たちは使い古しで穴の空いた鎧や刃の欠けた剣、槍を支給された。山と積まれたぼろの装備の中から比較的マシなものを我先にと争って選んでいる様子は虫の死骸にたかるアリさながらだった。取っ組み合いが起こり前歯のない老人が三十歳くらいの男と盾を取り合っている。老人は盾にしがみついていたが男にその手と顔を何度も殴られて剥がされると突き飛ばされた。老人はアルの目の前に倒れ込んだ。アルが老人に手を貸して立たそうとすると老人は自分を殴った男の方を血走った目で睨みつけた。
「このうすのろ馬鹿のクソガキが!」
散々に喚き散らしながら老人は立ち上がるとアルの手を振り払って再び装備の山へと向かって行った。他の者たちはその様子を誰も気にかけようとはしなかった。人だかりがはけて残ったものは曲がって身につけられない鎧、手でちぎれてしまうような革の鎧、そして折れた剣の類だった。装備を得られなかった奴隷たちは兵士に詰め寄って文句を言っていた。そこでも小競り合いが起こっていた。
アルはその様子にうんざりすると何も持たずに他の奴隷たちとともに戦場への行軍に加わった。集落を抜けた先にある平原はのどかなものだった。赤と白に彩られた兵士たちが自らの勇猛さを誇示しようと胸を張るのとは対称的に、黒と茶色に薄汚れた衣服に身体に合わない鎧を着込んで地面を見つめながら鈍重な足取りで列を進む奴隷たちの様子はすでに負け戦から生き残って帰路につく者たちのようだった。そんな亡霊さながらの連中が通った跡には白い花弁のデイジーや黄色く開くオトギリソウ、淡いピンクのソープワートの花々が踏み潰されていた。アルは潰された花々を見ながら歩いて行くひどく虚しい自分を呪った。
初日、二日目までは草原ののどかさと太陽の朗らかさに明るい声も聞こえていたが、三日目ともなると口数が減り始め四日目には不平不満を声高に叫ぶものが出始めた。そのおかげで小競り合いが散発した。兵士も奴隷も別け隔てなく鼻血まみれの顔でアザを作っていた。一週間も過ぎると暴れる者はおろかしゃべる者もいなくなっていた。ようやくマーグノール野平原に入ると前方から進軍を止めるように指示があったが間に合わず奴隷たちは前の人間に次々にぶつかっていった。アルはスメイア軍が膨れ上がっているのに気づいた。紅白に太陽と獅子をあしらった軍旗がはためき、平原に張られたテントは牧場の積み藁を思わせた。あちこちから焚き火の白い煙が空に向かって筋を引いている。ベルメランク軍の姿はなく戦争の臭いは感じられなかった。何の命令もなく立たされていたが、三十分もするとその場に座り込むものが出始めた。それからさらに三十分ほどで全部隊にテント設営の命令が下った。アルたちも協力したが奴隷たちにテントが支給されるはずもなく、寝床は天然の草の上だった。しかしシバやチモシーなどが覆う緑色の大地は柔らかく、またそれらの草が太陽の温もりをその身にたたえており寝転がって眠るものが多くいた。兵士らも同じようにしており、鎧と靴を脱いで足を投げ出して頭の後ろに手を組んで枕にしながら空の雲の流れを見ながらくつろいでいた。戦争の緊張感はなく、誰もが歩き疲れた身体を休めるのに夢中だったので咎めるものもなかった。アルは近くにいた傭兵だという男に訊ねた。
「ベルメランク軍はこちらに向かっているんですか?」
「斥候を出してるはずだ。動きがあればわかるだろう」
「あの先には何があるんですか?」
アルは指さした。マーグノール野平原は平原と言ってもコブのような丘が見え、林がポツポツと動物の群れのように佇んでいる。
