第四十話 陶酔
「ティノッ!しっかりしてティノッ!!」
地面に横たわるティノへ必死な声を掛けるアンジェ。
それが落とし穴の縦穴をロープで降りた先で見つけた2人の姿だった。
「アンジェッ」
「ヌィ!ティノが、ティノが」
地面にペタリと座り込んだアンジェが潤んだ瞳でこちらを振り返る。
アンジェの膝枕に頭を預けたティノは、熱にうなされているような火照った顔で力なく横たわる。毒にやられたのか、それとも病か……
ティノをこんな状態に追いやった元凶が魔獣であったらと警戒し、辺りの気配を探る……大丈夫、とりあえず近くに危険な気配は無い。
この場所は岸壁の近くなのだろうか、洞窟の中だが壁のヒビから日の光が差し込み照らす。そこには緑の葉が茂り、白い花が咲き、一部には小さな実を付けている。ここにどんな危険が潜んでいるというのだろう。
「アンジェ、何があった!?」
「わからないっ、突然ティノが倒れたの」
駆け寄り尋ねる俺の問いに、アンジェが不安な面持ちで返事をする。
「…………ハァ……」
虚ろな眼差しで、小さく息を吐くティノ。ゆっくりと俺に向かって手を伸ばす。外傷は見当たらないけれど、その様態は思わしくなさそうだ。俺はその手をそっと掴み、両手で包む。やはり少し熱っぽく、脈拍も若干早い。
「どう?ティノは大丈夫?」
「少し休ませよう。ここじゃぁ魔獣が現れた時に不安があるから端まで移動しようか」
「ティノ、少しだけ動ける?」
ティノの背中へと腕をまわし、気を付けながら静かに抱き起す。
「……力が入らなぃょ…………お願ぃ……抱っこ……して」
むぎゅっ。柔らかくも弾力のある2つの塊が押し付けられて、俺の顔まで真っ赤になる。お、落ち着け俺、今はそんな場合じゃない、しっかり支えないと、ぅう。
「ハァ……ハァ…………ヌィ……ィ」
艶やかな唇から小さい息が漏れ、花の香りが漂い……俺の唇に重なるように近づく。
「ティ、ティノォ!?」
アンジェが慌てた声をあげるが、俺からもティノへと鼻先を寄せ……
「ヌ、ヌィッ!!」
「くんくん……」
あぁ、ティノの容態の検討がついた。
「酔ってるね、ティノ」
「え!?」
ティノの口端に指先をあて、続き、洞窟に生息する小さな実をつけた植物へと目を移し、その実を摘まむ。
「これの所為だと思う。またたびだね」
酒に酔うのとは少し違うのだろうけど、その実は猫科の動物を酔わせる。どうやら虎の性質を強く持つティノにもかなり効いたようだ。食べちゃったんだろうなぁ。
「えっと、ティノは大丈夫なの?」
「うん、これくらいの症状なら躰に影響はないよ。少し休ませれば大丈夫」
「はぁあ、よかったぁ」
絶対大丈夫だと断言できるほど詳しい訳ではないのだけれど、アンジェを安心させる為にそんな口調で伝える。おかげでアンジェは安堵の息を吐き、胸を撫でおろした。
「ぐるるぅ……ヌィィ抱っこぉ」
喉を鳴らしながら俺に抱き着こうとするティノに、俺の胸の鼓動が高まる。おかしいな、俺にまたたびは効いていないと思うけど。
「はい、ティノこっちだよ」
「ぇへへ、アンジェの抱っこ」
そんな様子を見て複雑な表情を見せたアンジェがティノを引き剥がし、白い籠手で抱き抱えて植物から離れた場所へと移した。ふぅ……
俺の脈は正常に戻ったけれど、ちょっとだけ残念な気分。手持無沙汰で小さな実をいくつか拾い集める。またたび~その名の由来は栄養豊富なこの実を食べれば疲労回復してまた旅が出来る、そんな説があるらしい。あまり美味しいモノではないそうだけど、携帯食に混ぜたりしてもいいかもしれない。ティノにあげるにはその用量に気を付けなくちゃだけど。
「ぐるるるるぅ~」
ティノはアンジェの膝枕で喉を鳴らしてご機嫌の様子。大分具合は良くなってきたけれど、もうしばらくは休ませてあげたほうがよさそうかな。丁度いいので食事休憩にでもしようか。
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「ぷはぁっ、ごちそうさまぁ」
食事を終えるとティノはしっかり調子を取り戻した。何よりの特効薬らしい。またたびを摘まんだのもお腹が空いていた所為だったのかな。
「それじゃぁ脱出しなくちゃだけど、ここに横道は無いみたい」
落とし穴を落ちて辿り着いたこの場所だけど、残念ながら落ちて来た縦穴以外のルートは見当たらなかった。まぁ、縦穴にはロープを残して来たので、そこから登って戻ることは出来る。
「だけど……くんくん」
俺は光の差し込む壁のヒビに鼻を近づける。
「お腹一杯、元気一杯。だからぁ、まかせてぇぇえっ!!」
ティノも俺と同じく壁の向こう側の様子に気が付いたのだろう。その高く振り上げられた脚から、力一杯のハイキックが繰り出された。光の差し込むヒビ割れがその範囲を広げ、ガラガラと崩れ落ちる壁。その所為で辺りに土埃が舞うが、それもすぐに新鮮な空気を含んだ風に吹き流された。
「わぁ外だぁ、すごいよティノ」
再び目の前に広がるのは広大な大峡谷の景色。そこには足場となりそうな岩が張り出し繋がっており、その先には洞窟への入口も見える。
「これが正解ルート!だったらいいなぁ……」
運良く新たな道を見つけた訳だけど、その道はなだらかなモノではなく傾斜した岩肌で、残念ながら上りではなく下っていた。
「正解かどうかは確かめてみなくちゃ」
にこやかに微笑むアンジェ。道は続いていて、一緒に歩ける仲間もいる。こんなところで立ち止まる必用もないか。
「そうだね、進もう」
「おー!」
険しい断崖絶壁。谷底から吹きつける突風に耐え、崩れそうな足場を下って慎重にその歩みを進める。空からは鳥、岩肌からは虫が襲い来るが、投石やアンジェの魔法で追い払いながら進むと、どうにか無事に洞窟の入口まで辿り着いた。
警戒しながら洞窟へと一歩踏み込む。大丈夫、突然襲ってくるような魔獣の気配は感じられない。だけど……
「くんくん……」
甘い香りが鼻をくすぐる。洞窟に入るまでは吹く風の所為で感じられなかったが、これは果物の香りだろう。惹きつけられるようなとても良い香りが洞窟内に漂っている。
「あっ……」
小さく零れたその声はティノからだ。
「甘くておいしぃ!」
緩んだその口元から濃く甘い香りが漏れる、既に香りの元を口にしたようだ。またたびで酷い目にあったのはついさっきの事なのに……いやティノからしたらいい目だったのかな?
