第三十五話 無茶と無理の境界線
「シッ──」
例えば上空から踵を落とし、例えば後方より伸ばした爪を突き出し、例えば右より聖騎士の剣を振り下ろし、例えば左より翼を羽ばたかせて毒素を撒き散らし、例えば前方より大きく口を開き毒素まみれの牙を突き立てようとして───赤い飛沫と共に崩れ落ちる。
アリアの魔剣が唸り、上空からの踵を斬り捨て、脚線美が霞み後方の爪を弾き、その勢いのまま聖騎士の剣を蹴り上げ、蹴り上げた剣を掴み左へと投げ貫き、前方の大きく開いた口を両断するように上から下に魔剣を振り下ろす。
次の瞬間には倍以上の異形の少女が殺到してきたため、斬り捨て受け流し弾き飛ばすことで一切の負傷、感染を阻止する。
だが、しかし、だ。
その間にもグリムゲルデを魔導にて蝕み、変異を促している一人は逃げていく。距離が、離れる。
(時間さえかければ勝てるです。ええそうです、この程度の物量ならどうとでもなるですよ。ええ、ええ、時間さえかければ、ですね)
時間が、足りない。グリムゲルデは今にでも変異が完了し、つい先ほどアリアが斬り捨てた誰かと同じになる。そうなれば元に戻せるかは不明だ。もしかしたらリアラーナの舌で治せるかもしれないが、確実ではない。
治せなかったら、斬り殺すしかない。
そんな略奪、許せるものか。
(仕方ないです)
放っておけば距離は広がる一方、だが異形の少女たちを相手していれば満足に移動することも難しいだろう。
ならばどうすればいいか。
答えは簡単だ。
だんっ!! とアリアが前に踏み込む。立ち塞がる異形の少女たちだけを斬り払い、道をこじ開けて──左右や後方、上空から迫る爪や牙がアリアを抉る。
ぶしゅ!! と鮮血が噴き出す。身体をさばくことで致命傷だけは回避したが、それだけだ。普段であれば簡単に避けられるようなものさえまともに受けながら、さらに前へ。
そう、前へと。
敵を殺すのではなく、グリムゲルデを救い奪うために。それ以外は些事と投げ捨てれば、広がる距離を縮めることもできる。
全方位から迫る敵を馬鹿正直に対応していたから満足に進むことができなかったのだ。攻撃を避けるとか、迫る敵を殺すとか、そんなものに費やす余裕を全て前へと進むことにのみ費やせばいいだけなのだ。
だけど、それは諸刃の剣であった。
ごぶっ!! とアリアの口から血の塊が吐き出される。ダメージ自体は大したことはない。受けたのはかすり傷だけであったが──そこから魔導による毒性が入り込んだのだ。
視界が霞む。四肢が痺れる。平衡感覚が狂い、熱病に犯されたように全身が熱くなり、叫びたくなるほどの激痛が身体の芯から溢れ出る。
「……くす☆」
その、全てを。
ねじ伏せて、前へ。
「くす、くすくす、くすくすくすくす☆」
ザンゾンゴギベギバゴザザンッ!!!! と。
立ち塞がる異形の少女たちが斬り裂かれる音と、アリアの肉体が壊れていく音が混ざり合う。まずは猶予がないグリムゲルデを蝕む毒性を取り除き、その後で己の肉体を犯す毒性の持ち主を殺し尽くせばいいという暴論。
無茶ではあっただろう。
だが、無理にはしない。
赤黒い液体が噴き出し、舞い、混ざり合うサイケデリックな領域を踏破する。吹き飛ばし、斬り裂き、突き進み──ついに間合いのうちへとグリムゲルデを蝕む毒性の持ち主を捉える。
「フッ──」
魔剣が唸る。極端なまでの前傾姿勢、それこそ地面に倒れこむのではないかと思えるほどの体勢から勢いよく起き上がる。右下から左上へと跳ね起きるように斬撃が走り、グリムゲルデを蝕む毒性の持ち主を捉えて──ぶぉん! と何の手応えもなく斬り裂く。
景色に、溶ける。
残像、ではない。
これは、
「ふふっ、ふふふっ!!」
ぶさあ!! と。
翼を羽ばたかせて、左上へと飛び上がる異形の少女がいた。グリムゲルデを蝕む毒性の持ち主が、だ。
──異形の少女は毒性を撒き散らす。目に見えない微細な粒子という形をした魔導は水蒸気のように大気中を舞い、口や鼻から感染していく。
であれば、だ。
大気中に舞う毒性の密度を変えることで目に見える光景を『ズラす』ことも可能なはずだ。密度の異なる大気中を進む光がねじ曲げることで、人の目には本来存在する場所とは異なる場所へと景色が見えるようになる蜃気楼のように。
だから。
だから。
だから。
ズゾンッッッ!!!! と。
アリアの手からすっぽ抜けた魔剣がグリムゲルデを蝕む毒性の持ち主の胴体へと突き刺さった。
「が、ぶ……っ!?」
毒性を使い大気中の密度にバラツキをもたらすことで蜃気楼のように幻像を生み出せば視覚は誤魔化すことはできる。だが、それだけだ。アリアは視覚のみに頼ってはいない。聴覚や嗅覚、触覚に味覚さえも駆使している彼女に幻像は通用しない。
視覚以外を頼りに標的へと魔剣を投げ貫くことは、できる。
だが、
(急所を外した、ですか。これは『奥の手』使うしかなさそうですね)
勝負を急ぎ過ぎた。時間がないからと策略が成功したと思った瞬間の油断を突き最短での決着を目指したが、失敗しては意味がない。
胴体に魔剣を突き刺したとはいえ、致命傷でなければ逃げ延びてしまう。毒性はグリムゲルデを犯し尽くし、異形の少女へと変えてしまう。
「ふ、ふふっ、ごぶべふっ! ふっふふふっ!! 最後に笑うのはこの私よお!!」
血を吐きながらも翼を動かし、飛ぶ。
上へと、アリアの間合いと外へと。
異形の少女も学習している。上空から襲いかかることでアリアの足場として利用されることがないよう、上空の少女たちは遠ざけて、前後左右より襲いかかってくる。
時間がない。
今この時、地上の異形の少女たちを相手すれば、時間のロスは致命的だろう。
──ここで標的を逃がせば、グリムゲルデを救い奪うことはできなくなる。
だから。
だから!!