「ずっと似たような風景が続くよ。一回濡れて乾いた革みたいな感じのごわついた平原だよ。この辺は麦畑、ホップ畑なんだ。麦は刈り取りが終わったはずだ。だから戦争をやるんだろう。ずっと先には有名なセアの大門がある」
「なぜここで戦争なんですか?」
「そりゃ西のエンベ砦でエスタローグとまともにやりあうのは嫌だろうよ。スメイアもこっち側に新しい砦を作っているが間に合ってないな」
「新しい砦を作ってるんですか?」
「ミドイラとかいったな。ベルメランクから見たらどう考えても東側が手薄だからな。こっち側からレヴィアまでにあるのはせいぜいシラトラスぐらいだ」
「つまりベルメランクは本気でスメイアを落とす気だということですか?」
「さあどうだろう、皇帝の考えまではわからねえな。スメイアとベルメランクは小競り合いを繰り返しているから今回もそんな気もするぜ。いずれにせよ俺たちは仕事があってうれしいがね。あんたも死なねえこった」
傭兵が去るとアルはバケツをもって小川へ水を汲みに出かけた。小川では男たちが水を飲んだり水遊びをしていたり、足を浸して涼んでいたりと街の市場の喧騒を思わせていた。アルは顔を洗って水を汲むと奴隷たちの集まる区域に戻った。奴隷たちは適当なグループに分けられまとめ置かれた。周囲にはスメイア兵の他に傭兵や農民や漁師、鉱夫などもいた。彼ら義勇兵の装備は剣や槍よりもピッチフォークやシャベル、こん棒といったものを持つものの方が大半だった。
夜に向けて焚き火の準備をしていると黄麻布の袋を担いだ者たちが焚き火を巡り始め、オートミールを配り始めた。アルもその仕事を命じられテントや焚き火を巡った。そこで得た情報によるとスメイア軍は兵士三千、義勇兵二千、奴隷一千の合計六千人ほどだという。予想よりも人員が多く食料が不足気味らしいとのことだった。一人に対して一つかみもないほどのオートミールを火にかけて粥状にした。それを口にした一人の兵士は「味がしねえ」と唾棄した。
アルはイラクサやラムソンをうまく見つけ出してかさ増しに粥の中へ入れて食べた。食事が終わると多くの人間が眠る中、アルは一人立ち平原の向こうを見つめていた。その目を闇が真黒く染め天空を埋め尽くす星々が煌めいている。風がそよぐわけでもなく鳥が鳴くわけでもない。気付けばアルも丸くなって眠っていた。夢の中でも星の海の煌めきの中にいた。紺碧の海が泡の白い縞模様を形作っている。それはヘビのように波にうねり神の雲のようにたゆたっている。遠くに太鼓の叩くようなあるいは雷鳴の弾けるような音が轟く。空がやがて赤く白く燃えていく。それは暖かく深く妖しかった。
アルが目覚めるとそこは戦場だった。宵闇の残り香が辺りにはびこるマーグノール野平原の地平線にベルメランクの影が差していた。スメイア軍の兵営には怒号が飛んでいた。火の残る焚き火には土がかけられ、慌てて鎧を着る者たち、武器を配る者たちが右往左往していた。それでも兵士たちは次々と配置につき陣形が整えられていく。スメイア軍は槍兵、弓兵、騎兵にそれぞれ千人ずつ分けている。槍兵を百人ずつの小隊に分け五小隊を二列に配置し、その後方に百人小隊の弓兵が横にずらりと並んだ。槍兵の両翼を義勇兵、傭兵、奴隷が埋め、最翼端に四百ずつの騎兵が配置された。弓兵の後方に指揮官であるディーク大佐が百の騎兵と共に陣取っていた。アルは展開された陣形の左翼側に配置されていた。装備もなく空手だったアルを見た義勇兵の一人が兵士に話をして余った槍と鎧をもらってくれ、鉄の兜を頭に被せてくれた。
