第三十九話 ランクオーバー
リアラーナは(最初に借りていた部屋はぶっ壊れているからと、誰もいないことをいいことにアリアが勝手にお金を払って勝手に使うこととなった)安宿の一室にあるベッドの上にてかけ布団でぐるぐる巻きになっていた。その中では膝を抱えた彼女が唇に手を当てて、ぷるぷると震えていた。
──前提としてリアラーナの知識は少なく、偏っている。人生の大半を馬小屋と併設された五メートルの箱庭で過ごしてきたのだから、常識なんてものは身につく機会はなかった。
言葉やある程度の知識は知っているため、何らかのインプットは行われてきたのだろうが。
ゆえに、だ。
唇を合わせる行為に名前があることも、その行為に意味があることも知らなかった。知らなかったが……どうしてだか、脳裏に刻まれていた。
昨日の夜、闘争の後。
アリアに引き寄せられたリアラーナは唇を奪われた。唇と唇の接触、だけでなく、治癒のために舌を使ったのはそう不思議な話ではない。
アリアは怪我をしていた。本人は平気な顔をしていたが、年がら年中誰かを救うために利用されてきたリアラーナには一目瞭然であった。
あれは、とっくに限界を超えていた。
それでも平然と動けるくらい、アリアがぶっ飛んでいただけで。
ゆえにリアラーナの舌を使って怪我を治そうとしたことは自然な流れである。唾液に治癒効果が含まれていることまで教えていたかまでは覚えていないだし、全身の怪我を治してから唇を離したアリアが『あ、案外こういった形でもいけるものですね』とか言ったいた気がしないでもないが、とにかく治癒することが理由であったはずなのだ。
なのに、だ。
単なる医療行為でしかないのに、
(う、うう……ううううっ!!)
離れない、脳裏から消えてなくならない。
あれだけの闘争があったというのに一睡もできずに朝を迎えてしまったくらいには印象的な出来事だったのか。
わからない、知らない、教えてもらっていない。
唯一の情報源にしてリアラーナの『常識』を形作ったシリスから伝えられている以外の知識なんてほとんどないのだから、湧き上がる感情の意味なんてわかるわけがなかった。
(……嫌な気持ちじゃないけど、けどっ、すんごく顔が熱いんだけどーっ! もお!!)
ぐるぐる巻きのままリアラーナはベッドの上を転がる。正体不明で名前も知らない感情に翻弄されながら。
こんなものを知ってしまっては、もう五メートル四方の箱庭には戻れない。あそこなんかよりもよっぽど価値ある居場所を見つけてしまったのだから。
ーーー☆ーーー
そして。
悶えるリアラーナを観察して楽しむことを諦めてでも大通りまで出ていたアリアはというと、あんなことがあったからこそ復興に忙しい人混みを見据えていた。
(どうせなら三つ纏めて片付けるですか。できれば四つ纏められたほうが余計な手間かけずに済むですけど)
その瞳はじっと大通りに向かっていた。
人混みの中、何かを探すように。
と、そこで甲高い声が炸裂した。
視界に入るくらいには近くで誰かが悲鳴をあげており、そのそばで翼やツノや尻尾といったものを生やした異形の少女が立ったまま首筋から鮮血を噴き出していたのだ。
誰かに首を切られた、ということなのだろうが、毒素を撒き散らすことで空気の濃度にバラツキを生み出し、姿を消していた異形の少女がそこにいたことには気づいていたアリアであっても誰に殺されたのかを確認することはできていなかった。
直感に根拠を追加したアリアはというと、清々しいほどの青空を見上げて、一言。
「やっぱり暗殺じゃあいつには敵わないですね」
ーーー☆ーーー
「ランクオーバー、でっすか?」
元気はつらつが代名詞な衛兵はおっさんが告げた単語に首をかしげる。