「グリムゲルデっ。私に向かって全力で炎をぶちかますです!!」
ーーー☆ーーー
グリムゲルデとアリアは今日初めて出会ったばかりであった。実際に関わった時間は十分にも満たない程度だろう。
だけど拳を交わした。
その本質は熱いくらい伝わっている。
ゆえに、このタイミングでそんなことを頼んでくる意図もまた即座に汲み取ることができた。そういう無茶を平気で思いつき、実行するような女だということは交わした拳から魂の奥底まで伝わっているのだから。
無茶を、無理とすることはない。
無茶だけど、可能とするのがアリアである。
「任せろでしょうよお!!!!」
ブォッバァッッッ!!!! と。
世界を紅蓮に染める焼却の奇跡が解き放たれた。
ーーー☆ーーー
まさしく濁流のごとき猛火が異形の少女たちを吹き飛ばしながら赤髪の女へと殺到していく。だが、それだけだ。すでに十メートルほど上空へと飛び上がった『彼女』には届かない。
『彼女』、すなわちグリムゲルデを蝕む毒性の持ち主には。
(残り十秒。後十秒で焼却の奇跡は私のモノとなる!!)
例えば巨人を材料とした異形の少女は歪曲の魔導を使い魔王の首をねじ切った。それもまた出産毒の性質の一つ。対象の肉体的要素を感染、変異したモノへと残すこともできるのだから。
ゆえに巨人が持っていた歪曲の魔導が残っていた。
同じようにグリムゲルデの奇跡もまた変異した後の異形の少女へと残すことができる。
数の暴力を前に対等以上にやり合えている赤髪の女とはいえ、聖女の奇跡を上乗せすれば今まで通りとはいかないだろう。残り十秒、後十秒で戦況は大きく変わる。
だから。
だから。
だから。
ブゥッオオンッッッ!!!! と。
赤髪の女へと襲いかかった猛火がねじ曲がった。
そう、上空へと飛び上がり、高度を上げている『彼女』めがけて。
「ッ!?」
『彼女』は知らなかった。
赤髪の女とグリムゲルデが激突した際、赤髪の女は魔剣を振り回すことで生み出した空気の流れを使い炎を受け流したことを。同じように腕を使い空気の流れを変えることで、炎もまたねじ曲がる。
ゴッ!! とねじ曲がった炎が一直線に『彼女』へと襲いかかる。槍のように炎が『彼女』の翼を撃ち抜いたのだ。
「し、まっ……!!」
浮力が、失われる。
ガグンッ!! と体勢を崩した『彼女』が微かに下に落ちて、しかし片翼だけでその場に留まる。
約八メートル。少し下がったとはいえ、未だ赤髪の女の間合いの外。この高度を保ったままでも十分だろうが、念のため地上の少女たちを使い赤髪の女を足止めしようとして、気づく。
地上。
アリアの近くに異形の少女が存在しないことに。
「くすくす☆」
人間には二つ腕がある。一つを使い『彼女』へと炎を誘導して、もう一つを使って自分の近くに炎を撒き散らすよう誘導して地上の異形の少女たちを吹き飛ばしたのだ。
一瞬。
地上からの追撃を阻止して、上空は用心のために『彼女』以外の者たちも距離を取っているため──この瞬間に限り、赤髪の女を止める者はいない。
「これで終わりです」
だんっ!! と。
跳躍、そしてアリアの手が『彼女』の胴体に突き刺さった剣の柄を掴んでいた。掴めるくらい、高く高く飛び上がったのだ。
「なっ!? 人間がこれほど高く飛べるはずかないわ!!」
「普通はですね。だからこその『奥の手』ですし」
ザンッッッ!!!! と。
突き刺さったままの魔剣が上に振り上げられ、『彼女』の胴体を斬り裂いた勢いのまま頭を真っ二つにする。
魔導が途切れる。
グリムゲルデを蝕んでいた毒性が、消滅する。