「いいか、盾はしっかりと構えろよ」
義勇兵の男がアルに落ちていた盾を押し付けた。赤い鷲鼻から鼻息が荒い面長のその傭兵は自分の持つ盾をげんこつで激しく叩いている。
「戦争のコツを教えてやる。上手く逃げろ。でなけりゃ戦ってるフリをするんだ。大声を出して勇ましくしているフリをするんだ。死んだら金が入らねえ。それはあちらさんも同じなんだ。だからそういう『ちゃんとわかってるやつ』を見つけて戦っているフリをするのが一番だ」
「そんなに上手くいきますか?」
「俺はそうしてきた」
「でも戦争って死人がかなり出ますよね。そういう人たちは?」
義勇兵は肩をすくめてへらへらと笑った。
「そいつは運がねえ。運のあるなしは神様の決めたことだ。どうしようもねえな」
アルが何も答えられずにいると、周囲で足踏みと雄叫びが上がり義勇兵もそれにつられて叫びだした。太鼓の音が響く。ざわめきが起こる。進軍が開始された。太陽が東の空に昇り始めると平原の向こうの影は少しずつその姿を現した。中央から白と黒に分けられた軍旗には炎を吐くドラゴンが描かれている。そのはためくヒダに織り込まれた金糸が陽の光に照らされて朝もやをさしている。ベルメランク軍はほとんどが騎兵だった。漆黒の肌着の上に白銀に輝くグント鋼の鎧を着こみ、長さ二メートルの円すい形をした槍を真っ直ぐ天に突き立てている。馬の闊歩が巻き上げる土煙をかき分けて進む姿は力強さと余裕に満ちている。ベルメランク軍は二千の騎兵だった。スメイア軍とベルメランク軍は一キロメートルほどを隔てて正対した。スメイア軍はベルメランク軍の少なさに気づきざわめいた。
「なめてんのか」
「これはもらったな、いけるぞ」
そうした声があちこちで聞こえ始めた。そうした声を鼓舞するように太鼓が激しく鳴らされた。スメイア軍は得物を突き上げて地鳴りのような掛け声を上げた。指揮官のディークは眉間に皺を深く刻んで周囲の兵たちに檄を飛ばした。
「スメイアの力を示せ! ベルメランクに目にもの見せてくれようぞ!」
スメイア兵たちは胸を叩き、盾を叩き、地面を踏み鳴らした。奮い立つ士気が広がりスメイア軍は波打った。整然と並ぶスメイア軍に比べてベルメランク騎兵らは馬を自由に任せていた。落ち着いた様子でスメイア軍の唸り声を眺めていた。
「なんだ、祭りか?」
どこかのとある兵の一人の軽口に笑いが起こりもした。そんななか集団のほぼ中央に陣取っていた兜に深紅の毛を揺らす指揮官が右手を上げると、ベルメランク軍が即座に反応しツリー状に陣を組んだ。指揮官の右手が前方へ倒されると角笛のしびれるような音が鳴らされた。騎兵の槍がスメイア軍へ向けて倒されると馬がいななき一斉に走りだした。
「弓隊、準備!」
「充分に引きつけよ。矢の雨を振らせてやれ!」
ディーク大佐の命令に各小隊が次々と反応する。矢が天に向かって突き出され弓が引き絞られると、前方の歩兵たちは体勢を低く互いに身を寄せあって盾を構えるとその隙間から槍を突き出した。ベルメランク軍はそのまま突っ込むかと思われたがスメイア軍を目の前に急激に方向を左に変えた。その動きに慌てたのかスメイア軍から散発的に矢が放たれた。ベルメランク軍の騎兵隊の後方から機械的うなりが上がり空気を叩いた。馬に引かれた投石機から岩石の弾が放物線を描きスメイア軍を直撃した。スメイア兵は構えた盾ごと後ろに倒れこんだ。
