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詩情歴程 湿地(3)

「昨日はどっちに行ったんだい?」

「あっちです」

 オータスは南東の方角を指差すと、「今日は西へと行くように」と指示された。さらに籠をもうひとつ渡される。

「今日はこれを頼むよ」

 魔女はカエルの干物とイチイの葉とフェンネルを手渡した。オータスはカエルをつまみ上げて嫌悪の表情を見せた。

「これは何ですか?」

「何ってスズガエルだよ。毒があるから気をつけてね。西に沼地があって赤い布を結んだアシのところに仕掛けがある。それを漁ってきな。籠のフタを忘れるんじゃないよ。それと根っこを掘るシャベルは納屋にあるからね」


 オータスは辟易としたが筋肉痛に軋む体を西へ運んだ。先に植物採集を済ませることにし昼ごろまでにはその仕事を終えた。休憩の後カエルを捕獲すべく一面浅い泥沼の風景を前にオータスは足を踏み出す。くるぶしまで沈む足を一歩々々抜いては差し、抜いては差した。


「ずいぶん立派なカエルだな、クソッ」


 予想したよりも大きく丸いカエルは籠に入れられるとすぐに逃げようと飛び出した。ひっくり返った腹には赤いまだら模様が踊っている。オータスは何度となく逃げられては捕まえるのに泥の中を奔走することとなった。泥遊びのような状態になって全身を茶色く染め上げて二十を超える仕掛けをさらった後、遠くにドゥイングールの姿が見えた。オータスは驚いて息を止めては小走りに沼地を後にした。魔女の家に戻ると今度は取ってきたものの分別を手伝わされた。一日の労働の後には昨日と同じ魔女のスープを出された。翌日はアルが起きてきて自分も手伝うと言った。


「病み上がりなんだから無理しないほうがいいぞ」

「いえ、手伝わせてください。少し体を動かしたいんです」


 その日はまたキノコ取りを命じられたので二人で木の根本に這いつくばった。

「助けてもらってありがとうございました」

「当然のことだ、礼なぞいらないさ」

「いえ、僕が雇われている側なのに。それにこんな仕事までさせてしまって……」

「たまには体を動かすのもいいものだよ。まあ実際は山遊び、泥遊びの類だがね」


 今度は半日で籠二杯を満載して戻る。それからアルは採集物の仕分け、オータスは薪割りを魔女に仰せつかった。


「ちゃんと仕分けできてるじゃないか。どこかで習ったのか?」

 イスペスはアルに声をかける。

「こういうのが生業ですから」

「傭兵じゃないのか?」

「色々やってますよ」


「これは何に使うか知ってるかい?」

 イスペスはつぼみから黄色い花が少しのぞくフェンネルの香りを嗅いだ。

「葉や種は料理に使ったりって聞きます」

「そうだね。腹を壊したりしたら飲むといい。焼いて魔術の儀式にも使う。こっちのニワトコは?」

「蒸して薬にしますね」


 魔女は頷いて手にした細枝をくるくると手の中で弄んだ。


「根も葉も茎も花も全部使える。お茶にしたり、すり潰して傷に貼ったりね。コンフリーは?」

「知ってますよ。葉っぱを煮だして飲んだりします」

「飲み過ぎると毒だから注意しな。ということは毒としてちゃんと使えるってことだよ。ドクニンジンやトリカブトの方が使えるけどね」

 イスペスはうれしそうな笑いを見せた。


「これはどうだい?」

 アルはカシスの実を手に乗せられた。

「これにも……特別な効能が? 魔術ですか?」

「ジャムにするんだよ。酸っぱくてね。魔法がかかってるよ」

「一体どんな?」

「この味に夢中でね。食べ過ぎちまうのさ」

 イスペスはカシスをそのまま口に放り込んだ。口に広がる酸味に顔をくしゃっとしかめた。


「どうしてこんなところに住んでいるんですか?」

「材料が簡単に手に入るからね、これ以上の環境はないさ。人よりも動物が多いしその方が煩わしくないね。そんなことよりこっちのキノコも頼むよ」


 その日の夜になると、アルは高熱を出して寝こむはめになった。


「病み上がりで無理をするからだ。しっかり休んで体を戻してくれ」


 オータスはアルに薬を渡した。アルは重い体を起こして礼を言った。次の日の朝アルの熱は下がったが、夜になるとさらなる高熱に悩まされた。


「……こんなに熱が続くのはおかしいね」


 魔女がアルの上着をめくるとそこには黒い波の文様がうねっていた。オータスは思わず声を上げてしまった。イスペスは顎に手をやって思案しながら立ち上がってうろうろとし始めた。何種類かの薬や香油をアルの体に塗ってみたが何の反応も見られなかった。彼女は書棚から本を数冊取り出して開きだした。


