第二十五話 奇跡、ここにあり
長期戦は不可能だということは誰の目にも明らかであった。重度の火傷、右腕の消失、内臓にまで響く打撲痕。生きているのが不思議なほどの負傷に、しかしグリムゲルデはなお熱く、強く、激しく炎を燃やす。纏い、力と変える。
第八位相聖女・グリムゲルデ。
その身が憎悪に燃える。
「お、ォおおおおおおおお!!!!」
咆哮と共に瞬間的に燃え上がった炎が空気を熱する。急速な温度変化か空気を膨張、上昇気流を生み出し、グリムゲルデの身体を真上に吹き飛ばす。
五メートル、いいやそれ以上。
そのまま前へと更なる爆破。八の腕と六の足を持つ、褐色の鱗で全身を覆った巨人を飛び越えようとして──だんっ!! と巨大な体躯が飛ぶ。
跳躍。
五メートルクラスの巨体によるそれは空を舞うグリムゲルデを軽々と越すものであった。
ゴッ!! と六の足が振り回される。六方向からほとんど同時に放たれた蹴りが空気を押し潰し、それ自体が暴風の攻撃と化しているほどだった。
「チィッ!」
奇跡だった。それはもう幸運以外の何物でもなかった。炎の爆破で軌道を変えたグリムゲルデが六の蹴り、その隙間に滑り込む。だが、そう、だが蹴りが回避できたとしても蹴りが生み出す暴風は領域を埋め尽くしている。
ぶぉん! とグリムゲルデの華奢な身体が暴風に流される。空を飛んでいるのではなく、あくまで炎を使って急速な空気の流れを生み出すことで擬似的に空を飛ぶように動いているだけなので、空気の流れそのものを歪められてはどうしようもない。
鈍い音が連続する。咄嗟に炎を放ち、ある程度は空気の流れを変えて勢いを殺したとはいえ完全ではなかったのだろう。地面に叩きつけられたグリムゲルデが何度も何度も地面をバウンドする。焼き爛れた肉が、地面に叩きつけられる度に削れて千切れていく。
「が、はっ!?」
そして、何かにぶつかり、止まる。
先の誰かとは違ったが、それは『第八位相聖堂』入り口前に倒れた数十、数百もの聖騎士の誰かだった。
ズズン……ッ!! と地震のごとき震動が走る。
巨人が降り立つ。
「そいつら巻き込むのがそんなに嫌か?」
「そ、れは……がぶ、べぶばぶっ!!」
「我を飛び越えて戦場を変えるつもりだったんだろうが、残念だったな」
しかし、と。
どこか侮蔑を混ぜて、巨人は続ける。
「口では殺すとほざき、復讐に燃えている風に装っておいて、周囲を気にする余裕があるだなんてな。我だったら、死に損ないどもを巻き込むことなど気にせんぞ。そう、そうだ、死に損ないどもを巻き込まないようにと無駄に力を使い、仇を殺すための力を削るなんて絶対にやらないな。そんな半端に寄り道しては復讐の純度が下がるってものだ」
嘲る。
他ならぬロスヴァイセを殺した者が。
「陳腐だな、第八位相聖女。所詮は周囲を気にすることができる程度の復讐でしかなかったというわけだ。そんな女であれば、妹一人守ることができなかったのも当然といったところか」
「……ッッッ!!!!」
嘲る、嘲る、嘲る。
見下ろし、見下し、侮蔑のままに。
──大好きだった。
血の繋がりこそなくとも、生まれてからのほとんどの時間を共に生きてきたのだ。世間一般の姉のように普段の態度はそっけないものではあっただろうが、その奥底にはきちんと愛情があった。
──大好きに決まっていた。
甘えていたのは確かだ。幼き頃からの積み重ね、顔を見て話してくれないトラウマが言葉というもの全部に不信感を募らせ、本心からのそれすら信用できなくなったグリムゲルデのためにロスヴァイセは細やかな気遣いをしてくれていた。
聖女が住まう聖堂が同じ街に二つあるのも、そうだ。
本来の計画では大陸の八方向へと一人ずつ聖女を配置、中心へと一人聖女を配置する予定だったが、ロスヴァイセが寂しいと駄々をこねて、この街に二人の聖女、残りの七方向へと一人ずつ聖女を配置、中心に教皇を配置する運びとなった。
駄々をこねたのはグリムゲルデのためなのだろう。
他の姉たちと違って、言葉そのものに不信感を募らせ、顔を見て話してくれる聖女たち以外の誰をも信用できておらず、心なんてちっとも開いていないグリムゲルデを一人にしないために決まっている。
寂しいのはグリムゲルデのほうだ。
だけど、そう言い出せなかった意地っ張りの代わりにロスヴァイセは駄々をこねるという形で一緒にいてくれたのだ。
──大好き、大好き! 大好き!!