スメイア軍の右翼に構えていた歩兵部隊と騎兵隊に号令がかかった。自分たちに向かってくるベルメランク兵を撃退すべく槍を構えて突撃した。大外からベルメランク軍を包囲しようとスメイア騎兵は駆け出した。ちょうどそこへ投石機から火樽と油樽が発射された。黒い油が辺りに撒き散らされ、炎が燃え上がる。炎に焼かれた兵士たちの絶叫がこだました。ベルメランク軍はスメイア騎兵と義勇兵、奴隷兵の間を狙って突っ込んだ。スメイア軍の矢の雨が降る中一点突破は成功した。奴隷たちでは馬の勢いを止めることはできなかった。ベルメランクの背後を取る動きを察知したディーク大佐はスメイア軍左翼側の兵に右翼側への展開を指示した。
反対側に向かっていったベルメランク軍と投石機による攻撃を見た左翼側の奴隷たちは怯み陣形を乱していた。左翼の騎兵が後ろに回り込んでくるベルメランク兵へと向かっていくと混乱に乗じて逃げそうと決めていた奴隷たちも好機と見て逃げ出していった。アルは部隊の中ほどにいたため押されるようにして右翼側へと走る。全軍の意識が右翼側へ向いたとき激しく太鼓が鳴らされた。正面にベルメランクの第二陣が現れた。騎兵、歩兵それぞれ千。その軍勢はスメイア軍の左翼側に走りだした。スメイア軍の前方にいた歩兵がそれを迎え撃った。投石機による攻撃に加えて馬車に火をつけたものが何台も突っ込んできた。ダニー・ファラー曹長はちょうどその歩兵小隊を指揮していた。
「下がるな、前進するぞ!」
ファラーの指示に小隊はひと固まりとなって駆け出した。槍の塊がベルメランク歩兵を襲った。
「人じゃない! 魔物だ!」
そこに現れたのは、ゴブリンとオークだった。血に飢えた魔物たちはスメイアの槍に貫かれた仲間を踏み台にして人間たちへ飛びかかってきた。スメイア歩兵はゴブリンを盾で受け止めると、その盾で挟み飲み込んで押しつぶし剣で仕留めていった。
「行けるぞ! 進め!」
スメイア兵の誰かが言った。身を寄せあい鉄壁となったスメイア軍はベルメランク軍を押しとどめるのに成功した。あるゴブリンが飛び込んできたときファラー曹長はやはり同じようにその濃緑色の魔物を受け止めると盾の隙間から剣で貫こうとした。しかし次々とゴブリンが飛び込んできた――いや、飛び込んできたというよりも上から投げつけられてきた。体長二メートル五十センチほどのオークがゴブリンをつかんでは投げつけていた。ゴブリンの雨を支えきれずにスメイア歩兵がよろめいた瞬間、巨大な黒い影が落ちてきた。盾の隙間から上を覗いていたダニー・ファラーは驚愕した。真っ黒いこん棒を振り上げたオークがスメイアの盾に飛び込んできた。そのこん棒はゴブリンごとスメイア兵を叩き潰した。ゴブリンの断末魔と赤黒い血と兵士のうめきがかき混ぜられた。オークはさらにこん棒を振り回して兵士たちをふっ飛ばした。スメイア兵の一団がオークの脇腹に槍を突き刺した。オークは怒りに打ち震えて槍つかむとスメイア兵を持ち上げて別の一団目がけて投げ飛ばした。ファラーはオークの背後から剣を突き刺した。スメイア兵が彼に続く。剣を突き刺してはすぐさま離脱していった。運悪く振り返ったオークの振り回したこん棒に直撃されたスメイア兵は顎を粉砕されて絶命したが、七本の剣がその背中に深く突き刺さるとようやく巨体が地に伏した。
