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居間はストーブがついていて、凍りついた私を溶かしてくれる。
二時間半に及ぶ稽古から解放された私は、畳に突っ伏してぐったりしていた。
六歳に二時間半もの稽古をつけるものではない。疲れきってしまい、終わると同時に眠気が襲ってきてしまうからだ。しかしこの厳格な家は、疲れたからといってその辺で眠る事は許さない。眠るのは夕食後、風呂に入ってからきちんと布団を敷いて、だ。それ以外で眠るのは「だらしない」なのだそうだ。もっとも、こんなことを言うのは祖父母だけだ。
両親はそんなことは言わない。疲れたならば寝て、しっかり身体を休めるべきだと思っている。だから、私が稽古が終わって居間に行くと、必ず母がいる。私が寝てしまっても、祖父母に見つからないように誤魔化すためだ。母しかいない居間は、寝てもいいよ、の合図になる。
けれど今日は、疲れているにも関わらず眠れなかった。ごろごろと何度も寝返りを打つ。意識はぼーっとしているが、今一つ眠るには至らない。
スタスタと廊下を歩く足音がする。たぶん祖母だろう。
「凉美さん、こちらにいらっしゃるかしら」
「はい、おりますお義母さん」
「希歩を見かけないのだけれど、どこにいるかご存知かしら」
「そうですねぇ……大方お隣に出掛けているのでしょう、またしばらくしたら呼んできますので」
「全く、少しは落ち着いていられないのかしら。今日は稽古に遅れたとも聞きました……。凉美さん、貴女もしっかりご指導なさい。仮にもあの子は佐倉家の剣士なのですからね」
ちくり、と心に刺さるものがあった。返しが付いているのかなかなか取れない。
「重々承知しております。この家の恥になりませんよう、しっかりと言っておきます」
それを聞くと祖母は戻っていった。
祖母も、祖父同様に厳格だ。祖父ほど怒りっぽいわけではないが、その冷たく刺さるような視線と口調はきっと誰にも負けはしないだろう。
私はそれが大嫌いだ。否定的で、差別的なそれを、どう好きになれというのだろう。さらに嫌なのは、それが母に向けられることだった。
母――佐倉涼美は、佐倉家において唯一剣道ができない。佐倉家に嫁ぐのは剣士、という約束事は、それこそ家が成ったときから続くものらしいが、父はそれを破って母を迎え入れた。無論、その前には一家、それどころか一族まで巻き込んでの大騒動に発展したらしい。その中でも父と祖父の言い争いは壮絶だったそうで、激怒する祖父に向かって父は
「剣士なら剣道以上に大切なものも見つけるべきだ!守るものがあって俺は強くなってきた!だからこれからは彼女を守るために剣道をする!彼女と結婚することが駄目なら俺は剣道を辞める!」
と言い放ったらしい。流石の祖父も言い負けて、父と母の結婚を了承したらしい。
だが祖母は違った。表向きには二人の結婚を祝福していたが、夫の決め事に妻が口を挟む、ましてや反論するなどあり得ない時代に生まれた人間だからそうしていただけで、内心では祝福などこれっぽっちもしていなかった。
だから、母は嫁いでからずっと、佐倉家でどこか寂しく悲しい思いをしてきたらしく、姑との仲が悪いのは嫁としては肩身の狭いものなのよ、といつだったか母に聞いた。さらに祖母は私が産んでからというもの、剣道ができない者の娘を一流の剣士にできるのか、というプレッシャーを言葉の随所に入れてくる。私がさっき感じたものはそれだった。
私は、父のおかげで(祖父のおかげだとは思いたくない)剣道ができる。できてそれでもなお冷たくされるというなら、仕方のないことだと割り切れる。少なくとも私はそう割り切った。しかし、剣道ができない者がそれだけで冷たくされるというのは、私にとって割り切れる事ではなかった。物心が付き、それらが感じられるようになって以来、心のどこかで何故、何故と思い続けてきていたのだ。
そんな私がこの状況をどうにかしようと――勿論、それを割り切ったわけではない――考え尽くした結果。それは剣士としての腕を磨くことだった。たとえ剣道ができない者の子であったとしてもできるのだと証明すれば、母はきっと祖母から冷たくされたりしない。そうすれば――。
「……ほ、希歩っ」
「うわぁっ、お、お母さん?」
「もう、どうして驚くのよ……」
「突然呼ばれたから……」
「私は何度も呼んだわよ?ぐっすり寝ちゃってたからかしら」
母は微笑む。
知らぬ間にかなり考え込んでしまっていたらしい。母にはこの考えを知られたくない。それはそれで、母はきっと気に病む。私はこの母の笑顔が消えないように、消されないように守らなくては。
「そんなことは置いといて……、さっきおばあちゃんが来たの。それでお母さん咄嗟に希歩はお隣にいますって言っちゃったから、ちょっとお隣まで行きましょ」
「うん、わかった!ありがとうお母さん」
本当は全て聞こえていたけれど、それを口に出したりはしない。
今はまだ、母が私を守ってくれる。でもいつか私が母を守るのだと、そう誓って母の後を静かについていった。