グリムゲルデ姉様っ、とこんなどうしようもない姉にも屈託のない笑顔を向けてくれる妹のことを好きにならないわけがない。
意地っ張りで、言葉なんかじゃ満足できない我儘な女で、誰かとの繋がりを肉体的接触、痛みでしか感じられないような、本質的に誰かを傷つけることしかできない姉は──グリムゲルデ姉様っ、とそう言ってくれる妹の存在に救われていたのだ。
好きだからこそ、触れ合うだけで幸せだからこそ、守りたいからこそ、ずっと一緒にいたかったからこそ、喪失の反動もまた大きい。憎悪は暗く、激しく、燃え盛る。
殺してやる。
ロスヴァイセを奪ったあの巨人だけは、絶対に。
ああ、だけど。
それでも顔を見ては怯えるしかない連中を巻き込まないようにと動いたのはなぜなのか。復讐、その純度。あの巨人が言う通り、グリムゲルデが燃やす憎悪は半端に寄り道する程度のものでしかないのか。
『これ』を切り捨てれば、復讐を果たせるのか。
『これ』さえなければ、殺せるのか。
『これ』を燃やせば、それで──
「ぴょんっ。いや、今はにゃあって言うべきにゃ? まあどっちでもいいぴょんっ。グリムゲルデ姉様ーっ! おまたせぴょーんっ!! って、うわあ!? グリムゲルデ姉様すんごく傷だらけぴょん!?」
ぴょんっと跳ねるように。
何かが地面に倒れたグリムゲルデの目の前に出現した。
それは白い猫だった。
それは頭に白鳥のような『傷』を刻んでいた。
それは猫のくせにぴょんとか鳴いていた。
「グリムゲルデ姉様、怪我、怪我しすぎぴょんっ。すぐそうやって無茶するの、姉様の悪い癖ぴょんっ」
「こんなの、かすり傷でしょうよ。それより……いや、あり得ないでしょうよ。だって、首が千切れて、そもそも猫で、だって、そんな、だって!!」
「ぴょん。声でわからないぴょん? まあ色々ととんでも展開というか、まさかこんな風になるなんてってびっくりしてるくらいだけど、何はともあれこうして再会できたんだから細かいのは抜きにするぴょんっ。あ、もちろんもう気づいているぴょんよね? なんだこのしゃべる猫は気持ち悪っなんて風に思ってないぴょんよね!?」
猫のくせに人間らしくワタワタして、ぴょんぴょん鳴き始めたその様子に、グリムゲルデは魂を揺さぶられる。言葉なんて意味はない。それ以外の『何か』にこそ価値はある。
「ああ……」
コツン、と。
ワタワタする白猫の額を拳で軽く叩けば、それで十分だった。感じる熱量が、全てを物語っていた。
「ぴょんぴょんうるさいでしょうよ、ロスヴァイセ」
溢れる涙は、己が肉体を焼く炎でも消すことはできなかった。