なんで小説家になりたいの?
新人賞に応募するはずだった原稿用紙を捨てられたのは、大学から不合格通知が送られてきた日だった。何ヶ月も積み重ねてきた文書を、親父に十秒でただの紙玉にされた。
別に学業を怠ったわけではない。昔から小説家になりたかった俺は、毎日貪るように勉強をして、国語を中心に成績は常に学年一桁をキープしていた。今回の受験前も作家活動を控えて、勉強に集中していた。
でも結果は不合格。志望校が難関だったとはいえ、一年浪人が決まった時点で俺の人生が大きく傾いたのは確かだ。
父は高校の国語教師で、かなり厳しい人だ。だから不合格通知と俺の原稿を見たとき、「こんなものにうつつを抜かしているからだ」と捨てられたのだ。
俺は親父に逆らうことも出来ずに、ただ拳を握りしめて原稿が丸まるのを見ていた。
父が俺の部屋を去った後、俺はベッドに力無く寝転がった。努力を根元から崩されたような、全てを失ったような、そんな気分に苛まれた。大学受験に失敗したのと原稿を捨てられた事に、怒りや悲しみや失望が、とめどなく溢れてくる。
違う、こんな筈じゃなかったんだ。
大学に入ってさらに学問に励み、その経験を生かして小説を書いていく。コツコツと下積みを積んで、ゆくゆくはプロの作家になる。
もちろんキャンパスライフも楽しむ予定だった。賑やかなサークルに入ったり、恋愛をしたり。まだ見ぬ薔薇色の生活が待っている筈だったんだ。
でもどうだ。
現実はこの有様だ。
枕元にあった目覚まし時計を、感情に任せて床に叩きつけた。床の軋む音と共に、安物の時計は粉々になった。
もうため息すら出ない。夢を親に捨てられ、将来へと続く階段から滑り落ちて。
だいたい、親父はいつも俺に厳しいんだ。
テストの点数が少し下がっただけで外出禁止令を出すし、俺が書いた文章を見せたときも、
「こんな駄文を書くなら、人様に見せるな」
と添削で真っ赤になった原稿を突き返された。
なんでだ。妹への態度とは明らかに違う。
佳奈の方が勉強出来ないし、運動が出来るわけでもないし。佳奈が3の並んだテストを持ってきても、
「もっと勉強をしろ。兄に負けるな」
と軽く注意するだけだ。
腹の底から熱が湧き上がってきた。それを抑えるために、枕に何回も拳をぶつける。
父の去り際の台詞が蘇ってくる。
──あんな小説書くなら小説家なんぞ辞めておけ。少しは現実を見たらどうだ。
親父は文章に関してのプロだ。そのことが余計に言葉の重みを上げ、俺にのしかかってくる。
扉が開く音がした。枕を手放して見てみると、佳奈がこちらの様子を伺うように立っていた。
怒りの矛先が枕から動かないように、歯を食いしばった。
「あの……お兄ちゃん、大丈夫? お父さん、お兄ちゃんの原稿持ってたから……」
佳奈は怯えた声で聞いてくる。その声が俺には哀れんでいるように聞こえて、余計に腹立たしくなってきた。
「………出てけよ……」
「やっぱり……お兄ちゃん、私に出来る事ならなんでも」
「いいから出てけよ! 頼むからほっといてくれよ!」
自分でも驚くほど威圧的な声だった。
佳奈は一瞬固まった後、すぐに部屋から出ていった。
「……じゃないと、お前を殴っちゃうじゃないか」
小さく呟いた言葉は、扉の閉まる音にかき消された。
佳奈の消えたこの部屋には、俺の呼吸音と心臓の音しか残らなかった。そんな静かだから、頭が要らぬ思考を巡らせる。
小説は俺にとって、まだ見ぬ世界を見せてくれる窓だった。図書館や本屋は遊園地と同じくらい居て楽しいし、本を読んでいると旅行をしている気分になる。
書くことも同じだ。
自分の妄想を、夢を、感情を文字に乗せて、他人に送る。他人がどう思うかではなく、自分だけの世界を他人に見てもらえる事が何よりも嬉しかった。
文化祭では読書同好会の一員として短編を売り出したし、ネットの小説投稿サイトにも投稿している。ただ誰かに見てもらえるだけで、俺が小説を書く理由には充分なのだ。