「何かわかりましたか?」

「邪魔だからあんたはさっさと寝な。明日も仕事をしてもらうんだから」

 イスペスはオータスに目もくれずに言い放つ。詩人はその言葉に従う以外になかった。


「熊を獲ってきておくれ」

 オータスは早朝からの薬草積みから戻るといきなりそう言われた。思わず聞き返す。

「熊だよ。あの子を治すのに必要なんだ」

「冗談だろう? 無理だ、熊なんて」

「じゃああいつはあのままでいいんだね?」


 オータスが途方に暮れているとアルが装備を身につけながら出てきた。


「僕も行きます」

「馬鹿な! 君は休んでいろ」

「自分のためです」

「熊を狩ったことはあるのかい?」

 イスペスが言った。オータスはもちろんアルも首を振った。

「熊には手を出しません。まともに相手すれば殺されますからね」

「それならば尚の事だ。休んでいたまえ」

「だからこそ、オータスさんだけでは増々無理でしょう?」

「それは、そうだが……」

「トラバサミを貸してやるから納屋を見てみな。錆び付いて使いもんになるかどうか知りゃしないが、ないよりはマシだろう?」


 アルは頷いて納屋に向かいトラバサミを六つ見つけ出した。蜘蛛の巣とサビに覆われており内二つはバネが破損しており使い物にならなかった。熊の出現場所はカエルの沼を超えた先だという。二人はさっそくそこへ向かった。アルは足跡と糞を探したが見つけられず、花が咲いている箇所を探しミツバチを追った。足場の悪い地形を時折ふらつく体を押してアルは懸命に進んだ。


「本当に熊はいるんだろうか?」

「わかりません。でもここに住んでいる人が言うんですからいるんでしょう。何とか餌場がわかれば最高なんですけどね」

「いきなり、ばったりと出くわしたりしないだろうな」

「あり得ますよ。そうしたら刺激しないように逃げてください」

「逃げられるかな?」

 アルは上を向いて息を吐いた。薄明るい曇り空にのぞく青白い顔には隈が色濃い。「運が良ければね」


 二人は結局蜂の巣も見つけられなかったので、ひとまずラズベリーの近くに仕掛けることにした。

「これで大丈夫だろうか?」


 オータスはアルに教えられた通りにトラバサミを仕掛けてみた。アルは拾った木の枝で真ん中の板を押した。トラバサミは音を立てると同時に一瞬で枝を噛みちぎった。その近くに二つ、沼の縁の方に一つ仕掛けると、二人は暗くなる前に沼を超えて戻った。アルはやはり発熱し早々に寝床へ入った。オータスは夕食を食べているときにふと手を止めるとイスペスに提案した。


「熊に毒は効かないのかね?」

「効くには効くだろうけど、効果が出る前にこっちがやられるだろうよ」

「それもそうか……ところで、ここらで蜂蜜は採れるのか?」

「たまに見るよ」

「どの辺りを探せばいいのか教えてくれないか?」


 翌日アルが起きたとき、オータスの姿はなかった。イスペスもに聞いても見ていないと言う。一人で仕掛けを見に出たと思いアルはすぐさま飛び出していったが、いずれの場所にも熊はもちろんオータスの姿も見えなかった。アルが魔女の家に戻るとオータスがイスペスに薬草をすりつぶしたものを塗られていた。


「一体どうしたんです、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。これを」


 オータスは編み籠をアルへ渡した。中にはまだミツバチが多く群がる蜂の巣が入っていた。


「これを探しに行っていたんですか?」

「ああ、何とか見つかって良かったよ」

 オータスは陽が空を茜色に染める前に出発して蜂探しをしていたという。


「これを餌に熊をおびき寄せられれば良いのだが」

「ええ。それにしても酷くやられましたね」


 腫れ上がったまぶたや唇と塗りたくられた薬草がその顔を子どもの作った粘土細工にように見せていた。


「これはすごいニオイだ」オータスは顔に付いた薬草をいじりながら言った。


「文句を言うんじゃないよ」


「それじゃあこれは僕が仕掛けてきますよ」


 アルはラズベリーの仕掛けのところに蜂の巣を置いた。翌日に二人が仕掛けを確認しに向かうとトラバサミはそのままにそこに蜂の巣はなかった。ラズベリーは食い荒らされ枝が折れて垂れ下がっていた。アルは足跡を探った。ぬかるみにははっきりと熊の足跡――二十センチほど――が残っている。


