詩情歴程 ヘルック(1)
アルは《瑠璃のリス亭》で夕食を取ることにした。その日は朝一番からの狩りの成果――鴨を四羽、野うさぎが二羽、ポルチーニ茸、アンズタケ、クロラッパタケなどのキノコをたっぷり二籠――を納入した。
「たまには食ってけよ」
店の主人のその言葉に、アルは半年近くそこで食事をしていないことに気がついた。
「そうですね。それじゃあ、手伝いますから今日持ってきた鴨をお願いしますよ」
アルは店の裏に回ると、持ってきた鴨の羽根をむしり表れた薄橙の表面を炙り内蔵を取ると各部位に切り分ける。すでに血抜きを終えていたウサギをさばいていく。皮を剥ぎ、肉を切り分ける。それが済むと、街外れの炭焼小屋へと行く。そこでは女将さんが燻製器でスモークを作っていた。炭とその夜使う分の食材を二人で店へと運んでいく。他にも酒、野菜、パンとチーズを仕入れに使わされた。
「悪いな、アル。すっかり使っちまって」
「いえ、全然構いませんよ」アルは汗を拭った。
「そろそろ中へ入ってくれ」
夕焼けが西の空を染める。酒場はすでに仕事を終えた人たちでにぎわっていたが、いよいよ酒や食事を求める人々がぞくぞくと訪れていた。アルはカウンターに着くと牛乳を飲んだ。チーズと黒パンをかじりながらにぎわいに耳を傾ける。
「久しぶりだな。景気はどうだい、アル?」
隣に座ってきた八百屋のアンソニー爺さんがアルの肩を叩いた。
「何とかやってますよ」
「何を飲んでんだ、ワインを飲め」
鴨のローストとイチジクソース、オニオンスープ、マッシュポテトにピクルスが出された。マッシュポテトと混ぜたりパンに付けたりと、イチジクソースのほのかな甘みと酸味が口に広がる。忙しく動きまわる女将、エールとワインを注ぎ、料理を盛り付けていく店主。ふと後ろの席で酔った客同士で小さないさかいが起こった。暗紫の服に羽飾りの帽子を持った詩人のような男と鍛冶屋の息子と傭兵らしき口元に傷跡があるがっしりとした男の三人が何やら口論を始めた。構わずおしゃべりに興じる者、好奇心から囃し立てる者、なぜか歌いだす者と、場が沸き立つと先の三人はとうとう殴り合いを始めた。犬猫のじゃれあいのようなものだったが、詩人の男の顔面に鍛冶屋の拳が直撃すると、アルの方へ突っ込んできた。
「大丈夫ですか?」
詩人は目をおさえて、大丈夫だ、とろれつ怪しく受け合った。鍛冶屋の息子が彼の腕を取る。詩人は腕を振り払い、勢い余ってアルのコップを床に落とした。別の男が絡んできて、わめき始めたため店主が出て間に割って入った。傭兵のような男もなだれ込み、また別で飲んでいたドワーフのテーブルへよろけて倒れこんだ。怒鳴り声と笑いと歌と手拍子がないまぜになった大騒ぎは女将に一喝され、アルは他の客と一緒にもみ合う男たちを引き剥がして家路に着かせるのだった。
「全く。どうしようもないね、酔っ払いどもは」
「僕も久々にあんなのを見ましたよ」
テーブルを拭きながら女将はため息をつき、アルは後始末を手伝った。
「今日は悪かったな、アル。助かったよ」
「いえ、ごちそうさまでした。また来ます」
「おう、ありがとな」
一歩外に出ると、のどかさと静けさと星の明かりがゆるやかな宵闇を彩る平穏が辺りにあふれていた。耳の奥に酒場の騒ぎの残響を感じながら、アルは家に戻った。
次の日、アルはギルドへ向かった。リナが書類の整理をしている。
「やあ、忙しそうだね」
「あら、アル。そうでもないわ。ちょうど良かった、仕事があるの」
リナはにっこり微笑むと持っていた依頼書をアルへ手渡した。
「……護衛か」
「そう、お馴染みの護衛。それにしてはなかなか良い条件でしょう?」
「書いてないけれど、行き先は?」
「ネイトゥールだそうよ」
リナは窓際のベンチに寝込んでいる男を方を見ながら言った。
「あそこの人が依頼者。詳しくは直接聞いてね。やるんでしょ?」
アルは寝ている男とリナを交互に見やる。
「わかったよ」
「はい、がんばってね」
リナは軽くそう言うと、さっさと自分の仕事へ戻ってしまった。ベンチに寝ている男は暗紫色の服を着た詩人だった。濡れたハンカチを目の上に乗せ、半開きの口から時折小さなうめき声のようなものを発している。アルはそばのテーブルの上に置かれた彼の羽根つき帽子を手に取った。羽根はシロフクロウの羽根で、焦げ茶色の縞模様が入っており、炎のモチーフの銀の飾り止めがついている。それをクルクルと回しながらアルは咳払いをひとつしてから声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、ご心配なく。ちょっと飲み過ぎてね……」