でも俺の小説を読んだ人達は、口を揃えてこう言う。
──面白いけど、小説家になるって夢みたいな話だよね。
みんな夢物語と鼻で笑って、言葉では俺の小説を褒めてるけど、内心では俺の夢を笑っているに違いない。
悔しいが、確かに現実味の無いただの夢だ。それを思うと涙が出てきて、天井が滲んで見えた。
そうだ。どうせ小説家なんてなれやしない。これがいい機会だ。俺は頭が良い、勉強すればいい会社に就職できて…………
涙は止まらなくて、腕はベタベタに濡れて。こんな事考えたくもないのに、俺の中にいる俺が囁いてくる。
──ほら親父の言った通りだろ? もう現実見ようぜ。
「ああ! うるさい!」
「っ!?」
枕を扉に投げつけると、タイミング良く入ってきた佳奈の顔に当たった。佳奈はぼふっと落ちた枕を拾って、何も言わずに俺へと歩み寄る。
「お兄ちゃん」
いつも温厚で優しい佳奈からは、想像もできない力の入った声だった。
「あ、その………ゴメンな、さっき」
「……今から私に着いてきて」
「え? あ、ちょ」
佳奈はそう言うと、俺の手を引いて起き上がらせ、そのまま部屋の外へと連れ出した。
明らかに怒っている。さっきの事で、気に障ったのだろうか。
確かに悪い事をした。俺を心配してわざわざ声をかけてくれた佳奈を、俺は追い出したのだ。でも、佳奈はそれだけで怒るような奴ではない筈だ。
「なあ佳奈。さっきの事怒ってるのか? なら謝るから、手離してくれよ」
「怒ってない」
「いや、怒ってるだろ」
「怒ってない! 黙って着いてきて」
わけが分からなかった。
玄関に連れてこられ、上着を渡された俺はそのまま外へ連れ出された。既に日は落ちていて、家々は夜特有の寒さに包まれていた。佳奈は俺の手を離さず、そのままずんずんと引っ張る。
「おい、せめてどこに向かってるか教えてくれよ」
「秘密、そのうち分かる」
「はあ……じゃあせめて、一人で歩かせてくれよ。これじゃあ上着も着れないよ」
「ダメ」
ギュッと、俺の手を握る力が強くなる。俺はそれ以上反抗せずに、おとなしくついていくことにした。
家、電信柱、自動販売機。静まり帰った住宅街を、右へ左へ進んでいく。佳奈は俺の方を振り向かず、無言のまま俺の手を引いて歩く。
しばらく歩いていると、見覚えのある道に出た。この坂道、確か中学生の頃によく通ってたきがする。
坂を上り続けると、道の脇に小さな公園が現れた。それを見て思い出す。
この公園は、昔佳奈とよく来た場所だ。ここから見える景色は綺麗で、俺達の住んでいる街を一望できる。
「ここが目的地か?」
「うん、到着」
佳奈はいつもの柔らかい声で言うと、俺の手を離した。振り返ったその顔は、いつも通りの優しい顔だった。
でも、佳奈はなんで俺をここまで連れてきたんだろう。全く分からない。
「なあ佳奈、なんでここに連れてきたんだ?」
「……お兄ちゃん、ここがどこか覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。俺と佳奈がよく遊んでた公園」
あの頃の佳奈はまだ、小学生だった。よくお兄ちゃんお兄ちゃんと、手を引かれてここにやって来たものだ。
「じゃあさ、これは覚えてる?」
佳奈が指さしたのは夜景ではなく、真上。空だった。その指に従って見上げると、俺は全てを思い出した。
そこにあったのは、満点の星空。
大小様々な星が宝石箱をひっくり返したように散らばっていて、それぞれが明るく輝いている。
言葉では表し切れない、それくらい綺麗な星空だった。
そうだ、俺と佳奈は、この星空を見るためによくこの公園に来ていたんだ。
口を開けたまま空を見上げる俺の隣に、佳奈が立った。俺達はしばらくその神秘的な景色を楽しんだ後に、ベンチに座った。
