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残光  作者: 芦谷かえる
10/11

10、追憶

 

「手紙を出したのは――――」


 一度は途切れた感覚も、記憶に意識を向けると戻るのは容易かった。


 どこまでが最初に思った感情なのかはっきりしないし、どこまでが本当の理由なのかも分からないの。

 全部を思い出すには、きっと時が経ちすぎてしまった。

 ただ小学校を卒業しても忘れずにいた咲絵のことを、夏が来るたびに一層思い出すの。

 あの出来事を、あの光景を。

 鉄橋の咲絵がいなくなった場所まで歩いて行って坂の下を見ると……こういう言い方はよくないのかもしれないけど、微動だにしない咲絵の身体がさ、まるで人形のように転がっていて。

 ほんの数秒前まで同じ服を着て動いていたんだと思うと、死んでいるなんて露にも思えなくて。

 見れば見るほどそこにいるのは咲絵そのもので、

 全部冗談だったって言う咲絵を期待して待っていたけど、来るはずもなくて。

 死んでしまった。

 そう気づいた時に今まで感じたことの無い感情が一気に体中を駆け巡って、私はただ声を上げることしかできなった。

 意味なんてない、言葉にならない叫び声を。

 喉は焼けるように痛くなっていたし体中が痙攣したように震えていた。

 一歩も動くことが出来なかった私は、倖一君に身体を引っ張られるように家路に着いた。

 何度も何度も囁いた「二人で遊んだ」の魔法が、崩れそうな私の身体をどうにか支えていた。

 それから夏休みが終わって学校を卒業して。

 なのに六年経った今も忘れることはできない。

 何年も何年も咲絵を、誰にも言わずにそのままにした罪悪感がじわりじわり積もっていって、でも言う勇気もなくて。

 ニュースを見たのは偶然だった。

 テレビではまだ身元が分からないと言っていたけど、それが咲絵だとすぐに気づいた私は真っ先にその場所に訪れた。

 土手沿いの鉄橋はあの頃のままだった。


「二人で遊んだ」


 本当は違うと逃げ道を塞がれた気分だった。

 一人で抱え込んできたものを、もう持ちきれそうになくて、生きながら支えられそうになくて、

 そしたらふと倖一君のことを思い出した。

 会いたくて、でも倖一君が咲絵のことを思い出したくない過去としてるなら、きっと私が行っても辛い思いをさせるだけだ。

 だから私はあんな手紙を出した。

 自分の気持ちに整理がつけられないまま倖一君の家へ向かって、日付だけを書いた手紙を入れた。

 それでもし、倖一君が覚えているなら二人だけの秘密を、苦しみを分かち合いたかった。

 そんなことが出来る相手は倖一君しかいないから。

 覚えていなかったら諦めよう。

 そう思っていた矢先、再会してしまった。

 私があの夏の話をよくしたのは、覚えているか確認したかったの。

 そしたら倖一君は忘れていた。

 だったら諦めて、倖一君が私と居て思い出す前に消えよう。

 それなのに私は……。

 倖一君と過ごす時間が想像以上に楽しくて、もう一日だけ会おう、あと一回だけって、

 気付けば離れられないほど倖一君のことを好きになっていた。

 夢のように楽しい時間だった。

 私はその夢に溺れ良くないと知りつつも日々を重ねた結果、倖一君は思い出してしまった。


「ごめんね」

「謝らないでよ」


 まだ何か言おうとしている途中だったかもしれない。

 けどそっと重ねられた手は小刻みに震えていてその理由を知る術などなかったが、遮らずにはいられなかった。

 二人で過ごした時間を「ごめんね」の一言で纏めてほしくなかった。

 僕にとっては間違いなく満ち足りていた日々で、終わってほしくない日々なのだから。


「どうせいつかは思い出したことかもしれない。