「そうですか、それは良かった。ところであなたの仕事を請け負ったんです」
男はハンカチを持ち上げてアルを見た。左目の周りが腫れ上がり青あざが目立つ。
「君が私の護衛を?」
「ええ、あなたさえ良ければ、ですけど」アルの笑顔はどことなくぎごちない。
「ずいぶんと若いようだが、大丈夫かね?」
男は少し大きな声でそう言うと、リナの方をうかがった。視線に気づいた彼女は口角を上げ、錐で彫ったようなえくぼを見せた。
「……だそうですが、どうします?」
「なるほど。こっちとしては仕事をこなしていただければ、どんな人物だろうと異論はないよ。さて、私はオータス・スコープス。よろしく」
「アルです。よろしくお願いします」
「早速で悪いんだが、医者を知らないかね? 顔の傷が痛むんだ」
オータスは痛みのリズムに合わせて手を動かした。
「昨日、酒場で殴られてましたね」
「君もあそこにいたのか? 一体何があったか知っているかい? ひどい目にあったみたいだが、全く覚えていないんだ」
「酔っ払って乱闘になったんですよ」
「……だろうね」
「それだけわかれば充分なのでは?」
「そうかも知れないが、問題なのは護衛の男がいなくなってしまったということだ」
「口元に傷のある男ですか?」
「ああ、そうだ。あいつはどこへ行った?」
「さあ? 僕が見たのは、あなた方が肩を組んでみんなで歌いながら店をあとにした姿です」
「私は今朝目覚めると、見知らぬ民家の前にいたのだ。それから宿へ戻ると、あいつはいなくなっていた。昨晩の記憶がないんだ」
「あなたを殴ったのは確か鍛冶屋のブライアンですよ。でも、何だか昨日より顔の傷が酷いような……」
「そうか、知らん名だ。たぶん店で知り合ったんだと思う。とにかく、君の前任者がいなくなった。そして君に後を頼む。とにかく医者を知らないか?」
アルはオータスを連れ立ってオスカーの診療所へ向かった。オータスは詩人を自称し、世界のあらゆる場所へと赴いては詩を書いているとのことだった。今回はスメイアを回り、ネイトゥール国の首都アーガンリーへと帰る算段だと話した。アルたちが診療所へ着くと、ちょうど先生が往診から戻ってきた。
「やあ、アル。どうした?」
「先生、患者を連れて来ました。診てあげてください」
先生は診察を済ませるとオータスの患部に薬草の軟膏を塗った。それがひどく滲みるらしくオータスは顔をしかめ、足をジタバタさせた。
「目に問題はない。一週間もすれば腫れも引くだろう」
「良かったですね、大したことなくて」
「ああ、そのようだ。ひどく沁みる薬だったがね。とにかく、ありがとう。ところで君、治療費を払っておいてくれ」
アルは何を言われたのかわからないといった表情でその場に立ち尽くした。
「どうした? 治療費を立て替えといてくれ。私は財布がないんだ?」
「財布がない? 宿屋から持ってきてないんですか?」
「いや、宿屋にもない。なくなっていたんだ。幸いなことに私の日記だけが残されていた。これがなかったらどうなっていたことか……」
「……だそうだ、アル。つけとくよ」先生はカルテを書きながら言った。
「え、僕にですか?」
「頼むよ、私の護衛だろう? 金なら家に着いたときにまとめて払おう。約束する」
「頼むよ、君が護衛だろう?」オスカー・リーツはオータスの口調をわざとらしく真似て含み笑いをしている。
「先生、冗談は……」
オータスと先生は二人で真面目とも冗談とも言えぬ表情でアルを見つめた。引き受けざるを得なくなったと、アルはため息をついてお金を支払った。
「傷を早く治したかったら無理はしないことだ。それじゃあ、二人とも道中気をつけて」
リーツは二人を笑顔で送り出した。二人はその足で旅の準備のために市場へ向かった。
「荷物は日記以外全部なくなってしまったんですか?」
「いや、なくなったのは財布だけだよ。どうやら金以外興味なしらしいね。と言っても私の場合、荷物自体がそれほど多くはない」
「馬は?」
「無事だよ。苦楽を共にしてきた我が愛馬メリッサがいなくなってしまったら、私は一体どうして旅を続ければ良いのやら……考えただけでぞっとするよ。君の馬は何と言うんだい?」
「名前なんてありませんよ」
「なぜ?」
「こういう仕事をしていると馬はよく死んでしまうんです。だから次から次へ名前が必要になるんですよ」
「別れが辛いという訳か、気持ちはわかるよ……それならば馬にはずっと同じ名を与えればいい」