アルは未だベルメランク兵や魔物と戦うまでに至らず、奴隷兵の集団の中に揉みくちゃにされていた。開戦して恐れおののいた奴隷の一部が逃げ出したが、逃げ出した半数以上がスメイア騎兵の槍によって殺された。それを見た奴隷兵はさらに混乱と恐慌状態に陥っていた。アルは背中を押されて蹴られて突き飛ばされた。そこへ矢と岩石と火樽が降ってきた。奴隷たちは怒鳴り合い、つかみ合いをしていた。引き倒されて踏みつけられて気を失うものもいた。そして気付けば最前線へと出されておりベルメランク騎兵の小隊が目の前にいた。
「押すな! 押すんじゃねえ、馬鹿野郎!」
最も最前線にいた短躯で吊り目がちの奴隷は自分を盾にしている後ろの連中を罵倒した。ベルメランク兵の槍がその男を貫いて宙に飛ばした。その体が地面に着くまでに奴隷兵の一団は壊滅した。
ベラ・オルコット曹長の声はすでに枯れていた。自らも弓を手にベルメランク軍へ矢を放ち続けていた。弦を引く手は血に滲み矢が放たれるたびに弾けるような痛みが走ったがそれを構う暇はなかった。放った矢のほとんどは大地に刺さり、ベルメランク兵に当たっても鋼の鎧に弾かれた。オークの脂肪に覆われた巨体には刺さりはしたものの致命傷にはならない。ベルメランクの騎兵に翻弄されるスメイア軍を見て焦燥感と腹立たしさを募らせたオルコットはしゃがれた声で周囲に号令を飛ばした。
「剣を取れ! 槍を持て!」
腰の剣を抜いて天に高々と掲げると、乱戦となっている地点へと加勢に走る。揉み合いとなっている後ろから剣を突き刺す。そうしてゴブリンを五匹始末した。その勢いに乗ってさらに五匹殺した。
「数で優っている、このまま押し返すぞ!」
突き上げた剣から赤い血しぶきが飛び散ると岩の弾丸がオルコットの胴体に直撃した。衝撃は鎧を突き抜けてオルコットの体を吹き飛ばした。彼女は手をつき体を起こすと血反吐を吐いた。顔を上げると平たい顔に茶褐色の大きなアザを持つゴブリンと目が合った。尖った耳が天を刺してピクピクと振れている。走り来る凶気にオルコットは声を失った。こん棒がゴブリンの下手から振り上げられ、女曹長は仰向けに飛ばされた。ぼやけた視界の先にゴブリンの嫌らしい顔が大きく迫った。オルコットをまたいでゴブリンは両手でこん棒を振り上げた。オルコットが目を強く閉じて縮こまる。胸の上に固い物が落ちる。オルコットが目を開けるとゴブリンと目が合った。ゴブリンの体がオルコットに倒れ覆いかぶさってきた。オルコットはゴブリンの血の海にまみれた。
ベルメランク軍は距離をはかって突撃と離脱を繰り返していた。スメイア軍はその練度の高い波状攻撃に翻弄されていた。アルが人混みから逃れ自由になったのはベルメランク騎兵の小隊が三度目の突撃体勢に入ったときだった。騎兵の槍がアルを襲う。アルは一人目の突きを盾でいなすと剣を振るおうとしたが届かない。二人目を横に飛び込んでかわした。三人目の槍が盾を打つとアルは足がもつれて倒れた。剣も盾も投げ捨てると落ちていた槍を手にした。それら騎兵に続いてゴブリンとオークが左側から急襲した。アルは驚いて振り向く。奴隷の一人がアルの服を引っ張った。
「頼む、助けてくれよ!」
恐怖、涙、涎、土が奴隷の顔を歪めている。ゴブリンが飛びかかる。アルは奴隷をつかむと引き倒すように飛び退いた。丸腰のアルにベルメランク兵が剣を振り下ろした。空を切る剣、巻き上がる土煙、獣の狂騒。アルは地面に突き刺さっていた矢を手に取るとベルメランク兵に飛びかかった。ベルメランク兵は