 だって記憶に残ってたから浮かべることが出来るし、それに雫があの鉄橋で声を上げてる光景はずっと頭で再生されてたんだ。

 思い出すまでどんな場面だったのか分からなかったけどさ」


 ごめんねと言った雫を否定したかった。

 そんなことはないと、下を向かなければならない日々ではないと、そう思わせたくて言葉を並べ立てる。

 視線があと少しでも前を向いてくれれば伝えたいことが届く気がして、言葉を探し続ける。


「僕がつらいのは」


 自分勝手な言い分だと思った。


「このまま居なくなってしまうことだよ」


 我ながら恥ずかしい事を言っていると思いつつも、言いたい衝動を抑えることが出来なかった。


「だからどこにも行かないでよ。

 居なくなると寂しいんだよ」


 けれど口を閉ざしたまま、雫が俯いた顔を上げることはなかった。

 雫がどんどん遠くに感じられていき、僕はふと小学校の卒業式の日を浮かべていた。

 何も言わずに突然いなくなってしまった雫。

 このままではあの時と同じで明日には居なくなってしまう。

 もう会えなくなってしまう。

 そんな予感を、予感で留めているのは唯一触れている、重ねられた手だけの気がした。

 離れたくない、その一心で僕は手のひらを返し震える手をそっと握った。

 今の僕にそれ以上どうすることもできないもどかしさで、自然と力が強くなる。


「倖一君、痛いよ」

「ごめん」

「…………ちから、全然緩めないし」


 離れないよう握りしめていても、今にもすり抜けてしまいそうな雫の手。

 これ以上は強くならないよう加減しながらも、一体僕はどんな言葉なら満足するのだろうかと考えていた。

 雫が話すのはもうとっくに通り過ぎてしまった過去の話。

 どうしたって変えられるはずもない過去を、もしかすると僕には聞く準備なんて出来てなかったのかもしれない。

 どこかで都合の良い結末を期待していたのかもしれない。

 けれど待っていたのは僕のご都合主義をかき消す言いようのない淀んだ空気。

 重たくて息苦しくて、まだ何か悪い事でも起こりそうな雰囲気の中、雫の胸が小さく上下した。

 ただ空気を吐いたのか、ため息なのか、どちらとも取れる雫の仕草。

 それが続きを話し始める合図だったかのように、再度口を開いた。

 心なしか先ほどよりも明るくなった気がした声色で。


 いつか話す時が来る、最初からそんな気がしてた。

 でもきっかけのないまま、壊れないようずるずると関係を保っていたけど、

 そんなあやふやな状態が続くわけなかったんだよね。

 間違えたまま進んでたんだよ。

 今の私たちの関係ってさ、あの頃と一緒。

 ごっこ遊びだったんだよ。

 早く大人になりたくて子供っぽくない会話を繰り返した。

 大人に憧れて背伸びしてみた。

 合わせるように同じ目線で立っていた二人だからきっと仲良くなれた。

 あの頃の大人ごっこから、今度は恋人ごっこに変わっていただけ。

 感情は思い込みで、つまらない毎日を埋める隙間が欲しくて会い続けた。

 倖一君も私と一緒。

 変わらない日々が嫌で、丁度再会した私をそこに埋めただけ。

 埋めるための理由を適当に考えて。


「そんなこと――――」


 あるよ。

 だって私がそうだから、同じなんだって見てたら分かる。

 私の場合はさらに、一人で背負い続けた罪悪感に耐えかねて、倖一君にも背負わせたくて関係を縮めていった。

 今日は話せてよかった。

 打ち明けることができて何だかすっきりした気分。

 靄がかかっていた視界が澄みきって、なんか未練とか言い残したこととか何にもない感じ。

 倖一君にとって私との再会は、あまりいい思い出にはならないかもね。

 こんな悲しい雰囲気になるなら、話さなければよかった?

