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残光  作者: 芦谷かえる
1/11

1、記憶


 真夏の蝉の鳴き声に紛れて誰かの声が聞こえた。


 何を言っているのか分からないし、泣いているのか叫んでいるのかも定かではなかったが、

 それまで聞こえていた木々を揺らす風の音、岩に当たり飛沫をあげる川の流れを遮り、

 露出した肌に突き刺さるほどの金切り声だった。


 記憶は不鮮明で覚えているのは断片だけ。


 小学生の夏休みのことだったと思う。

 公園で水風船を膨らましたりコンビニで買ったアイスを食べながら、

 神社の境内で一週間も経てば忘れてしまうような会話に日が暮れるまで盛り上がったり。

 何度も飽きることなく、よくそんな遊びをしていたがその日は違っていた。


 場所は思い出せないが見慣れない場所ではなかったと思う。

 理由があって僕らはそこにいて何かを探していた。

 とても大切な物だったはずなのに何だったのか思い出せないが、確かにその瞬間までは探していた。


 探すのを止めたのは後ろから声が聞こえたからだった。

 振り向くとそこにいた少女は何かを見ていた。

 僕の位置からは見えない何かを。

 近づいていき少女の隣で僕は呆然と立ち尽くしていた。


 映像は見えない。

 記憶はそこで途切れてしまって、

 ただ少女の声だけがいつまでも頭の中に響いていた。


 その子とは毎日のように遊ぶ仲だった。

 特に小学六年生の夏は本当に毎日遊んでいて、

 授業が終われば約束なんかしなくてもお決まりの自動販売機で待ち合わせていた。

 クラスメイトからは付き合ってるんじゃないかと揶揄われたりもしたが、僕らは決まって否定していた。


 僕はその子が好きだったし、僕の思い違いでなければその子も僕を好きだったと思う。

 けどどちらからも告白はしなかった。

 正確にはする前にその子はいなくなってしまった。


 小学校の卒業式の日、

 いつもと変わらず「さよなら」と手を振る姿を最後に、見ることはなくなってしまった。


 当然同じ中学校に進学すると思っていた僕は突然の別れに暫く立ち直れずにいたが、

 新学期が始まり一ヶ月も経つとその子のことは頭の隅に追いやられ、支障なく日常を送っていた。


 その子がいなくなる前に告白していれば付き合っていたのだろうかと考えもしたが、

 何度やり直しても僕はしなかったかもしれない。

 友達よりは心を許せて、恋人同士のように近すぎることもない、

 程よい距離感が何とも言えず心地よかったからだ。


 触れそうで触れない砂浜の波飛沫のような、

 落ちそうで落ちない線香花火のような。


 これ以上歩み寄ろうとしないのは、

 たった一歩でも距離を詰めたら僕らの関係を明確にしなくてはいけない気がして、

 言葉に出来ない曖昧な関係でいることの浮遊感は、

 現状に満足するには充分過ぎるほどだった。


 その子から告白がなかったのも同じような理由からではないかと幼いながらに想像していたが、

 卒業式の日に何も言わずにいなくなってしまった理由は分からないままだった。

 少なくてもその子にとって僕は友人の一人ではなかったのだと、

 たった一度の口づけが物語っていた。


 思い出すのはやはり夏の日、

 予報になかった突然の土砂降りで僕らは歩道橋の下で雨宿りをしていた。

 跳ね返る雨粒は足元を少しずつ湿らせていき、

 夕暮れ時の本来ならまだ明るい時間だと言うのに、太陽は厚い雲に覆われ辺りは暗くなっていた。

 すぐ止むだろうと思われた雨は止まず、気づけば夜の暗さになっていた。

 会話はいつの間にか途切れていて、いっそ止みそうのない雨に諦め濡れて帰れば良かったものの、

 タイミングを掴めないままずるずるとその場に居続けてしまった。


 仕事帰りのサラリーマンも疎らになり、

 次第に静かになっていき雨音が一帯に響くようになっていた。