剣をなぎ払おうとしたが、アルが一瞬早く矢を左目に突き刺した。ゴブリンがアルに飛びついて牙を立てる。爪を突き立て肩口にがっちりと食い込む牙に、アルは引き剥がそうとした。アルの肉を食いちぎろうとゴブリンは首を左右に振る。アルは激痛に叫ぶ。そしてゴブリンを抱えたまま走りだすと地面に魔物ごと飛び込んだ。濃緑色の頭を鷲づかんで固定すると落ちていた大きな岩石を手に叩きつけた。アルは歯を食いしばり一心不乱に何度も叩きつけた。兵士の一人がアルの肩に手を置いた。ゴブリンの頭蓋骨は砕け脳が飛び出し、血糊と脳漿がアルの手に糸を引いた。兵士はアルから死んだゴブリンの牙を引き剥がすと手を貸した。
「まだだ、まだ来るぞ! 戦え!」
アルが礼を言おうとした矢先に兵士は怒鳴った。それから仲間の兵士の死体に刺さる剣を引き抜くとアルに押し付けて次の相手に向かって行ってしまった。アルも袖口で顔についた血と汗を拭うとさらに襲い来る敵軍に向かった。スメイア兵の一団がオークを囲んでいた。魔物におぶさるように兵士がしがみついていた。絡みつく人間を振り払おうとオークは身をよじって暴れている。兵士の剣がオークのアキレス腱を捉えた。オークはもんどり打って倒れた。周りにいたスメイア兵が一気にオークに飛びかかり剣で突き殺した。
アルはベルメランク兵一人とゴブリン三匹を殺した。剣のひと振りごとに得も言われぬ疲労感を受け、肩で息をし膝に手をつくが、すぐさま別の敵が襲ってくる。馬を降りて斬りかかってきたベルメランク兵とアルは鍔迫り合いになった。ベルメランク兵はアルを押しのけると前蹴りを放った。アルは近くで剣の打ち合いをしていた奴隷の男に肩がぶつかると弾き飛ばされた。倒れそうになるのをこらえ足を前に出すが、ベルメランク兵の追撃が一歩早い。切っ先がアルの真正面に迫る。ベルメランク兵の突きはアルの顔の横を通り過ぎた。アルは膝が落ちていた。ベルメランク兵は素早く剣を引いて二撃目の体勢に入る。アルはとっさに土をつかむと兵士の顔に投げつけた。兵士の目に土が入り顔を手で覆った隙にアルは逃げ出した。足も肩も重く、魔女の沼地を思い出した。鎧を脱ぎ捨てたかった。隠れるような場所を探したが岩陰のようなものはやはりなかった。平原の緑に油の燃える黒い煙が昇る。落ちていた腕を踏んづけた。血だまりを駆け抜けた。誰もが己を奮い立たせようと吠えたて剣を槍を振るった。アルは依然として戦場のまっただ中だった。奴隷たちとスメイア兵が混じった集団の中に取り込まれていた。彼らには誰に指示されたのでもなく、急造ながら何とかまとまって戦おうという意思があった。味方とも敵とも上手く間合いをはかっていた。スメイア、ベルメランク兵ら共に訓練を受けた者たちでも難しいことにも関わらず、なぜそれができていたのかは誰もわからなかった。アルは腕を引っ張られて集団に加わった。手を引いたのはマーグノール野平原に来たときに会話をした傭兵だった。傭兵もアルもお互い誰なのか認識することはなかった。アルはその中で言われるままに動いた。前後の人間が入れ替わり立ち替わりしながら魔物と軍兵を倒していった。個々の兵士の力はベルメランクが圧倒していたが、そのスメイアの一団は数敵優位に基づく連携によって互角以上に渡り合っていた。一団は当初のスメイア軍右翼側へ向かっていた。このとき、四十数名の集団となっていた。
あるベルメランク騎兵隊が本隊から離れたところで戦況を見つめている。第一陣としてスメイア軍右翼を混乱に陥れた者たち――先陣を切った部隊だった。七人の先頭に立っていた指揮官がアルたちの一団を指さした。
「あの辺りに違和感を感じないか?」
他の騎兵たちは互いに顔を見合わせたが誰も言葉を発しなかった。
