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犬も歩けば異世界幻想 |▶  作者: 黒麦 雷
第二章 ロードスター
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第五十五話 池魚籠鳥


『aAhhaahhhhhHHH……hahhhhHHHH……hh』

 清らかな水が満ちゆく石造りの球状の大空間に、甘い香りが漂い美しい歌声が響く。

 天球儀を止まり木に、その美しい旋律を奏でるのは翼を持つ美しい乙女。


 その幻想的な姿に見惚れ、耽美な歌声に聞き惚れ、俺は囚われた様に動けなかった。

 躰から力が抜け、心地よい筏の揺れにただ身を任せていると、温かい湯に浸かっているように意識が薄れていく。

 天球儀の杯から止めどなく溢れる湧き水に上がる水位、水面下を泳ぐ魚影が近づく。

 けれども俺はそのことに危機感を抱くことなく、既に何か行動を起こすという意思さえ浮かばなく……なって……い……た…………






──痛っ

 黒竜の苦痛……同調したその四肢の痛みで俺は意識を取り戻した。


 いつの間にか低く迫る天井。いきなり狭い空間に閉じ込められたような感覚で息苦しい……増した水位の所為だ。残る空間は球の1/4というところだろう。

 この痛みのお陰で意識を取り戻せた訳だけど、それが刺青の男達の非道な行いの影響だというのが忌々しい。



 感覚は少しずつ戻りつつはあるが、躰はまだ動かせない。他の皆は大丈夫だろうか?

 隣に寄り添うアンジェ、視界の隅=少し離れた位置のシャーロット達。幸いなことに怪我は無さそうだけれど、皆も俺と同じように力無く膝をつき動けずにいる。

 まだ意識も取り戻せていなく、虚ろな目をしているのも皆同じ……じゃない!


 その双眸が妖しく赤味を帯び、小さな唇の端が上がる。


『GyaAhhaahh』

 美しかった歌声が不快な濁声に変わった。


 斬り裂かれた羽根が飛び散り、一片の小さな青い何かと共に水面に舞い落ちる。


「やっと動けるようになった……」

 幾度か握っては開いて握力が戻ったことを確かめると、彼女は剣の束を再び握る。

「これで戦える」



『GAHHhh!!』

 牙を剝き威嚇する裂けた口、血走った目が睨み付ける。怒れるセイレーン。この醜悪な魔物が、先程までは美しい歌を奏でていた美しい乙女だったとは信じがたい。


 荒々しく羽ばたく翼が血肉を散らし、鱗に覆われた鳥脚の鋭い爪が殺意を帯びて襲い掛かかる。


「ぅぐっ」

 爪を弾こうと剣を振り上げたが、圧し掛かる攻撃の重さに押し負けて彼女は膝を曲げる。魔物が手強いのか、まだ調子を取り戻せていないのか……足場が揺れて水飛沫があがるが、それでもセイレーンの攻撃には辛うじて耐えた。幸いなことに他の皆が乗る足場への揺れの影響は僅かだ。それに動かない者は攻撃の対象外らしい。今のところは。



『Gah!Gah!Gahhh!!』

「っ、くっ、ぅぐっ」

 何度も何度も、地団駄を踏むようにセイレーンの脚が剣を踏みつける。鱗に覆われた脚は丈夫らしく、剣を踏むヤツの方にダメージは見受けられない。

 けれど彼女の方は……踏みつけるセイレーンの重圧に押されて体勢が崩れる。不味い、このままだと押し負ける。


 彼女を助けたいが、悔しいことに俺の躰はまだ動かない。必死に力を籠めてもぴくりと僅かに指先が動く程度だ。

 俺が傍観者でいる間に、セイレーンの攻撃に圧し潰されて徐々に彼女の体勢は崩れ……


「ぐぁぁぁあああっ!!」

 いや、押し返した!?