「お兄ちゃん、なんで小説家になりたいと思ったの?」
佳奈が俺の顔を覗きながら聞いてくる。あの景色を見た俺は、それを明確に説明することができた。
「昔、よくここに来ただろ?」
「うん。私が行きたいって、今日みたいに手を引いてね」
「そう。で、その度に俺は感動してたんだよ。なんかこう、宝石箱を開けた瞬間みたいな」
「なにそれ、分かりにくい」
佳奈はクスクスと笑う。昔から変わらない、可愛らしい笑い方だった。
「だろ? だから俺は、この感動を誰かに伝えたかったんだ。写真じゃなくて、絵でもなくて。文章で、文字で、物語で」
この言葉に出来ない感情を、ただ誰かに伝えたかった。それが俺の夢のきっかけだった。
「……じゃあさ」
佳奈は囁くように言った。
「お兄ちゃん、小説家諦める必要ある?」
「……………え?」
突然の言葉に、一瞬思考が停止する。
「見てれば分かるよ、妹なんだし。お兄ちゃん、お父さんに言われて小説家になるの諦めようと思ってたでしょ」
「………ああ、思ってた」
思いたくはなかった。でもそれをいくら否定しても、もう一人の俺が囁き続ける。
──現実を見ろよって。
「でもさ、お兄ちゃんって『仕事』として小説家になりたいわけじゃないでしょ? 誰かに自分の意思を伝えるっていう『夢』を叶えるために、小説家になりたいんでしょ?」
佳奈は優しい声で言った。
「だったらさ、諦めたらダメだよ。簡単に夢を諦めたらさ」
その言葉は自然と耳に入って、頭の中を駆け回った。優しく俺を包んで、俺の心が揺らぎ始める。
でもやっぱり、大きな壁は崩れない。
「お前だって分かってるだろ? 親父がそんな事許さないって。将来性がないだの、こんな駄文書くなら辞めちまえだの……」
俺は親父に逆らえない。あの時だってただ原稿が丸まるのを見ているだけだったし、今後もきっとそうなる。中途半端に俺に根付いている良心は、親に逆らう事を良しとしない。だから俺は、親父に逆らえない。
「やっぱり、お兄ちゃん気づいてなかったんだね。お父さん不器用だし仕方ないかな?」
佳奈はまたクスクスと笑う。俺はその意味が分からなかった。
佳奈は少しの間笑った後、俺の顔を見て言った。
「お父さん、お兄ちゃんに才能無いって言ったことある?」
「そりゃあ、いつも……」
その先が言えなかった。だって、俺の記憶にそう言われた記憶が無いから。
「ね? それにさ、お兄ちゃん私にはちゃんと話したけど、お父さんには『夢』のこと話してないでしょ? それじゃあダメだよ。私だってお兄ちゃんが『仕事』で小説家になるのは反対だよ。でもそれがお兄ちゃんの『夢』なら、私は全力でお兄ちゃんを応援する。でも、お父さんはどうだろう。お兄ちゃん、お父さんには小説家になりたいとしか言ってないし」
佳奈は空を見上げて呟いた。
「やっぱりさ、言葉にしなきゃ伝わらない事ってあるんだよ」
…………俺はどうやら、勘違いをしてたようだ。
頭の中に渦巻いていた感情が飛んでいき、気持ちが一つにまとまる。
もうやる事は決まった。俺は勝手に親父を勘違いして、勝手に悩んでた。その時間を取り戻す。
「……ありがとな、佳奈」
「ん、別に」
俺は佳奈の頭を撫でた。佳奈は猫のように唸って、俺の肩に顔を寄せた。
こんな妹を持っている俺は、幸せ者だな。
「さ、帰るぞ」
「えー、もう帰るの?」
俺は立ち上がって、半分になった月に向かって言った。
「今ならいいもんが書けそうだ!」
俺の机には、クシャクシャになった原稿用紙が置いてあった。
赤ペンの添削やらコメントで真っ赤になった紙の端には、こう書いてあった。
──お前の夢を他人に押し付けるんじゃなくて、夢をみんなに見てもらえるように書け。少しは現実を見据えて書いてみろ。
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