「見てみろ」
ベルメランク騎兵がアルたちのところへ突っ込んでいった。二、三頭の馬がひっくり返った。騎兵隊はアルたちを駆け抜けていくと別のスメイア小隊へと突っ込んでいってから戻り仕切り直しを図った。
「別段変わったところは見えません」
騎兵の一人が指揮官に話すが指揮官はじっとアルたちを見つめていた。今度はオークが五匹とゴブリン二十匹の集団がアルたちの一団とぶつかった。魔物たちはものの数分ほどで飲み込まれた。
「数で負けているようです」
また別の騎兵が言った。火樽がきりもみしながらアルたちを襲った。地面を焼く中でスメイア兵一人が火だるまになった。指揮官が振り返ると兜の赤毛が弧を描く。
「それだけではない」
指揮官は馬を一歩前に出した。
「私の指示通りに動け。あそこを潰すぞ」
手綱を振ると馬が走りだす。アルたちはまた魔物たちと戦っていた。ベルメランクの指揮官はアルたちから十数メートルの位置で右手を挙げると手綱を緩めた。さらに手綱を引いて右手に方向転換した。目の前にいたゴブリンを槍で薙ぎ払った。指揮官は距離を取ってアルたちの周りを回り始めた。後ろを続く騎兵も邪魔な魔物を蹴散らした。傭兵はすぐにその動きを察知した。アルたちの一団は上手く散開して魔物を撃退していた。ベルメランク騎兵を認めるとさらに全体の距離を広げて飲み込もうとした。即座にベルメランク指揮官は手綱を振り拍車をかける。騎兵の巡る動きに合わせてアルたちは槍を構えた。踊るようになめらかに矛先は常に騎兵に向けられた。五十メートルほど離れていた別のベルメランクの小隊十名が加わって何度か同じ動きが繰り返されると、アルたちは人員を集結せざるを得なくなった。最初の七名と別の十名とは反対回りにアルたちを囲み始めた。
「このままじゃやられる! どうすんだよ!」
誰かの声に反応した奴隷は包囲を突破すべく騎兵のタイミングを見て飛び出した。槍で牽制しながら隙間に向かって走る。集団が長くなったところを側面から指揮官が猛然と突っ込んできた。手にしていた槍を力の限り投げつける。スメイア兵がそれを受け止めたところを馬がのしかかった。ベルメランク軍によって一団は半分に分断された。
「走れ、止まるな!」
包囲を突破した者たちは立ち止まっていたが、すぐさま走りだしその場を離れた。ベルメランク騎兵たちは逃げ出した者たちには目もくれずに残った一団の周りを取り囲んだ。アルは後方に取り残されていた。ほぼ同数となったスメイアの一団はじりじりと追い詰められていく。傭兵がつぶやいた。
「これはまずいな……」
すぐ前にいたアルがにわかに振り返った。アルは傭兵と一瞬目が合うと唾を飲み込んだ。じれる気持ちを押さえ皆が槍や剣を構えている。半数となった今、三百六十度、騎兵の輪舞曲が繰り広げられていた。それは死の渦のようだった。アルたちは身動きができないくらい固まり身を寄せあっていた。突然その輪がほどけると騎兵たちは離脱していった。ベルメランク指揮官の右手が振られた。スメイアの一団は何が起こったのか理解できずに固まって武器を構えたままだった。スメイア兵の顔を黒い液体が筋を作る。一団のすぐそばで油樽が弾けた。火と岩石の雨が襲った。アルの耳元で誰かが叫んだ。アルは空と、次に大地を見た。飛来するこぶし大の岩がアルのこめかみを直撃し、さらに次々と奴隷や兵士が飛んできた。折り重なるように一団が山となった下で、アルは耳鳴りの響く遠くに大地を打つ岩の鈍い音と戦いの雄叫びを聞いた。