「それもいいかも知れませんね。考えておきますよ」
二人は宿屋に着くと馬屋からメリッサを引き取った。
「どうだい、良い馬だろう?」
「本当だ、立派ですよ」
アルはオータスをいまいち信用していなかったので、彼の馬に目を丸くして驚いた。メリッサは芦毛の牝馬で、全身を覆うそのグレーの体毛は気品を、顔や足に見られる黒い斑点模様には愛嬌を感じさせた。グレージュの豊かな尾とたてがみが時折吹くゆるい暖かな南風に遊ばれる。主人をみつけたメリッサは喜びに小さくいなないた。
「この馬はよっぽどの財産ですよ」
「そうだろう? だからこそ盗まれないように厳重に手配しているんだ」
馬屋の管理人が飼葉を運んで来た。アルと顔見知りの彼は小気味のいい声で挨拶をした。
「よう、旦那。出発すんのかい?」
「ああ。これから市場へ回ってね。世話になったよ」
管理人はメリッサに飼葉を与えるとその首を大きくさすった。
「そういや、この間の連れの男がやって来てこいつを連れて行くって言いやがったんだが断ったよ。あやうく喧嘩になりそうだったがな。何があっても旦那以外には引き渡さない契約だかんな」
「実は酔っ払って彼と揉めてね……いや、酔っ払っていたから私も覚えていないが……」
「よくあることよ。俺なんかもしょっちゅうだ。また、酒飲めば忘れられるさ」
管理人は豪快に笑った。そうしてメリッサを引き取り、市場で食料を購入して積み込んだ。二人は東へ向かって旅立った。スメイア中部の平野から高山地帯へ、そこから北東へ抜けるとリガティア国境の砦へと向かう。アルは鹿、イノシシや野鳥を狩って旅の途中で出会った商人や冒険者と物資や情報を交換し、その路銀稼ぎの傍らオータスは辺りの風景を慈しんでは詩を書き付けている。
糸杉の林立する街道を進みリガティアに入ると、陽が西に沈み行き松明をつけてほどなくして荷馬車が横転しているのを見つけた。二人はゆっくりと近づく。道端には赤黒い血の染みが見えた。馬上で弓を構えたアルはオータスに下がるように指示し、荷馬車へ声をかけた。何かの物音がした。すかさず放たれた矢は幌を貫通した。小さい悲鳴が上がる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「誰だ、出てこい!」アルは弓を構えたまま荷馬車を回り込むように慎重に馬を進めた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
子どものような半べそをかいたような声でそう繰り返されると、荷馬車の縁に細長い筋張った手がかかる。大きな金色の目がのぞき、ふるえる声で哀願した。大きな頭、薄い金色の頭髪に鷲鼻、痩せた大きな手足、曲がった背、浮き出た血管が目立つ青白い肌、粗布を引き裂いたような服を着ている。一見するとゴブリンに似ていた。その声を聞いたオータスがアルに武器を下ろすように言った。
「そいつは、もしかして……おい、言葉がわかるね?」
オータスは馬を下りると努めて優しく声をかけた。敵意がないことを示すために両手を広げると片膝をついて笑顔を向ける。
「私はオータス。大丈夫だ、襲ったりしないよ」
そのゴブリンに似た生き物は二人をうかがう。恐怖から未だ警戒を解けず怯えている。
「何なんですか、あれは?」アルは声を潜める。
「私の見立てが間違いないのなら、ヘルックだ。知らないのか?」
アルはヘルックと呼ばれた不思議な少年を見つめたまま首を振った。
「ヘルックは妖精の一種だと言われている。その姿形はゴブリンに近しいが、性質は真逆だと言っていい。出会った者に幸運をもたらすと言われている善良でおとなしい者たちだ」
「それで、どうします?」アルの目は鋭いままだった。
「とにかく話をしてみたいね」
オータスはなだめるようにヘルックに声をかけ、アルは少し後ろに下がって見ていた。オータスがなぜその妖精に執着するのかわからなかった。
「君はひとりかい?」
オータスの問にヘルックは頷く。
「この馬車の人たちは? 襲われたの?」
「わからない。ただ食べ物があったから。お腹が空いたから、僕は食べ物を……」ヘルックは首を振りながら答えた。
「わかった。ここは危ないから一緒に来ないか」
「さっきはごめんな。謝るよ」
アルは慎重に抑えた声で言った。ヘルックはおどおどと当惑の表情を浮かべながら姿を表した。未だ拭い切れない恐怖にうつむいたまま。
「ここにいては危険です。もし兵士か誰かが通りがかったら、私たちが犯人にされてしまいます」
「わかった、ここを離れるとしよう」




