東――まだまだはじまり
メグは悩み事なさそうで羨ましいね――
この前の金曜日、同級生の女の子に言われた。褒められてなんかいない、皮肉だ。小学校が同じだったから、遠慮なく言ってきた。どうやらテストの結果のことを言っていたらしい。
おれもその子も成績はほぼ同じ。
平均が四十点だ。
別に中学生になっていきなり成績が下がったわけではない。おれはもともと成績がいいほうではないし、おれはそれを解っている。だからこそ、あの子は苛立ったのだろう。あの子の成績は中学生になって急落したのだ。
中学生初のテストを終え、おれは街を探検してみることにした。
といっても、生まれてからこのうろな町以外で暮らしたことはない。ただ、うろな町がどんな街なのかも知らずに生きてきたのは事実。広大な町の真ん中にあるマンションで暮らし、この街の自然や街並みをろくに知らずに生きてきた。興味もなかった。
でも、無性に外に出たくなったのだ。この街の端から端まで見てみたい。
おれは自転車に跨った。
うろな町の東側は都会だ。海に面していて、その港を活かした商業施設や観光施設が発展している。『うろな町は海も山もある、自然豊かな街』だと小学校の総合の時間や社会科の時間で耳にタコができるほど教えられた。
東の街は観光業の一翼を担っているのだ。
風に煽られ揺れながら、自転車を必死に漕いでいくと、運動場が見えてきた。高いビルのあるような場所からはもう離れていた。防風林の向こうで、少年野球や少年サッカーの試合がちらちらと見えている。
わき見運転をしながら走っていると、目立つ青色のユニフォームを着た男の子が見えた。サッカーボールのようなものを手にしているが、その少年のユニフォームのチームは、数十メートル手前で試合をしていた。
声をかけてみることにする。男の子の前で自転車を停めた。
「少年」面白半分で、ちょっと年上ぶった呼び方をしてみる。「試合じゃないの?」
小学校四年生くらいの男の子が顔を上げた。
「オレ、試合ないんだけど」
「え? そうなの? ユニフォーム着ているのに?」
すると、男の子は目を逸らした。まずい、大変なミスをしでかして監督に追い出されてしまった、というような理由があるのかもしれない。
「オレ、試合出られないんだよ」
「ああ、ごめん……無神経なこと言ったかな?」
「いや、そうじゃないよ。ほら、これ見れば分かるから」
そう言って、少年はおれのほうに右脚を伸ばした。
短パンの脚は、ぱっと見たところ普通で、なんの問題もない。サッカーができないような脚には見えない。でも、もう少し見てみると、はっきりと解った。
ふくらはぎの内側あたりから裏側にかけて、うっすら、すうっと赤い筋が走っている。
結構前にできた傷のようだ。
「手術、したの?」
「そう。一年前、交通事故に遭ってね。ちょうど、ええと……」
おれの呼び方に困っているらしい。
「おれは豊栄巡。中学一年生。『メグ』って呼ばれてるんだ」
「女の子みたいだ」
「よく言われる」
「オレは伊東春樹。小学校四年。よろしく。
……それでさ、オレ、ちょうどメグみたいに自転車に乗っててさ、ほら、あのビルの向こうに大きな道路があるのを知ってる?」
指さすビルの脇をおれは通ってきたばかりだ。頷いた。
「あそこの交差点で、急ブレーキした車をよけようとして、転んじゃったんだ。それで、下手なことにチェーンが引っかかってさ、脚がずばっと」
「切れちゃったんだ。痛々しい」
「できれば痛々しいってのやめてよ。また痛くなっちゃう。気分的にさ」
春樹くんは苦笑いしながら肩を竦めている。大きな傷は春樹くん本人の怪我であって、おれの怪我ではない。お節介な言葉はよくないのだろう。微笑んで頷いてあげた。
「それで、医者からサッカーは、試合みたいな激しいプレーは当分するなって言われた。案外大きな怪我だったみたい。そうそう、オレ、これでもエースだったんだ」
「へえ、そうなんだ」
春樹くんの言った『これでも』というのは、春樹くんの体格のことだと解る。背が低く、どちらかといえば弱々しい体つきだ。
手に持っていたボールを投げ、リフティングを始めた。確かにその動きはなめらかで、本人も楽しそうにボールを操っている。鼻歌でも歌いそうな顔でやっているのに、放っておけばいつまでも、ボールを落とすことなく続けられるんじゃないかと思った。
ぽん、とおれのほうにボールを寄越してくる。しかしおれは普段スポーツをする方ではないから、遠くへボールをぶっ飛ばしてしまった。
「ああ、残念。三十二回でストップ」
おれがボールを拾って戻ると、春樹くんが自慢げに笑っていた。
「本当に上手だね。サッカー、好きだったの?」
「『好きだった』じゃなくて、『好き』なの」
「ああ、ごめんごめん。でもさ、怪我で満足に好きなことができないって、どういう気持ちなのかなって」
春樹くんが上を向く。そして今度は足元で、ボールをころころといじりはじめた。
「サッカー、したいさ。したくてたまらない。たぶん怪我する前より好きだね」
「前はそれほどじゃなかった、てこと?」
「……そうかもね」春樹くんが難しい顔で無理に微笑む。「前はさ、エースだったものだから監督も周りもうるさくってさ。練習もあんまり好きじゃなかったな」
期待されていたんだ。そして、自分の重荷をちゃんと感じていた。一方でおれは、どうだろう? 期待されるどころか、『楽そうだ』と言われる。
でも、それなら春樹くんに訊きたい。