「どうだ?」

「かなりのサイズがあります」


 アルは足跡近くの泥に残る毛をつまんだ。剣を抜いて足跡を辿っていくと足跡が消える。アルは剣を抜いて茂みをかき分けて熊の痕跡を探った。十五分ほどでまた熊の足跡を見つけると追跡を再開した。アルはラズベリーの茂みの近くに帰ってきたこと気づいた。そして再び足跡が消えた。アルはオータスに周りを警戒するようにそっと言った。黒い巨大な鉄球のような塊が二人を吹き飛ばした。突然の出来事に二人は吹き飛ばされ、アルは身をひねって受け身を取ると、木に体を打ち付けられたオータスを抱え上げて逃げ出した。こみ上げるすえた胃液を喉の奥に感じながら沼の縁に出たときオータスが叫ぶ。


「自分で走れる! 下ろしてくれ!」

 低木の折れる音が迫る。すでにその上から盛り上がる背中が見えていた。アルは矢を放つと吠える声がした。アルはオータスに家まで戻るように言ったが、オータスはアルの袖を力いっぱいに引いた。


「君もだ!」


 絨毯を広げるように黒い影が伸びる。熊は立ち上がった。体長二メートル、体重三百五十キログラム、六歳のオス。品定めするように漆黒の眼で二人を見下ろしている。二人は泥に滑りながら全速で走りだした。しかし距離を離すことはできない。二人のほぼ半分かそれ以下の歩数で熊は悠々と追いつくことができた。


「どうする?」

「このまま走ってください」


 二人は心臓が破裂しそうになりながら沼の縁を駆け抜け茂みに突っ込んでも走った。アルは急にスピードを緩めると方向を変えて沼に立つ一本の木に登ると木の上で熊を挑発した。熊はアルを追う。木の下に

着いたとき、その前足をトラバサミが襲った。腹に響く野太いうなり声を上げた熊は痛みに暴れ狂い、目の前の木に腕を振り回し罠ごと叩きつけた。古びたトラバサミは衝撃で飴細工のようにはじけ飛ぶ。アルは矢を放つと木から飛び降りてはぐれたオータスを大声で探した。熊は体に刺さった矢とトラバサミによる前足のケガにフラストレーションを募らせて明らかに体毛が逆立っていた。それまでそれほど多くなかった唸り声の回数も増えた。じゃれつくようだった爪の一撃もスピードが上がり殺意が宿り始めていた。


「どうする気だ」


 合流したオータスが膝に両手をつきながらアルに声をかける。


「このまま魔女の家におびき寄せます」

「正気か?」

「早く!」


 アルは剣を抜いて熊の攻撃をいなす。鋼鉄を容易に噛み砕くであろう杭のような二本の牙をむき出してダッシュで迫り来るタックルがアルが最も警戒していたものだった。アルは茂みと木を上手く利用して熊に正対しないように努めた。その陰から突きを放ち熊の鼻面や肩口を傷つけた。

