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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

スイートピー

作者: 青空

もう長く、しとしとと雨が降っていた。灰色の空はずっしりと重く頭上にのしかかっている。

人も動物も、自らの家へと帰り、辺りはしんと静まりかえっていた。

全てが時を止めているかのような世界で、1人の老婆が窓辺で安楽椅子に座り、もくもくと刺繍をしていた。小さなテーブルに置いてあるランプが柔らかく老婆の手元を照らしている。

ふと老婆が刺繍の手を止めて、窓の外を見る。

空は相変わらず涙を流し続けていた。

老婆はそっと呟く。

「そう言えば、子どもの頃の私はこの空のようだったわね。」

そして目をゆっくりと閉じ、昔の思い出の中へと旅立った。


私はあの頃、とても荒んでいた。

父は過ちを侵し家を出て行き、母も私を顧みることなく不毛な愛に溺れていく。

まだ自立するには生きていくための知識も、1人で生きていくための強さも、何もかもが足りなかったあの頃。

父にも母にも構って貰えずどうにか生きるために泥水を啜って、そこいらに生えていた雑草をちぎって食べていた。

もともと身体が丈夫だったおかげで病気にはならなかったけれど、両親も周りの大人たちも私のことを少しも気にかけてはくれなくて、傷だらけの心は真っ赤に染まっていた。

生きていくのに必死だった私に友だちなんて作っている時間も体力もなくて、ただ1人で生きるために生きていた。

寂しくはなかった。

悲しくもなかった。

怒りさえなかった。

家族を捨てた父と、娘を捨てた母を見て育った私にはすっぽりと感情が抜けていた。

その日、うららかな陽光に照らされて、今日はお腹いっぱい食べられるだろうかとぼんやり考えて小道を歩いて居た私に、

「ねえ。」

と呼びかける声が聞こえた。

私はその声を聞かなかったことにして歩き続ける。

どうせだれかが私ではない人に呼びかけたのだ。ここ数年間、私に話しかけた人間はいなかったのだから。

それなのに、その声はしつこく呼びかける。

「ねえ、ねえってば。」

だんだん語気が強くなって、グイッと肩を掴まれた。

一体何だと振り向くと、そこには綺麗な服を着た女の子が立っていた。

「やっとこっち向いた。ねえ、あなたは1人で何をしているの。」

彼女は柔らかそうな髪をふわりと揺らして首を傾げた。

別にあなたにはそんなこと関係ないではないか。

そう言いたくて口を開いたけれど、言葉が紡がれることはなく、変わりにガサガサとした音に近い声が出た。もう一度言おうにも、舌が回らなかった。喉が震えてはくれなかった。

