勇敢な罪
「即興小説トレーニング」というサイトで、「勇敢な罪」というお題で書く、という課題で書きました。多少修正してお送りしています。
(言わなきゃ……今、言わなきゃ)
朝早い通学電車の車内で、絵里は相手に気づかれないようにちらりと向こうを見やった。
絵里の視線の先には、シートに座る男子学生。高校生くらいだろうか。黒いまっすぐな髪は清潔そうに整えられ、細いフレームの眼鏡の奥は切れ長な瞳。絵里は電車の進行方向左側の扉に立っていて、件の男子学生はその斜め前に座り、少し眠そうな顔をしながら文庫本を読んでいる。
彼は火曜と木曜だけはこの早朝の電車に乗ってくる。クラブの朝練で、毎朝早朝投稿している絵里はそれをよく知っていた。
ごくり、と絵里の喉が鳴った。幸い電車内は朝早すぎるせいか人影もまばらで、今ならまだ恥ずかしい思いはそんなにしないだろう。自分を叱咤激励しながら、掴まっていた手すりから手を離した。
そうよ、ちゃんと言わなきゃ。今、私がこの電車で彼に会えたのは、このためだったんだ。
今私の心の内にある思いを伝えるため……!
絵里は勇気を持って一歩を踏み出した。
「あの」
小さな声で、目の前に座る彼に声をかけた。だが彼は、本によほど集中しているのか絵里の声に気がついていない。
「あのっ」
絵里はもう少し大きな声で呼びかけた。すると、さすがに気がついたのか、男子学生は顔を上げて絵里を見た。彼は、絵里を認めると、目を大きく見開いた。
「君は」
「あ、あのっ、そのっ、おは、おは、お話がっ」
つっかえつっかえ声を出すと、どんどん顔がかああっと熱くなっていくのがわかる。でもここでひるむわけにはいかない。ちゃんと彼に伝えるって決めたんだから……!!
すると、彼はちょっと顔を赤くして、嬉しそうにほほえんだ。
「はい、なんでしょう?」
その微笑みは実に美しく、絵里は心臓がばくばくと音を立てるのをひたすら聞き流すしかない。絵里は知らないことだが、この男子学生は、彼の通う学校では「王子様」と呼ばれてファンクラブまであるような存在なのだ。その笑顔をまっすぐ向けられると、その破壊力は世界レベルの条約で使用禁止武器の項目に入れられてしまうほど。
そんな終末兵器を目の前に、絵里の心臓は破裂寸前だ。
それでも、それでも!
どうしても伝えなきゃ!
絵里はなけなしの勇気を振り絞って、彼の耳元に口を寄せた。
(……チャック、開いてますよ)
「!!!」
彼はがばっと跳ね起き、脇に置いていた鞄を膝の上に抱えた。一方の絵里は、恥ずかしそうな真っ赤な顔のまま、ちょうどそのとき開いたドアから飛び出していった。どこかの駅に着いたのだ。
後にはさっきまで赤かった顔を蒼白にジョブチェンジさせた彼が車内に残されていた。
電車から駆け下り物陰に隠れて、絵里は密かな達成感に満たされていた。
あのままじゃ彼はズボンのチャックが開いたままで登校することになる。顔から火が出るほど恥ずかしかったけど、あんなイケメンに風通しのよい股間は似合わない。
お互い恥ずかしい思いをしたと思うけど、彼のためよ。私は、いいことをしたんだ。
そう考えてぎゅっと手を握ってガッツポーズをして、絵里は次に到着した各駅停車に乗り込んだのだった。
*****
啓介は今年度生徒会長に当選してから見事な手腕で職を全うしてきている。生徒会のメンバーにも恵まれ、生徒からも先生からも信任厚く、正直順風満帆な高校生活だ。
生徒会では週に2回、火曜と木曜に早朝会議を行ってきた。朝早い時間は頭の回転も速く、仕事がとてもはかどるからだ。
なので、本当はちょっとだけ面倒だが、この二日はいつもより全然早い時間の電車に乗っている。
そこで啓介は、一人の女の子に出会った。
彼女はいつも扉のところへ立っている、よその高校の生徒。同じくらいの年だろうか。座席はたくさん空いているのに何故だろうと思っていたが、そう思って眺めているうちに、彼女のことが気になるようになってきた。
物憂げな表情(ただ眠いだけ)、柔らかそうな長い髪(美容院に行くのがめんどくさいから伸ばしてるだけ)。これを恋と呼ぶのかと気がついたら、どんどん気になりだして、今ではちょっとおっくうだった火曜と木曜が楽しみでしょうがなくなっていた。
そして今日、奇跡が起きた。
あの子が、座る啓介の前に近づいてきたのだ。
「あのっ」
呼ばれる声で瞳をあげると、例のあの子が真っ赤な顔をして立っていた。
なにやら必死に決心しているような思い詰めたような顔で、自分を見ている。
ひょっとして、これは、いわゆるひとつの告白というでっかいイベントでしょうか……?
ずっと好きだった子からの告白(してくれるかもしれない)という状況に舞い上がった啓介は、できるだけ優しい表情で彼女を見上げた。
彼女は僕に好きだと告白してくれるだろうか?ああ、そうだといいな。
こんな必死に真っ赤な顔をして、なんてかわいいんだ。
告白されたらもちろん二つ返事でオッケーして、まずは今までわからなかった彼女の名前を聞くんだ。
どうしよう、うれしい。
そんな気持ちが啓介の中をぐるぐる回る。
けれどやがて耳元でささやかれた言葉は、啓介の予想の斜め上を飛んでいった。
(チャック、開いてますよ)
瞬間、何を言われたかわからなかった。新手の告白の台詞かとも考えたけど、コンマ一秒以下でその可能性はつぶれ、唐突に啓介は自分の勘違いに体中から血の引く思いを体験した。
彼女は次の瞬間、恥ずかしそうに電車から駆け下りて行ってしまった。
啓介は呆然としていたため電車から降りそびれ、その後次の停車駅まで、車内に居合わせた乗客からの生暖かい視線に晒されることになる。
啓介が絵里に猛烈なアタックをかけ始めるのは、この直後のことであった。