 やっぱり私は謝りたいよ。

 辛い思いさせてごめんね。

 結局さ一緒に居る限り、あの日したことに余計に囚われ続けてしまうんだと思う。

 私たちはどうしたって一緒に居られるはずもない……居ちゃいけない。

 いつまで経っても正しい方向に進めないんだよ。

 だから今度こそ、卒業式の日に言わなかったことを言うね。


 僕の手が緩んだのか、あるいは無理やり抜け出したのか。

 離れてしまった雫の手を追いかけようとして「やめて」と雫かと見紛うほどの冷たく、胸に突き刺さるような声に僕の手は止まる。

 これ以上近づくことを許さない、はっきりとした拒絶だった。

 僕は結局、その言葉を言わせないことが出来なかった。


「さよなら、倖一君」


 立ち上がり部屋を出ていこうとする雫。

 ふと思い出したように、付け加えられた言葉。


「倖一君だって私を忘れなきゃ進めないと思ったから、写真も記憶も、全部捨ててしまったんでしょ。

 一つでも残してたら前に進めなかったから、捨てることで乗り越えた。

 今度も早く捨てられるといいね。前に進むためには必要だからさ。

 倖一君も言ったよね、忘れることで前に進むことが出来たって。

 忘れるくらいじゃ思い出すかもしれないから、次はもう二度と思い出すことの無いようしっかり捨てようね」


 一歩ずつ確実に離れていく雫。

 僕が立ち上がるのを制止するよう、言葉を畳み掛ける。

 ドアを掴んだ手は一旦止まる。


「最後にもう一つだけ教えてあげる。

 どうして咲絵が何年も何年も見つからなかったか不思議じゃない。

 それはね、私が倖一君に言ったんだよ。このままだとばれちゃうから、

 穴を掘って埋めようって。

 私は動転して頭もまともに働いてないようなときに口から出た言葉を、返事なんてしないで迷わず実行してくれた。

 私は自分はなんて最低な奴だって思いながらも、妙に安心したのを覚えてる。

 どう、これであの夏の話はおしまい。

 全部思い出したかな。

 これですっきり、終われるね」


 そうだ、咲絵の死体を僕は埋めた。

 その事実に打ちのめされて動けず、ドアを開け出ていく雫を目で追うことしかできなかった。

 いやきっと無理やり動こうと思えば動けたはずの身体で、雫を追いかけることができなかった。

 だって僕は、思い出してしまったから。

 掘った穴に落としたとき微かに動いた、

 恐らくその時はまだ死んでなかった

 ――――それに気づかぬふりをしてただ無心で土をかけ続け、

 生き埋めにして、

 僕が殺した咲絵のことを。


 *


 もうこのまま終わりでいいのかもしれない。

 誰も居なくなった部屋は不自然なほど静かに感じられて、

 際程まで雫が座っていた場所に手を伸ばすと、まだ仄かに温かさが残っていた。

 僕と雫の間には、決して越えることのできない溝ができていた。

 再会して忘れた記憶のまま仲良くなって、恋人のような関係に踏み込んで、けど咲絵の死という出来事が僕らを結びつけることを許さなかった。

 一緒にいればどうしたって思い出してしまい、互いを苦しめ合うだけの存在。

 一定以上近づくことが出来ないなんて、まるでヤマアラシのジレンマだと思った。

 けど傷つかない距離を見極めて器用に接することなんて、僕にはできそうにもない。

 きっともう少しもう少しと近づいて行って、最後には傷つけてしまう。

 二度と会わないことが最良の選択であると、消えつつある温もりが訴えてくるようだった。

 窓の外を見ると雨は随分弱まり、ぱらつく小雨が宙を舞うのが見えた。

 もうすぐ止むのかな。

 そんなことどうでもいいかと、疲れた身体を休めたくてベッドに転がる。

 見上げた天井。

 何を考えていたわけでもないのに目頭が熱くなり視界が滲んでいく。

 こんなこと前にもあったなと思い出す。

 小学校を卒業して中学に入って、僕に告げず雫は引っ越してしまって、もう会えないんだと気付いた春の終わり頃。

 まさか同じ悲しみを体験するとは思ってなかったなと自嘲してみる。