コンコンと何度か咳払いをして話そうとするけれど、やっと出た声は掠れていた上に小さくて自分でも何を言ったのかわからなかった。

そうか、私はすでに言葉さえ話せなくなっていたのか。

そう思うとなんとなく笑ってしまった。

「声が出ないの。何がおかしいの。」

彼女がそう私に聞く。彼女の顔はとても困っているよに見えた。

私は頷いた。話せないのならもう頷くか、首を横に振るかでしか自分の意思は表すことができない。

「あなた、家族はどこ。」

また質問をされるけれど、答えられない。

父は家を出て行ってしまってから一度も会っていないから行方などわかるはずもなく、母は恋人のところできっと幸せそうに笑っているのだから私なんていらないだろう。

私に本当の意味で家族はいない。

答えない私に彼女はなおも質問を続ける。しつこく、しつこく、しつこく。

私は彼女を無視してその場に座り、地面を見つめた。

そこには細長い葉っぱ。

これは確か食べることができたはず。

私はこの草を摘み取って口へと運んだ。

「あ、ちょっと待って。何食べようとしているの。」

彼女が慌てたように私の手を掴んで止めた。

私はイライラして彼女を見上げる。

食事の邪魔をしないでほしい。食べなければ明日飢えて死んでしまうかもしれないのだ。

彼女は私の視線に気付いたのか、眉を寄せた。

「もしかしてあなた、いつも草を食べているの。」

そう訊く彼女に頷いて見せた。

草でお腹は膨れないけれどこれまで草と虫を食べて生きてこれたのだからきっと悪いものではないはずだ。草は私の主食である。

しかし、彼女は違うらしく、

「そんな草食べちゃダメ。私がご飯を用意してあげる」

と言っておもむろに私の手を掴んだ。そして私を引きずるように歩き始めた。

無理矢理引っ張られる腕が痛い。

もつれる足を必死に動かして転ばないように一生懸命彼女に着いていくと、いつの間にか私は知らない家の前にいた。

彼女は私をその家の中に招き入れて、ふわふわのパンをくれた。

久しぶりの人間らしい食べ物は仄かに甘くて、良い香りがした。貰った水も泥臭くなくてとても美味しい。

私は彼女から貰ったパンと水を数刻も経たないうちにお腹の中に収めてしまった。

彼女は言う。

「私、ここに引っ越してきたばかりで友だちがいないの。だから、友だちになって」

その申し出はありがたいけれど、私は首を横に振って断った。

友だちなんて曖昧な繋がりを私は信じられなかった。家族でさえこんなにバラバラなのだから、友情なんてもっと脆いに決まっている。

しかし彼女は諦めなかった。

来る日も来る日も私に話しかけて友だちになろうと言ってきた。

私は酔狂な人もいるものだと彼女を見ていた。

それでも、話しかけられているのに返事ができないのが心苦しくて、必死に喋る練習をした。

出なくなった声はなかなか戻らない。

咳払いをすれば少しだけ声が戻るものの、長続きはしない。

喉がまるで凍りついたかのように震えることはなかった。

話せないと暗に伝えても友だちになりたいという彼女に押し切られる形で、私は彼女の友だちになった。

彼女と話しているうちに、ゆっくりと話せるようになっていった。

数ヶ月が経ち、さらに数年が経ち、私も彼女も立派な娘さんになった。

相変わらず彼女は私に話しかけてくる変わり者だった。

その彼女がある日、不意に私に尋ねた。

「なんであなたは私にも他人行儀なの。もう友だちになって長いのに」

私はふと彼女に笑いかけて答えた。

「人の心は、変わるから。」

私の言葉に彼女は眉を寄せた。

「どういうこと。」

そう問われて思い出す、父と母の背中。

「人の心に、永遠はない。人の心は常に移ろっていく。だから、永遠の愛は、夢でしかないから」

はかないは、人の夢と書いて儚いという文字になる。

人の夢は儚いのだ。

当たり前のことのはずなのに、彼女はさっきよりもさらにぎゅっと眉を寄せ、目を潤ませた。

「永遠の心は、あるよ」

その言葉になぜかキュッと胸が苦しくなる。

これは何だろう。今まで感じたことがなかった感覚。

「もし、あなたが永遠の心があることを信じられないなら、私が証明してあげる。だから、私が一生あなたの友だちでいることができたら、永遠の心を信じて。」

そう言った彼女の姿がぼやけていく。

目の奥が火傷しそうなほど熱い。

こんなの、知らない。こんな感覚も、感情も。

「う、あ」

私の口から小さな湿った声が漏れる。

ポロポロと熱い雫が頬を伝う。

すっぽりと抜け落ちてしまっていたと思っていた私の心。それはただ眠っていただけだった。

起こしてくれたのは、彼女だった。

拭っても拭っても、溢れる雫はトマらない。

私は本当は信じたかったのかもしれない。本当は永遠に変わることのない心を。

幼い頃手に入れることのできなかった、不変の愛を。

柔らかな光が私たちを照らす。

私は朧げと見えた彼女に抱きついた。

彼女は陽だまりのように温かく、お日さまの匂いがした。


しとしとと振っていた雨が止んで、雲の隙間からあの時と同じ、柔らかな光が老婆に呼びかける。

老婆は幸せそうに眠っていた。

その手には満開のスイートピーの刺繍のハンカチが握られていた。




呼んでくださりありがとうございました‼


老婆⇒回想部分の私です



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