それはともかく、ティノが食べているのは濃い葡萄色で瑞々しい房状をした果物。岩壁を覆う蔦状の植物で、一瞬アサシン・ヴァインかと警戒するが襲い掛かってくるような動きはない。
「ティノ、もうちょっと警戒しな「ほら、ヌィも」んぐっ」
俺の言葉は途中で遮られ、口の中に甘く濃厚な果汁が溢れる。
「なにこれ!?」
果物というよりは果肉入り飲料……いや、飲料入り果実か。洞窟で自然に冷やされたそれは喉を潤し頬を緩ませた。
「ほら、アンジェも」
「ありがとティノ」
続いてティノはアンジェの口にもその果実を運ぶ。
「んっ……美味しい」
艶やかな果実を口にしたアンジェが頬を赤らめ恍惚の表情を浮かべる。瞼がさがりトロンとした表情で躰がゆっくり揺れ……え!?これってまさか!?
「ぅぃい……ひっく」
ティノの次はアンジェか……元の世界でも木に生ったまま自然発酵する果実があるという。たぶんこれも似た様なモノで、アンジェが口にしたのは特に発酵が進んでいたのだろう。
「ぅゎぁぁ……なんかぁ、周り中がぁきらきらしてるぅ」
覚束ない足取りで洞窟の奥へとふらつくアンジェ。
「きらきらなのはぁ精霊さぁん?」
何か俺の目には見えないモノが見えているようだ。これは放っておいたら危ない。
「精霊さぁん待っ」
「アンジェ待って……え!?」
ゆらゆら揺れながら洞窟の奥へと歩いたアンジェが突然壁の方へと方向転換し、倒れる様にその中へと消えた。
「アンジェッ!?どこ!?」
ティノも突然の出来事に慌てて声をあげる。見渡しても周囲にアンジェの姿は無く、それどころか声も気配さえも感じられない。
「アンジ……ぇえっ!?」
アンジェの消えた岩壁へと伸ばした俺の腕が、その岩壁の中へと沈む。慌てて手を引き戻し、再度岩壁の中へ。抵抗はあるのだけれど、それは岩の感触ではなく戸惑いつつも……
「ぇえいっ!!」
俺は思い切ってその岩壁の中へ全身を沈めた。
「ぁあっ、ぬぃいっ」
「アンジェッ!」
耳に届いた聞き馴染んだ声。突然、目の前に広がった空間。そこには地面にぺたんと座り込んだアンジェの姿があった。
「アンジェ居たんだね、良かったぁ。心配したよ」
後ろから聞こえたのは、こちらも聞き馴染んだ声。振り向くと、そこには岩壁から半身を突き出したようなティノの姿があった。むむっ、壁と躰の境界が微妙に歪んでいる。
見えていた岩壁は虚像だった。
偽岩壁を通り抜けた時に感じた抵抗は少しエアカーテンに似た感覚だった。その抵抗を潜り抜けると目に映る光景も聞こえる音も匂いもガラリと変化した。偽岩壁は目に見えるモノを偽り、音と匂いを断ちこの空間を切り離していたのだから、やはり似たような役目なんだろう。仕組みとしては俺が戦った四翼の鷹の魔法のような感じかな。
仕掛けや仕組みはそれとして、ここは一体何の為の空間なのだろうか。
「ねぇえ、ぬぅいぃ」
思わぬ行動でこの場所を見つけた本人、アンジェはまだ赤い頬で座り込んだまま、俺の名を呼んで地面をバンバンと叩く。しかしそこで響いたのは土や岩の地面とは異なる金属音。もしかして、この場所では音も偽られているのだろうか?
「精霊さんね、この下に潜っちゃったの」
眉をさげ俺を見上げるアンジェに視線を移す。あぁ、どうやら金属音は本物だったみたい。
アンジェの叩いた地面にあったのは頑強そうな金属扉。
そう、リオーネとタウロスで見たのと同じ、あの扉だった。
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