 転がるベッドにはついさっきまで雫がいたのに…………そう、ついさっきまでいたんだ。

 数分前までこの部屋に居て、もしかしたらまだ走れば追いつく距離にいるかもしれない。

 頭の中で、何かが気持ちのいいほど綺麗に収まったような気がした。

 似ているけれどあの時と明確に違うのは、もしかしたらもう一度会えるかもしれないという、ほんの僅かな可能性が残っていることだった。

 だから僕は、僕の身体は動き出していた。

 財布とスマホだけポケットに入れ、玄関横の自転車をうるさい音を立てて無理やり引っ張り出し、

 雫がどの方角に歩いているのかまるで分からない中、

 直感だけを頼りに車輪を漕ぎ続けた。

 途中で小雨が上がっていることに気づけたのは、

 雨雲が風に流されていき、隙間から覗ける青空に視界が明るくなっていったからだった。

 雲は次々と消え、次第に熱を帯びていった濡れたアスファルトはその水分を蒸発させていき、

 雨上がり特有の草木の匂いを辺りに立ち込めさせていた。

 勘が良いか悪いかと言えば、あまりいいとは言えない元来の気質は、

 こんな時にも平常運転で発揮され、

 いくら走り続けても雫の姿を見つけることは叶わなかった。

 それでも諦めようという気は微塵も湧いてこず、汗だくになりながらも探し続けて一時間は優に過ぎた頃、

 僕はもしかしたら探し方を間違えているのではないだろうかと思い至る。

 そもそもどうして探そうという気になったのかと言えば、急いで追いかければまだ間に合うと思ったから。

 いや、それだけじゃなかったはずだ。

 他に何か引っかかる部分が脳裏をよぎった。

 僕は探せば間に合うと思っただけでなく、いつの間にか探さなくてはいけないような衝動に駆られて街中を走っていた。

 その衝動の根底は何だろうか。

 早く動き出さなければ雫は着実に遠くに行ってしまうのに、僕は自転車を止め考えていた。

 生暖かい強めの風が何度か吹いて身体の熱は徐々に落ち着き始めても、一向に何も浮かんでこなかった。

 余りに浮かんでこないので、雫を探さなければならない衝動というもの自体が、

 僕自身がもう見つからない事実に蓋をして、動き続けるために無理やり思い込ませた妄想だったのではないか。

 本当は早くこんな不毛なことは止めて、家路に着いてベッドに転がって雫のことを忘れて、前に進もうとし始めた方がいいのかもしれない。

 そう考えて、けどこの衝動は偽りだとはどうしても思えなかった。

 それはどうしてか、どうしてこんなにも雫を探さずにはいられないのか。

 ペダルに片足を乗せたところで、近くの木々をの揺れる音が聞こえたと思ったら、

 ふわっと地上に溜まった湿気を空へ巻き上げるような風が一瞬吹いた。

 それは辺りの電線を揺らし、そこから落ちた雨粒が水溜まりに跳ねた。

 その光景はまるで、雨粒の落ちる様はまるで…………。

 雫は僕の部屋を出ていった。

 話が終わるとドアノブに手をかけ、最後に僕が咲絵を埋めた事実を告げ部屋を出ていった。

 雫に言われた事実に打ちのめされて、視線に入っていたにも関わらずそのことに大した意味を見出さずにいてしまった。

 その時、電線から落ちた雨粒のように、雫の瞳からも確かに涙が落ちたことに。

 雫が泣いていたことに。

 だから何だというのだ。

 そのことにどんな意味があるのか。

 自分でも説明を付けることができなかったが、その涙こそが、僕を突き動かす衝動の正体の気がした。

 けれどどこを探せばいいのか皆目見当もつかない。

 つかないなら、思い当たる節を全て探してみればいいんだと納得する自分がいた。

 歩いた場所、行った場所。日はまだ暮れそうにないのだから。


 赤い自動販売機も、歩道橋の下も、鉄橋も、神社も学校も、思い出せる限りの場所を見て回り、

 それでも見つからず、それならデートで訪れた場所も探そうと駅に向かう途中、雫と話した会話にヒントがあるのではとも考え、

 思い出の一つ一つを出来る限り思い出していく。

 その中で、一つだけ探していない場所があることに気づいた。

