プロローグ(1)
はびこる夜の冷たさと天を覆う雷鳴の饒舌に、ネズミたちは身を寄せ合って震えている。ひび割れ角縁のかけた石畳に激しい雨が打ち付ける。飛沫をあげて走る足音は、降りしきる雨に消える。男は何度も角を曲がり、街の明かりの隙間に身を隠し息を殺した。雨はさやさやと小降りになり、屋根の上から雨粒が滴っている。男は膝を抱えて息の上がった呼吸を必死に抑えていた。街の明かりはどんどんと落ちはじめ、穏やかな静けさに沈んでいった。
大通りを数人の酔った男たちが何やら話しながら歩いて行くのが聞こえた。男は息を殺しながら立ち上がると、再び闇から闇へと走り始めた。雑貨屋の四階へ上がる外階段を忍び足で上っていくと、そのまま扉の隙間へ身を滑らせた。
「何なんだ、あの野郎は!」
男は身をかがめて窓からネズミのように外を伺と、まぶたから水滴が滴った。街は平穏を保っている。しばらくそのまま外を見ていたが変化はなかったので、よろよろと立ち上がり明かりを灯した。男は未だ震える手で家の鍵を机の上に放り投げると、上着を脱いで体を拭った。頭にかかるタオルを両手に顔を沈める。落ち着きを取り戻した男は、ベッドに潜り込むと眠りに落ちた。
一時間後、男は廊下の足音で目が覚めた。足音は男の部屋を通り過ぎ、隣の部屋へと過ぎていった。どうやら隣りに住む兵士の男が帰ってきたらしい。男の緊張はすぐに解かれ、また目をつむった。次の瞬間、男は何者かの手に口を覆われた。鼻を突く強烈な薬品の臭いがした。男はその手を振り払おうと、相手の手首をつかむ。喉が張り裂けんばかりに叫ぶが、しかし、タオルで口を押さえこまれたまま、ふた呼吸ほどで気を失った。
「強力だな」
マスクの男はタオルを投げ捨てるとつぶやいた。
再び降りだした雨の中、メガネをかけた男が裏通りを駆け抜けていく。
「何なんだよ、一体」
ゴミ箱がぶちまけられ、植え込みが蹴散らされる。どれほど走っただろうか。気付けば隘路にはまり込んでいた。男の丈の倍ほどもある壁を背にし絶望すると、彼は目を凝らしたが夜目はきかず、追手の姿も見えなかった。
「ちくしょう、クソったれ!」
男は近くに積み上げられていた木材をひきずって、足場にするとその壁を乗り越えようとした。そのとき、暗がりから放たれた一本の矢が男の左足に突き刺さった。男はうめき声を上げ足を滑らせて石畳の上へ転がると、足場の木材が激しい音を立てて崩れた。割れたメガネで暗闇に目をやると、一人の男が暗闇の中から現れた。その男は黒い厚手のコートに身をつつみ、目深にフードを被っており表情をうかがい知ることはできない。右手には五十センチほどの長さの剣が握られていた。
「待ってくれ、一体俺が何をしたって言うんだ? ――そうか、金だな? 金ならやる。いくら欲しいんだ」
メガネの男は懐から財布を取り出すと放り投げた。フードの男の足元に銀貨が転がった。フードの男は動かない。
「頼む、助けてくれ」
メガネの男は降りしきる雨の中、震える手で懇願した。次の瞬間、フードの男が矢のように飛び出した。メガネの男はとっさに両腕を突き出してかばった。剣がひらめく。メガネの男の右腕もろとも剣が突き立てられた。畳み掛けるように突きが繰り出される。叫び声をあげる暇さえ与えられず、胸を刺し貫かれたメガネの男はそのまま地面に突っ伏した。フードの男はメガネと財布を拾うとコートのポケットにしまう。そして、降りしきる雨が血を洗い流す中死体を肩にかつぐと、再び暗闇に溶けていった。