 オータスは叫びながらイスペスの館に飛び込んだ。

「熊が来るぞ!」

 突然の声に驚いたイスペスは持っていた薬液のビンを落とした。

「いきなり何を!」

「熊だ、熊が来る!」

「何だって、ここへ!」


 オータスは唾を飲み込んで頷いた。


「あんたたち、一体何をしてるんだ!」


 イスペスが怒鳴りながら外に出ると、唸る熊が身をよじって立ち上がる姿が見えた。その大きさに言葉を失った。


「何か使えるものは? 何でもいい、早く!」

「馬鹿言ってんじゃないよ、なんでここへ連れてくるんだ!」

「武器はないのか?」


 魔女は不平不満を爆発させて口に出しながらも家の中を漁った。取り出したのは包丁と何かが入った小袋でオータスにそれらを引っつかんでその手に押し込めた。


「これは何だ?」

 オータスは外へ飛び出すイスペスの背中に問う。

「やるんだよ!」

 イスペスは納屋へ飛び込んでピッチフォークを手に出てきた。オータスは小袋をあらためながらアルのもとへ急いだ。


 熊の力まかせの攻撃が続く。アルは汗まみれの顔でそれをかわして剣を振るう。アルはどこか浮ついた心地、自分の体が自分のものでないような感覚に見舞われていた。肉体は泥にまみれて骨の髄を餓鬼につかまれたように重く、一方精神はその肉体を少し上空から俯瞰しどこまでも澄み清らかな眼差しを向けていた。アルはその自己の剥離に口元を緩めていた。相次ぐ空振りと剣に斬られる痛みに消耗していく熊は地鳴りのような声を上げた。アルは魔女の木を背にしていた。いつの間にか熊に追い詰められていた。開け放たれた口に肩を上下させて呼吸し、背中に冷たい汗が滴る。熊の口からは涎が垂れ体から蒸気が上がるのが見える。熊の動きが止まる。三百五十キロの巨体がアルに迫った。アルは木の上に逃れ、熊は木に激突した。吊るされた魔女の飾りが激しく音を立てて鳴り、恐怖したカラスの群れが空へ飛び立った。熊の爪がアルの靴にかかる。強烈なパワーにアルは引きずり降ろされそうになった。カラスに似た叫びが響く。イスペスが熊に突撃した。熊の胴体にフォークが突き刺さるが、分厚い脂肪の壁が立ちはだかり、熊が身をよじると魔女は尻餅をついた。熊が魔女にのしかかろうとしたとき、オータスが小袋を投げつけた。それは熊の顔面に直撃し、灰色の粉末が炸裂した。熊の目と鼻と口、そして傷口に粉末が作用し、熊は身悶えして苦しんだ。オータスは腰を抜かした魔女を抱きかかえて退こうとした。熊と二人の視線が交錯する。涙目の熊が口を開けて怒りの咆哮を放とうとしたとき、熊の視界は突如としてぼやけて滲んだ。その頭頂部から顎に矢が貫通している。二射、三射目がさらに獣の頭を貫いた。魔女の足の上に熊の巨魁が倒れた。魔女は足を引き抜くのを手伝うよう詩人をけしかけ、それを叶えたとき、熊の体が一度だけ大きく上下すると残されたのは黒い肉塊だった。


「……助かりました」


 ナラの木の根本に座り込んでいるアルが息も絶え絶えに言った。


「全く、死ぬところだったよ。こんなところまでおびき寄せてくるなんて」

 イスペスの呆れ顔にアルとオータスは顔を見合わせて力なく笑う以外になかった。

「ここへおびき寄せた狙いは何だったんだ?」

 オータスは熊の顔をのぞいた。


「他にないでしょう? それに、ここなら何か道具があるんじゃないかと思って。それに遠くからこれを運んでくる手間を考えて、それなら自分で来てもらったほうがいいと思ったんです」


「なるほど。そういえばあの小袋の中身は何だったんだ?」

「単なる塩と灰だよ」

「……まあ結果、狩りは成功したというわけだ」

「下手すりゃ全滅だったけどね。さて、さっそくこいつをバラしてもらうよ」


 アルとオータスは納屋から丸太を四本持ちだすと、うつ伏せの熊の体をてこでひっくり返した。短剣を携えたオータスがアルと魔女の指示の下で腑分けを行った。まず血液、心臓、肝臓と胆のうを取り出してイスペスは薬の生成に入った。彼女に残りの臓器をひとつ残らず取り出すように言われたオータスは血と脂にまみれて奮闘した。井戸から水を汲んでは戻りを繰り返し足だけでなく腕すら棒になった。


 上半身を裸にされたアルが寝台に寝かされている。魔術の材料が寝台のすぐ横に並べられていく。ろうそくのオレンジの炎に浮かぶ。アルは熱を出しているものの、疲労によって深い眠りに就いていた。イスペスはアルの体に人肌に温められた香油を落としていく。立ち上るバラの香り。オータスは魔女の背後の椅子に腰掛けて手を組んでその様子を眺めている。魔術書を手に、フクロウと熊の血、胆汁を混ぜて蒸留したものを用いてアルの体全体に魔法陣を描いていく。二重の円に五芒星と六芒星を重ね、光、生命、神を称える詩を記し、太陽と月、火、水、土、風のシンボルで彩る。以前と同様にアルの顔に血を塗ると、魔法陣の中心に熊の心臓を置いた。