 それは学校のプールだった。

 けどあの場所の錠の番号を雫は知らない。

 中へ入れるはずないと思いつつも、僕の手元を見ていなかったとも言い切れない。

 それに僕らは、二人だけのプールでこんな会話をしていた。


「ここなら誰にも邪魔されないで絵を描けるね」


 静かな午後、プールサイドのベンチにそれぞれ寝そべっていた時だった。


「今は描いてないって言ったでしょ。

 でもここは良いわね。一人になりたいときはここに来ようかしら」

「いいね。

 僕しか来ないから、泣きたいときは一人でここで泣いたらいいよ」

「倖一君が来たら一人になれないじゃない」


 二人のありふれたやり取り。

 でも一度思い出せば焼き付いて離れない雫の泣いていた顔。

 見上げるプール場に雫が居る気がした。

 見つけたら、なんて声をかけようか。

 できれば何事もなかったように、出来れば平然と。

 ふと、今までにない距離感を雫に感じていた。

 あんな離れ方をした気まずさとか、再会した時のような久しさとか、

 次第に仲良くなっていって緊張も解れた恋人のような感情とか、

 そのどれとも違う。

 何が近いだろうかと探っていくとそれはまるで、あの夏、雫とほんの少しだけ距離が縮んだような気がした、

 僕が雫の写真を初めて取った時の抑えきれない胸の高鳴りに似ていた。

 その後何枚も何枚も撮った雫の写真。

 当時はどれも宝物のように大切にしていた。

 そう言えば僕は、雫とした宝物探しの時によく写真を入れていたことを思い出す。

 ある時は校庭の花壇の裏に、ある時は神社の境内の下に、またある時は自分の学校カバンの中に。

 そして…………。


 僕の記憶がまた一つ鮮明に蘇る。

 あの日は、咲絵を埋めた日は……鉄橋の奥、坂の一番近くにある木の下に僕は写真を埋めたんだ。

 プールの入口、外された錠、そのまま中に入ろうとした足を止める。

 取りに行こう。もう六年も経っていてまだあるか分からない。

 でもどうしても、雫に会う前にその写真を取りに行こうと思った。

 埋めた物を掘り起こす。

 咲絵を埋めた土の柔らかさが蘇って来て、冷や汗と吐き気で目眩がした。

 咲絵のことで一緒に居られないと思った雫。

 思い出して愕然とした僕。

 互いの中の辛い部分を刺激してしまうから、離れなくてはいけない。

 そう言った雫の言葉。

 写真を見せれば、思い出したくない過去を思い出してさらに傷つけてしまう。

 でも僕は、その過去が一緒に居られない理由にはならない気がしていた。

 写真を見れば思い出すが、そのつらさは一緒に居られない理由ではなく、

 つらさを分かち合うことのできる唯一の相手として、一緒にいる理由にしたいと思った。

 だからこそ雫に会う前に、僕は鉄橋に向かった。

 時間にして十分ほどだっただろうか、

 掘り進めていくうちに姿を現したそれは、あの頃よりもやや薄汚れて見えたが、

 確かに僕が宝物を入れた箱だった。

 ペンケース程の大きさの箱の中を開けると、たった一枚だけ写真が入っていた。

 それは紛れもなく僕が何よりも大切に思っていた、雫さんが映った写真だった。

 子供特有の今よりもやや丸い顔立ちの雫。

 間違いなく僕がコンクールに応募して、最終選考まで残った一枚だった。

 どこに隠したのか、何だったのか思い出せなかった、今も色褪せずに輝いているのだろうかと考えていた宝物は、

 あの頃と変わらない輝きを持っていて、そのことに自分自身でも驚き持つ手が震えていた。

 こんなところにあったんだと唯一残った、雫さんの顔が映る写真を見て僕の中で沸々と感情が湧いてきていた。

 それはまさしくあの夏に何度も味わっていた、いい写真が撮れた時の満足感のようなもので。

 雫さんをまた撮りたいな。

 僕の頭を埋め尽くすように広がっていった感情は、自分でも抑えきれないほどで身体全体が熱を帯びていた。

 雫さんを撮りたい。

 あの頃のように撮って、満足のいく一枚を見て自分の心を満たしたかった。

