詩情歴程 湿地(2)
翌日になってもアルの容体は大して変わらず青白い顔をしている。雨は止んでいたが空は相変わらず灰色の雲に覆われている。老婆は二人を送り出すときパンを二つ手渡してくれた。言われた通り東に進むと小川とは呼べないような泥の流れを見つけ、そこから南へ進んだ。樫や榛木の森へ分け入っていく。周囲は無音に生物の気配はなくなった。泥の中を行く馬の足音だけが耳に届く。オータスは黄泉の国にでも迷い込んでしまったと思った。両脇から迫るシダの茂みの細道を抜けると、三十メートルほどのナラの巨木が出現した。葉が全くなく枝だけが血管のように広がっている。横に突き出た枝の一本に何本かの細いロープがぶら下がり、見たことのない紋章の入ったメダルや白骨化したカラスの死骸、錆びたナイフやフォークに何も乗っていない燭台が吊るされている。二人はそれに触れないように奥へと進んだ。するとすぐに陰鬱な民家が見える。背を丸めて馬に揺られていたアルは少しだけ顔を上げてそれを見る。オータスは恐る恐る扉をノックした。
「開いているよ」
嗄れた声が二人を招いた。中に入ると青臭い匂い、鼻に刺激のある刺すような匂い、癖になる薬の匂いが入り混じっておりオータスは思わず手で鼻を覆った。長い黒髪の背中を認めると声をかけた。
「お邪魔します。私はオータス・スコープスという者で、近くの民家のお婆さんに紹介されて来たのですが、実は友人が病にかかってしまって力を貸していただきたいのです」
「フクロウが訪ねてくるとはね……」
オータスに構わずにテーブルに向かってかすかにうめきながらイスペスは作業に没頭する。オータスはさらに声をかけるが今度は手を振るわれた。部屋の中にはヘドロのような液体の入った瓶が並び、ハーブ、花、カエルやコウモリ、イモリやトカゲの干物などが雑多に山と積まれている。鳥籠がぶら下がっており、小鳥が首を傾げてはせわしなく動きまわっている。女は皿から何かを指ですくって舐めるとその刺激に顔をしかめた。それをオータスに渡すと舐めてみるように言った。オータスは薬品臭いにおいに顔をしかめると渋々舐めてみた。口蓋上部から脳天に突き抜けるような刺激が走る。
「これは何の薬ですか?」
オータスは涙目になりながら聞いた。
「失敗作だよ」
魔女は隈と皺の寄った顔に笑みを浮かべて小鳥に餌を与えながら答えた。
「ところであんたの友達ってのは?」
オータスは皿をテーブルに返すとアルを連れて来た。アルの顔をのぞいた女は水を手につけると、アルの顔めがけて弾きかけた。水飛沫は蒸発してアルの中から一瞬霧の女の顔が現れた。突然の出来事にオータスは腰を抜かした。アルは両手で自分の首を抑えて苦しみだすと両膝をついた。
「なるほどね」
魔女はテーブルに戻るとチスイコウモリの羽と糞、クロヤモリ、マダラ蜘蛛の干物をすり潰しペパーミント、ウィンターグリーン、クローブ、没薬などのハーブ類を加えた後赤いオイルを添加しよく混ぜあわせた。それを鹿の血で溶くと錫製の器に入れる。イスペスはアルの服を脱がせ木製の寝台に寝るように指示すると、彼の体を見えないくらい細い生糸と銅の虫ピンではりつけていく。為すがままのアルは不安な面持ちで魔女を見た。イスペスは生糸を爪で弾いた。
「動くんじゃないよ」
周りで右往左往しているオータスにイスペスはアルの体を押さえるように言った。イスペスはアルの額、頬、唇に先ほどの薬を塗っていく。鼻につく匂いが漂う。胸に『エオロー シゲル エオー』のルーン文字を描き、それを取り囲むように魔法陣を素早く描く。魔女は香油を取り出すとその臭いを嗅いだ。顔をしかめて首を傾げる。アルの顔の上に手をかざして呪文を唱えだした。香油を手につけてアルの体へ振りかけるとその体が痙攣しだした。魔女は詠唱を速めていく。アルの口から白い霧が出てきて女の顔を形作った。その顔は苦悶と絶叫をしだし、アルの体を覆い尽くした。イスペスの指先から香油がほとばしる。霧の女は逃げ出そうとするが糸に阻まれてしまう。耳をつんざく悲鳴のなか魔女の詠唱が続く。糸に電撃のような衝撃が走ると、白い霧は黒い煙となって消えた。アルの体には煤となった魔女の痕跡が残された。
「終わったんですか?」
オータスは目を丸くしていた。
「ああ、二、三日は動けないだろうがね」
「あの白い霧は?」
「レイスだよ。さっきのは女の怨念が実体化したものだ。霧状になっていたから厄介だったが、その子に取り憑いてくれたからかえって対処しやすくなったよ。どこであんなの拾ってきたんだい?」
「この湿地にあった廃墟で……」
「怨霊化するほどの人間だから注意しなきゃね。基本的に実体を持つのが一般的だけど、霧のだと霊薬でも剣に走らせなきゃ駄目だね」
「一体どんな恨みを?」
「さあ、野盗に陵辱されて子どもをさらわれたとかかね? 人それぞれ恨みの基準ってのは違うもんだから何ともわからないけれどね」
イスペスはアルから糸を外し後片付けを始めた。作った薬を外へ撒いて捨てると、オータスに器を洗うように言った。片付けをしながらオータスはアルを見る。アルは脂汗をかいてぐったりと眠っている。
「さて」イスペスはテーブルに寄りかかって腕組みした。「どうしたもんかね」
オータスは慌てて財布を取り出して謝礼を渡そうとしたが、イスペスはそれを突き返した。
「商人もやってこないこんなとこで誰が金が必要なもんか。それに集落へ行ったとして、私のような女と取引する人間はいないよ。私があんたらに力を貸したのは人手が欲しかったからさ」
「もちろんです、私にできることならば何でも」
イスペスはオータスを納屋へ連れて行くと柳の背負い籠を手渡した。
「とりあえず籠いっぱいのキノコを取っておいで」
オータスはそう言われて森へ放り出された。詩人は葉で手を切り泥に足を取られながら額に汗して懸命に働いてた。夕方になると籠半分のキノコを持って魔女の家に戻った。
「一日森に入ってこれだけかい?」
イスペスは手を腰に当て心の底からのため息を吐き出してあきれたように言った。オータスは疲労困憊で足腰が立たなくなってへたり込んでいた。
「……申し訳ない……まず水を一杯ください……」
「中に入んな。明日もあるからね」
オータスに出された食事は取ってきたキノコとハーブが入った黒いドロドロとしたスープだった。アルに使った薬品とはまた違う種類の独特の臭みがあるスープだった。かなりの空腹だったオータスは思い切ってひとさじ口に運ぶ。ハーブの苦味の先にキノコの旨味が広がったがさらに太陽でもかじってしまったような刺激がほとばしり全身の毛穴を開かせた。空腹に任せて二口目、三口目を口に運ぶと癖になる旨味なのか味覚が麻痺したのかオータスは一気に皿を平らげていた。そしてベッドに横になるとあっという間に次の日になっていた。