 風のそよとも吹かぬ夜、魔女は詠唱を始めた。オータスには理解できない言葉がイスペスの唇から漏れる。一節一節を区切って放たれる乾いて嗄れた声。神の讃歌、宇宙の真理、生命の本質、知の言祝ぎ。オータスの目に映るろうそくの炎は全く揺るぐことはなく、彼は疲労による眠気にぼんやりとしながら魔女の声を聞いていた。十分ほどの詠唱の間アルには何の変化もなかった。本のページをめくる手が止まり、沈黙が発せられた。魔女の唇が動きを止める。詩人は次の動きを待った。オータスは魔女の様子をうかがうが、彼女は微動だにしなかった。アルには変化が見られない。オータスが手をほどいて背筋を伸ばす。乾いた口を開けようとした瞬間、熊の心臓が爆発した。魔女と詩人の顔は血と肉片にまみれた。爆風によってろうそくの灯りが揺れ、詩人の顔に光の波紋が走った。アルの胸の上には放射状に炸裂したどす黒い血の痕跡が広がっている。彼は変わらずに少しだけ胸を上下させて眠っていた。


「……終わったのか?」


 オータスは立ち上がるとイスペスに訊ねた。彼女はオータスに、アルを拭いてやるように言うと後始末を始めた。水桶に浸した布切れを絞ってアルを拭いてやる。黒い痣がだいぶ薄くなっていた。翌日オータスが熊肉の解体をしているとアルがやって来た。血色良い晴れやかな表情からすでにだいぶ回復しているのが見て取れた。


「ずいぶんよくなったようだな」

「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」

 オータスは手にしたナイフを振った。

「手伝いますよ」


 雲間から光の筋が時折地面を照らすなか膨大な肉の量に辟易させられながら作業を進めていった。毛皮は何度も洗って泥と血脂を落として干した。肉は手頃な大きさに切り分けてハーブと大量の塩に漬け込んだ。肉の入った樽が並べられていく。


「あの女は一人でこんなに肉を食うのか?」

「さあ、どうでしょう。魔術の実験にでも使うんじゃないですか?」

「まさか……」

「こんなに食べきれるわけないだろう。あんたら二人に持ってってもらわなきゃこっちも処理に困るよ」


 イスペスは腰に手をやって樽の中身を確かめている。肉の樽詰めが終わるまで二日かかった。


「ごくろうさん、もういいだろう。仕事は終わりだよ」

「もう血なまぐさい作業はこりごりだ」

 オータスは顔を拭いながら言った。


「ようやく手馴れてきたんじゃないですか?」

 オータスはまんざらでもないような表情を見せた。夕食時に魔女は二人に出て行くように言った。


「仕事はもういいんですか?」

「とっくにね。こっちも長居されちゃ困るんだよ。用事が済んだらさっさと出ていきな」

 二人は魔女の言葉に顔を見合わせて笑った。


「ありがとうございました。助かりました」

「そうだ、これも持っていきな」


 イスペスは熊の毛皮をアルに押し付けた。


「いいんですか?」

「私には邪魔なだけだからね、引き取っておくれ」


 馬に荷物を積んでイスペスに礼を言うと、彼女は手を払うように振ってさっさと行くように促した。二人はカエルの沼地を抜けそこから西へ西へと進路を取った。


「さっさと湿地を抜けたいものだ」


 空を映し出す水辺の湿気た風景に詩人は無味乾燥な眼差しを向ける。魔女の家を出てから一度、野盗の集団に出くわした以外は平穏な旅路を進めていた。


「なぜあの魔女は我々を助けたのだろう?」

「さあ、わかりません」


 オータスはアルの顔をじっと眺めた。


「顔になんか付いていますか?」

「いや。君は魔女に気に入られそうな若い男だな、と思っただけだ」


「なんですか、それ」アルは眉をひそめた。「……血を取られたりはしましたが、それ以外は何もありませんでしたよ」

「なに、血を取られた! やはり君の体が目的だったのか?」


「変な想像はやめてください。とにかくこっちは体を治してもらったのでそれだけでいいんです」

「我々を拘束して儀式に用いることも可能だったのでは……」

 そうしてオータスは一人、魔女の正体と目的に考えを及ばせていた。


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