 僕は急いで写真を箱に仕舞い軽く砂を払い、自転車のカゴに入れきた道を戻って行く。

 手は黒くなり指の爪には砂が入っていたが、気にならなかった。

 戻ってくる頃には日はすっかり傾いて、校舎はオレンジ色に染まっていた。


 更衣室に入りプールへと続く階段を上っていく。

 コンクリートの地面は足音を響かせる。

 徐々に明るくなっていく景色。

 広がっていく夕焼け空。

 一歩外に出れば色づいた水面、プールサイド、スタート台に腰掛ける雫の背中。


「もしかして、僕が来たら一人になれない?」


 僕の声に思わず振り向こうとした身体を戻し、ゆっくり息を吐いて言った言葉は、呆れてるわけでも嘲笑してるわけでもなかった。


「……なれないね」


 静かで掠れていて、ほんの小さな風の音でかき消されてしまいそうな声だった。

 隣に座り横顔を覗こうかと思ったが、

 まだ泣いている気がして前を向いたままにした。

 水の残るプールはオレンジに煌めいて、揺蕩う波間から時折反射する夕日が眩しかった。

 話すことは決まっていたが何から話すかは決めておらず、考えた末に再会してからの僕らの会話は、

 いつだってあの夏と繋がっていると思い、そこを話の初めにしようと思った。

 六年生になった一学期の初日、嬉しそうに駆け寄ってきた雫に対して煙たそうに相槌を打った、

 今思えばその頃はまだ何も夢中になれるものがなかった僕の話から。


 別に返事はいらない。

 ただ聞いてくれるだけでいいんだ。

 言ってしまえば独り言のようなもの。

 最初は普通の友達のように遊んだり遊ばなかったり、話したり話さなかったり、

 そんな日が繰り返されていくだけだと思ってた。

 けど雫さんは僕が思うような子じゃなかった。

 六年間同じクラスにも関わらず話したことなんて殆どないけど、

 六年間も一緒にいればぼんやりと雫さんに対するイメージのようなものは出来ていて、

 だから正直戸惑ってしまった。

 会話を重ねるごとに雫さんへの接し方や距離感がうまく掴めず、友達と接する時の僕とは違う自分が出ていたんだ。

 でもその僕こそが、元来の気質なんじゃないかって思い始めてた。

 確かに今は楽しいけど、どこかで大人に憧れている自分がいて。

 少しでも背伸びしたくて、クラスメイトよりも一歩進んでいたくて普段よりも大人びた会話をして、少しでも近づいた気になっていた。

 雫さんといると、背伸びした会話ができて、そんな僕の言葉使いや態度を思いの外受け入れてくれた。

 だからこそ、気付いた時にはただの友達よりも少しだけ仲の良い関係になっていた。

 特に関係が親密になったと思ったのは、雫さんを撮るようになった時からだと思う。

 最初はただ気まぐれで撮っていた空。

 撮るということが楽しかったけど、次第にもっといい写真を撮りたいと思うようになり、

 事あるごと雫さんをレンズに映していたね。

 もちろん空も継続していたけど。

 もっといい写真を撮りたいってのは、その写真を雫さんに見せて「いいね」って言ってもらえることが嬉しかったからなんだ。

 毎日毎日、夢中になっていた。

 あんなに何かに夢中になったのは、後にも先にもその時だけかもしれない。

 それは夏が終わって雫さんと離れてしまっても暫く続いていたんだ。

 空があれば見上げて、見せることは出来なくなったにも関わらず一度染みついた癖は中々抜けなくて、スマホを掲げてはシャッターを切る。

 記憶は薄れてもその時の感情や日々の楽しさは心に残り続けていた。

 あの夏が僕の無意識の部分に残した、小さな光のようなものの仕業だったのかもしれない。

 でも少しずつ写真を撮らなくなっていった。

 雫さんがいなくなって、そもそも撮ることに理由がなくなってしまったのだから。

 夢中になった熱は冷めていき、大袈裟かもしれないけど日々の生活の生き甲斐みたいなものもなくなってしまった。

 新しい何かを探したり見つけたりするんだけどさ、僕にとって雫さんと過ごした夏はどうしようもないくらいに色褪せることなく輝いていて、それと同じ輝きを探すんだけどどこにもなくて。