『GyaAhhhhaahhhhhHHHhh!』

 形勢は一気に逆転し、体勢を崩されたセイレーンを折り返した剣筋が深く斬り裂く。

『Gyahhh!gya、gya、GyahhhhhHHHhh……』

 水面に浮かぶ丸太の足場の上に落ちたセイレーンは、斬り裂かれた翼をばたつかせ、不快な濁声で喚く。


『gya、gyahh、Geehh……』

『……Geehhh、gyahhh……』

『……gya、gyahhhhHHHH』

「っ!!」

『h、h……』

 振り下ろした剣が魔物の喉を貫き、その息の根を止めた。


 行動に出るまでに時間が掛かったのは、魔物とはいえ半人半鳥の姿に止めを刺すことに躊躇いがあったのだろう。


 他人事ではない。これから俺達が戦うのはアイザック先生と青き山羊を抱く者達。ならず者で魔物側に付いているとはいえ……人間だ。

 でも、戦いの場で躊躇していたら、殺られるのは仲間達だ……覚悟を決めなければ。


 そう言ったことを考えるとここでセイレーンと戦えてた方が良かったかもしれない……



  『Gyeeehhhhh……』

『GyahhhhHHH……』

    『GuoOOOhh……』


 何処からか響く、新たな濁声の不協和音。それが騒音へと変わるほど音量が増し、石壁の通風孔から幾体ものセイレーンが飛び出した。

 戦いたい等と考えたのが良くなかったのだろうか。いや、最初のセイレーンの喚き声、悲鳴が仲間を呼んだのだろう。



『Gahhh』

「そうでなくちゃぁあっ」

 『GYEEHHHH』

 他の皆には見向きもせず、倒れたセイレーンの傍に立つ彼女に対して一斉に襲い掛かるセイレーンの群れ。


『GAHHHHHHHHH』

「まだ戦い足りなかったしぃぃい!」

  『GURRR』

「だぁぁああああ!!」

 『Gyahhhhh』

 双剣を振るい、彼女はただ一人魔物の群れに立ち向かう。


『Gyaahhh』「だ」『Gyehh』「だ」『Gah』「だ」『g』「だっ!」

 だが戦いの最中、彼女の攻撃の速さと威力が増して行く。

 それと共に増す双眸の赤味が少し気にかかるが、残るは一羽。



『GURahhhhhhhh!!』

「だぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」

 急降下で襲い来るセイレーン。振るわれる禍々しい爪。その軌跡から躰を傾けて僅かに距離を離し躱し、剣先が魔物の胸を斬り裂く。

 よかった、これで無事に……っ!未だ終わってない!


 丸太の足場に転がされ跳ねたセイレーンが、翼を擦って這いつくばりながらも、その眼光に憎しみの光を籠めた。

 そんなはずは……確かに剣先がセイレーンの胸を深く斬り裂いたはずなのにっ。



 振るった剣の軌跡は深く胸を斬り裂いたように見えたのに。ダメージは肉を斬るまでに留まり、心臓にまでは届いていなかったのか……


 視線を彼女へ移した時、その原因が判明した。セイレーンを斬ったその剣には、あるはずの鋭い切先が無かった。

 あぁ、そうだ。あの剣の切先は石塊の牡牛と戦いで折れた。いや、俺が折ったんだ……



 地を這うセイレーンが牙を剥き、曲げた脚に力が籠り、彼女の無防備な背中を狙う……


 危険を知らせようと口を開くも声にならない。跳び出そうとするも脚は踏み出せず、辛うじて武器に指先が届くものの、しっかり握ることすら出来ない。


 セイレーンは力を籠めて足場を蹴り、裂けるように大きく咢を開き牙を向け、跳んだ。



「        ァ!!」

──ブレンダァァアア!!