「でも、したくなかったサッカーができなくなると、サッカーが恋しくなった、てこと?」
「そうだよ」
「練習どころか、ウォームアップくらいのことしかできないのに?」
「うん。むしろ、いまからなら基本中の基本から練習しまくって、サッカー選手になりたいと思える。前は、サボりたい日のほうが多かったけどさ」
素直に話す春樹くんを見ると、春樹くんが怪我の前後で人間性を大きく変えたということが分かる。意図的な変化なのかは分からないけれど、やっぱり変わった。きっと前向きな人間になったのだと思う。
サッカーができない。
苦しかったのだろう。
人を大きくするのは、苦しみや我慢、悩みなのかもしれない。
「やめられない?」
「やめたくないね。それに、単に好きだって話じゃないさ」
首を傾げると、春樹くんは少し恥ずかしそうに笑いながら、
「ちょっとこっち来てみなよ」
どん、とボールを蹴る音が響く。少年サッカーなのに迫力がある。
「春樹くんのチームだね?」
「そうだよ」
「行かないの?」
「行きたくない。だってさ、サッカーしたくなっちゃうもん」
「まあ、そうだよね」
「それだけじゃないから連れて来たのさ。ほら、あそこ」
指さす先に、大学生か高校生くらいの女の人がいる。長い髪を揺らしながら、コートに声援を送っている。
「綺麗な人でしょ?」
「そうだけど……どういう人?」
「チームメイトの年の離れたお姉さん。見に来てるだけだけどさ、うちのアイドルだよ」
「へえ、好きなんだ」
からかって言うと、春樹くんは顔を赤くした。
「何言ってるんだよ! チームメイトのきょうだいだし、何歳上だと思ってるのさ」
否定する箇所からして、からかわれても自分は満更でもないらしい。
こほん、と咳払いのふりらしき下手な演技をして、春樹くんが続ける。
「あの人がさ、オレの世話をよく見てくれたんだよ。怪我する前からさ、オレのプレーを褒めてくれたり、オレの夢を聞いてきたり、やる気のないオレを引っぱたいて練習に引っ張り出したり。怪我をして入院しているときはお見舞いに何度も来てくれたよ」
「好かれてたんだ、あんな綺麗な人に」
お世辞のつもりだったが、春樹くんは照れてしまって耳まで赤くしてそっぽを向いた。
そのまま、むすっとした声で続ける。
「あの人に応援されているうちは、サッカーがしたくてたまらないんだよ。分かる?」
頷く。
本当は、諦めない気持ちをおれは理解できていない。34点のテストを見ても、悔しくなければ悲しくもなかった。次こそは頑張ろう、という気持ちも起こらなかった。ただただ、『ははん、こういう点数だったんだ』と思っただけ。
でも、春樹くんは諦めたくないのだ。
「せめてさ、足を普通にして、サッカーの練習にくらい顔を出したいんだ。エースじゃなくてもいいし、スタメンじゃなくてもいい。試合のメンバーじゃなくたっていい。もっと真剣にサッカーをしてみたいんだ。応援されて気持ちいいって気持ちになりたいの。ついでに、チームメイトの応援だってしたいしさ」
「応援、ねえ」
「そう。いままでは応援されっぱなしだったから。元気なときは『がんばれエース』だし、怪我したときは『早く良くなってね』だもん」
「なるほど。だったら、いま見に行ってあげれば?」
「ううん。もっと良くなってから。そうだ、練習中の流れ弾を蹴って返してやってさ、そこでオレが登場ってのはかっこよくない?」
「いいんじゃない?」
にひひ、と春樹くんは楽しげだ。大人なことを考えているけれど、中身はまだ子供。
グラウンドでホイッスルが鳴る。前半が終了したらしい。がやがやと観客たちが賑やかになる中、春樹くん意中の女の人が振り返った。
「げ、オレがいるってばれちゃう。じゃあ、またね」
そう言って、春樹くんが逃げ出してしまった。ボールを置いて行ったままだ。
振り返った女の人は、おれを見てきょとんとしている。おれはボールを拾って、そちらへ歩いた。
「春樹くんの友達ですか?」
女の人がおれに問う。近くで見るととても綺麗な人だ。
「はい。あの、このボール、届けてあげてくれませんか?」
「いいですよ。……春樹くん、がんばっているみたいですね」
「あ、知っていましたか?」
「みんな知っていますよ。ばればれです。すぐに戻ってくればいいのに」
「そうでしたか。でも、チームに戻るのは先ですよ。春樹くんのリハビリはまだまだはじまりです。怪我よりも、気持ちが治っていないようですから」
「気持ちが治っていない?」
「ええ。あれは間違いなく、恋の病でしょう」
「あらまあ。なら、副作用でサッカーはすぐに元通りですね」
うふふ、と慎ましく笑った。確かにそれは、魅力的な笑顔だった。
自転車を風が揺らす。
おれの心が騒ぎだす。
何かのために、諦めない。とても強い力になるのだろう。
おれにはそんな決意はない。こうして街を回っているうちに、そんな決意が固まる日が来るのだろうか? だとしたらおれは、一体どんなきっかけで、一体どんな変化ができるのだろう?
いずれの日か、おれは勉強をし、挫折をし、恋をし、不満足を嘆くことだろう。
おれはたぶん、もっと、日々を感じて生きたほうがいい。できの悪いテストやクラスメイトの皮肉に不満を感じ、自転車を漕ぐ快感を嚙みしめて生きてこそ、好きなものを見つけ、好きな人を見つけられるのだろう。
もっと素敵な人に出会ってみたい気分になった。
もっとうろな町を巡ってみたい気持ちになった。
まだまだはじまり。
疲れた足の痛みも、海風も、気持ちよく思えてきた。