「ああ。指名手配にはランクFからランクAまであるんだが、その上にもう一つランクオーバーというのがあってなぁ。下手に賞金稼ぎや冒険者が手を出した結果、馬鹿げた被害が発生するかもしれないってことで秘匿された凶悪犯のことだ。討伐するってんなら国家ぐるみでの作戦を必要とすると判断された連中ってわけだな」
「そのランクオーバーってのに赤髪の女も含まれているんでっすか? え、え、それ放置していいんでっすか!?」
「まあ今すぐどうこうって話じゃないから国も手出ししてないって感じなんだし、わざわざやぶ蛇する必要もないだろ。あれは手さえ出さなければ、そう面倒なことやらかす奴とも思えなかったし」
問題があるとすれば、と『元』傭兵ランキング第一位にして『元』大陸最強はこう続けた。
「秘匿していた怪物をランクAに下げたってことだなぁ。殺人罪だのなんだの今更な話で騒ぎ立てやがって。上は何を考えてやがるんだが」
ーーー☆ーーー
「ごふっ、ばぶべぶっ!?」
街の外、森を横断する道の中間付近でのことだった。馬を殺され、移動手段を失った複数の馬車から商品である食料や日常雑貨がこぼれ落ちていた。
彼はそれらを……いいや、その先の何かを庇うように剣を『敵』へと突きつけていた。
──彼は屈強な男であった。騎士とも対等にやり合えるほどの実力者ではあったが……立ち塞がる『敵』の数は数十に及ぶ。多勢に無勢。いかに彼が強くとも、限度はある。数十倍もの数の差を覆すことなど、どれだけ強き者でも不可能である。
数は力だ。
戦において数倍もの人数差があれば勝敗は決したも同然であることを考えれば、勝てるわけがないことはわかりきっていた。
それでも彼は戦うことを選択した。
そんなの、迷うまでもなかった。
「ちっとばっか小金稼いで、気持ちよくなろうかってだけだったんだがな。いちいち突っかかってきやがってよ。勝ち目があるとでも思ったか、ああん?」
『敵』の一人、リーダー格らしきロン毛の男の言葉に彼は舌打ちをこぼす。彼は商人が街から街に移動する馬車の中に相乗りさせてもらっていた。少し前であれば最高級の馬車を用意することもできただろうが、身分を剥奪され、家からその存在を抹消された彼には街から街に移動するにも誰かを頼る必要があった。
商人の両親と娘が二人、後は護衛が二人であった。仲が良いのか、会話は弾んでいたと思う。彼にとっては家族同士や雇い人と仲良くしているというものが不思議であったし、いつも通りにしていたからか彼らから好印象を持ってはもらえていなかったが。
そう、仲良くしてなどいなかった。街につけばそこで別れている程度の関係性であった。
それでも彼はこうして残った。護衛の二人が『敵』を見て真っ先に逃げ出し、娘二人が『敵』曰く気持ちよくなるためにと何かをしようとしていたところで『敵』をぶん殴ったからだ。
商人の家族は無事逃げることに成功した。
とはいえ彼が逃げられるとは思えないので、せめてと時間を稼いでいるのだ。
勝ち目なんてあるわけがない。
命をかけてでも守りたいと思えるだけの関係性があったわけでもない。
それでも、と彼は繋げた。
なぜなら、そう、なぜならば、
「……、泣いていたからな」
「ああん?」
「女が泣いていたんだ。だったら助けるさ。そんなの当たり前だろうが!!」
握りしめる。
勝ち目がないとわかっていて、それでも彼は剣を力の限り握りしめる。
戦う理由なんてそれだけあれば良い。
たったそれだけで彼は世界だって敵に回せる。別に好きでもない男爵令嬢のために、己が立場を無視してでも婚約者を糾弾するだけの馬鹿なのだから。
「覚悟しろよ、クソ野郎ども。俺様はジーク=アルカディアなんだ。この身体に流れし王者の血に恥じぬ死に様を晒すためにも、出来るだけ多く殺してやろうぞ!!」