 俺の声は届かず……心の叫びも届かなかった……




『Gyah……』

「なっ!?」

 でも、刃は届いた。


 その胸の傷に小さな白い刃を突き刺したセイレーンが小さな断末魔をあげて倒れる。

 その白い刃は大峡谷の罠として使われていた白い羽根を思わせるナイフ。俺がマナを籠めて射出したモノだ。



 よかった……

「よかった!気が付いたのね」

 目が合ったブレンダが、嬉しそうに俺が乗る足場へと跳び移る。


「ゎうっ!?」

 飛び移った勢いで丸太の足場が大きく揺れ、丸太が目の前に急激に迫る。

「ぃた……ぃ……」

「ぷっ……何やってるのまったく」

 前のめりに倒れた俺の耳に嬉しそうなブレンダの声が届く。いや、これキミが揺らした所為なんだけど……まぁいいか。無邪気に笑うその声に、俺も自然と笑みが零れた。



「ほらっ、捕まって」

 上向きに差し出された手の平。俺はその動作に反射的に手を伸ばして重ね、喜びで尻尾が大きく揺れる。ぅん、心の片隅で期待してしまうけれど、これはお手じゃないし、このまま待っていてもおかわりはないとおもう。起き上がるか。



「なっ!?」

「ゎうっ!?」

 何かに驚いたブレンダに手を放されて、俺は再び顔から丸太に突っ込んだ。ぃたい……けど、きっと今はそんなこと言っている場合ではないだろう。何があったのかと手を地についたまま、顔を起こして周囲を見渡す。

 皆はまだ虚ろな表情で動かないけれど無事だ。何か変わったところは……無い。



「消えた!?」

 そう、無かった。丸太の足場に転がっているはずのセイレーンの亡骸が。

 あるのは散らばった羽根と血の跡のみ。その引きずったような血の跡は丸太の淵まで続いている。


「まだ終わっていないってことか……」

 水面に気泡が浮かび、続き目を血走らせて牙をむき出しにしたセイレーンの頭部が浮かび上がった。



「にひひ、そうでなくっちゃ」

「ま、待って!」

 今にも水の中へと跳び込んで行きそうなブレンダを慌てて引き止める。近づく魚影は一つではなかったから。



 ▶▶|



 水中に居たセイレーンは半人半鳥の姿ではなく、半人半魚の魔物だった。それが先程倒したセイレーン達が姿を変えたのか、別種の魔物なのかはわからない。同じ様な顔をしていて、俺には魔物の顔の識別は出来ないみたい。


 戦いたがるブレンダを引き止めるのはちょっと大変だったけど、皆を正気に戻すのが先だと言って思い止まらせた。あの魚群を殲滅させるには明らかに時間が足らない、その前に水没してしまうだろう。


 セイレーン達も水没するまで待っていれば苦せずとも餌が手に入ると思っているのか、もしくは俺達を警戒しているのか、丸太の足場までは上がってこないのは幸いだった。

 ただ、水面に頭を出した奴らは隙あらば歌おうと口を開くので、それを防ぐ対処はした。


「にひひ、次は干し肉だよぉ、それっ」

 『Gyeh』

『GYEEHHHH』

  『geh』

 『Gahhh』

 放り投げた餌に群がるセイレーン達、まるで池の鯉に餌をやってるみたい。楽しそうに餌を投げるブレンダ。戦いたがりの気も逸らせたようで何よりだ。でもここにティノが居たらこの作戦はとれなかっただろうなぁ。




「ふぅぅ、なんとか間に合いましたね」

 天球儀が畳まれ、その中心で水を湧き立たせ煌めく杯まで手が届くようになった。


「……ここが最後の関門、いよいよこの先は最深層です」

 その言葉に皆が頷く。

「では……」

 エヴァンさんがそのまま杯に手を伸ばすと……最後の門が開いた。


「「「「ぉおおお」」」」

 既に水没した石壁に門が開き、水嵩が減少する。渦を巻くような流れが発生しないことに安心する。

 けれどもそれは、新たな通路の半分くらいまで水嵩が減少するまでだった。



「「「「ぅわぁぁぁああああああ」」」」

 突然、錨が外されたように丸太の足場が流され、そのまま筏となって通路を下った。

 いよいよこの先に……捕らえられた黒竜とアイザック達が待っている……



 ▶▶|




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