 いつまで続くか見当もつかなかったこの時間は、

 このまま終わらなくてもいいとさえ思えた。


「くしゅん!」


 終わらせたのはその子のくしゃみだった。

 鼻をすすり、見れば寒そうに肩を震わせていた。

 今まで気づいてあげられなかった自分が情けなかったが、

 僕はその子の恋人じゃないと思えばそれほど罪悪感も湧いてこなかった。


「大丈夫?」

「うん、平気。倖一君ティッシュ持ってる?」

「あるよ」


 渡しただけだった。

 街頭で配られている広告入りの硬いティッシュを。

 暗くて目測を誤ったのかもしれない、

 受け取るためには当然そうなっただけかもしれない、

 僕が意識をしてしまっただけなのかもしれない。


 その子の指先が僕の指に触れた。


 細くて柔らかくて、思ってたより温かい指だった。

 今までも身体の一部が触れることなどあったはずなのに、

 その時の僕はその子をじっと見つめたまま動けなくなってしまった。


 その瞬間の気持ちが何だったのか分からない。

 頭の中で何かがぐつぐとつ煮えてるような感覚になり、

 背中をなぞるように伝う言いようのない衝動は、表に出してはいけない危うい感情のような気がして。


「え?」


 僕が力を入れてしまったせいで取ろうにも取れなかったティッシュをその子は掴んだまま、

 間の抜けた声を上げた。

 その視線は真っ直ぐ僕を捕らえていた。

 余りに真っ直ぐ見つめられ、耐え切れずに逸らした視線はその子の足元へ。

 随分と濡れてしまったスカートの裾はずっしりと重そうな深い藍色だった。


 僕が何を考えていたのか思い出せないが、その子の行動ははっきりと覚えている。

 僕がスカートの裾を見ているとその子の左足が一歩前に出た。

 僕へと距離を詰める小さな一歩だった。

 覗き込むように屈んだその子、鼻を掠めた吐息、僕が見た光景は目を瞑ったその子の額だった。

 言葉通り口と口が付く程度の一秒にも満たない時間の小さな口づけ。

 離れた瞬間僕以上に驚き、口を手で覆っていたその子が今度は俯いてしまう。


「ごめんなさい。こんなことするつもりなかったのに」


 いつものその子と違ってしおらしく、どうにか聞き取ることが出来るほどの小さな声だった。

 何か言わなくてはと喉の奥から声を振り絞ろうとしたとき、

 今まで長い時間一緒にいたのが嘘のように雨の中、走り去ってしまう。


「明日ね、さよなら」


 呼び止めようにも、そう言ってあっと言う間に行ってしまった。

 水溜まりに靴を突っ込みばしゃばしゃと音を立てながら、

 濡れる身体を気にも留めず。


 その口づけに何か意味があったかと言えば、その後の僕らの関係に影響を与えることはなかった。

 恋人になったとかもう会わなくなったなんてことはなくて、

 翌日もそれまでと同じようにいつもの自動販売機にその子はいた。

 口づけが夢だったのかように何一つ変わることなく。


 その子はもういない。

 小学校を卒業して以来見かけたことも噂を聞いたこともない。

 その時の記憶は僕の中で随分と大切に仕舞われ輝いていた。

 今まであった誰よりも素敵だと思えるのは、もう会えないからこそ輝き余計に美化されているのかもしれないが。

 あの夏の日に探していた物もそうかもしれない。

 あんなに大切だと思っていた気持ちは覚えているのに何なのか思い出せないのは、

 本当はそれほど大切な物ではなかったからで、

 何年も経ち記憶が都合の良いように改竄されているだけの可能性もある。

 覚えていることがそもそも断片的なのだから。

 仮にその時大切な物だとして、それは今の僕にとっても大切な物だろうか。

 いつかは思い出してみたい。

 忘れてしまうなんて何だか悲しい気がするから。

 そう言えば結局、あの日その子は何を言っていたのだろうか。

 記憶に鍵が掛かっているみたいに思い出せない。




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