 いなくなったにも関わらず僕は雫さんに固執していたし、あるいは雫さんのせいにして毎日がつまらないって、

 このまま将来どうなっちゃうんだろうって漠然と生きていた。時折空を眺めて写真を撮るんだけど何か足りなくて。

 雫さんと再会して前みたいに写真を撮るようになったけど、やっぱり何か足りないって思っていた。

 それが何だったのか、ようやく気づいたんだ。


「それって……」


 雫はまるで僕の方を見ていなかったので、今までその存在に気づいていなかった。

 薄汚れていて、知らなければボロボロの小さな箱にしか見えない入れ物。

 表情から察するに、僕の持つ物が何なのかは分かったらしい雫は、

 分かった上で言葉を失い、大きな黒い瞳で見続けていた。

 開かれた目でただ驚いていた。


「この中に仕舞っていたよね、僕の宝物」

「……うん」


 絞り出すように返事をした雫。

 驚きと少しの不安が入り混じった表情の奥で、今どんなことを考えているのか予想などできなかったが、

 決して悪い事など起こらないという確信があった。

 蓋を開け入っていた写真を取り出す。

 六年の歳月がやや印紙を曲げていたが、殆ど当時のままの風景がそこにはあった。

 雨上がり、偶然できた雲から射し込む日差し。

 飲み物を買おうとして財布を忘れたことに気づく雫を柔らかく照らす。

 その困っているような恥ずかしがっているような顔で、歯を覗かせあどけなく笑う表情は何一つ変わることなく写真の中にいた。

 自分が撮ったとは思えないほど美しくて、輝いている瞬間だった。


「残ってたんだね」


 そっと受け取り眺める雫。


「僕は写真を撮ることが嫌いではない。

 だからと言って四六時中撮っていたい訳ではいんだ。

 でもさこの写真を見て、また空の下にいる雫さんを撮りたいって思ったんだ。

 あの頃の、満ち足りていた時の感覚に包まれるようでさ。

 でも、このまま雫さんが居なくなっちゃったら、撮ることが出来なくなってしまう」


 次の言葉はちゃんと伝えたかった。

 回りくどい言い方でもない、比喩でも暗喩でもない言葉で。

 そう思い少しだけ身体を雫の方へと傾けると、殆ど同じタイミングで僕を見た雫と視線が重なる。

 やっぱり泣いていたのかな。

 潤んだ瞳はやや赤く腫れていて、今にも沈みそうなオレンジの夕日を浴び一層色づいて見えた。


「なによ」


 僕の言葉に対してか、見つめてることに対してなのか分からなかったが、どちらでもよかった。

 曲げた眉毛、尖らせた口。あの夏と比べ六年分大きくなった雫。

 空の半分は夜になりつつある時間の中で、僕には雫の存在が何よりも輝いて映っていた。


「僕は――――」


 後のことなんて何も考えないで、自分勝手に思うままに、

 ただ身体の奥から湧いてくる感情を言葉にしたかった。


「雫さんを撮りたいから、どこにも行かないでよ」


 予想外の言葉だったのか数秒きょとんと表情を固まらせたが、

 一度顔を伏せ再度上げた時には呆れたように顔を綻ばせ笑って言った。


「倖一君って、時々わがままよね」

「時々なら許してよ」

「許さないよ…………時々ならいいけどさ」


 恥ずかしそうに付け加えた雫。

 会話も場面も初めてのはずなのに、この雰囲気がどこか懐かしくて、いつもの距離感に戻った気がした。


「……あのさ」


 違うなと思った。

 この距離感はほんの少しだけど、いつもよりも近い気がした。

 勘違いかもしれない。

 けど会話だけじゃなくて、それ以外の距離も縮めたいと一瞬でも思ってしまったら、

 僕の脳はそれに支配されるように身体を動かす。

 固いコンクリートの上に置かれた雫の手、その上に僕はふわりと覆いかぶせるように手を重ねた。


「ずっと一緒にいて欲しんだけど」

「ずっとって、いつまで?」


 その行為を受け入れるように手のひらを返した雫。


「いつまでも」

「それは大変ね」


 コンクリートの上にあるのが雫の手なのはよくないと思い、

 自分の手を下にすりこませると入れ替わるように雫はもう一度手のひらを返した。

 優しく微笑んだまま力が加えられた指先を僕もそっと握り返す。

 ふと思いついたように雫は口を開いた。


「プロポーズみたい」


 そう言われて急に恥ずかしくなったが、顔が赤くなっていたとしても夕日で誤魔化せるかもしれない。

 僕は至って平静を装って、熱くなった身体で笑って答えた。


「プロポーズみたいだね」


 二人の会話が終わるのを待ち続けるように保っていた夕日は、終わるや否やあっと言う間に西に沈んで、

 凝らせば僅かに星の見える都会の夜空へと変わっていった。

 学校を出て、赤い自動販売機で別れた僕らは約束などしなかった。

 約束などしなくたってまた次会えることを知っていたから。

 会えることを何一つ疑わずにいたのだから。

 二人そろって同じように。




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