九十八
医療機器もベッドも運び出され、テレビが置かれたキャビネットと俺の座る椅子のみが残された部屋を出たのは、どのくらい後だったろう。紗江子の病名を知らされた時同様、夢遊病者のようにフラフラと階段を上がり、屋上への重いスチールドアを開けた。そしてギターの弾き語りを聞かせた緑化庭園まで歩き、俺は膝から崩れ落ちた。雪の舞う屋上だが、寒さも冷たさも感じられない。生きたまま内臓をもぎ取られたような気分だった。心が折れるというのはこんな状態をいうのか、絶望という名の底なし沼にずぶずぶと沈んでゆくような感覚に囚われていた。
ひとが自ら命を絶つ時は、こんなものなのかもしれない。紗江子の傍に行きたいなどという考えがあった訳ではない。ただただ空虚だった。精神が肉体の指揮を拒否していた。思い通りに動かない体で苦労してフェンスを乗り越えようとしたその時、包帯の巻かれた指に激痛が走り、ジーンズのポケットからなにかが落ちて乾いた音を立てる。ICレコーダーだった。病室を出た俺に看護師が手渡してくれたものだった。手に取って再生ボタンを押すと耳慣れた、そしてもう二度と聞くことのできない紗江子の声が流れてきた。
――痛みがひどくって、咳をすると動けなくなってしまうの。聞きづらかったらごめんなさい。あたしはもう長く生きられないように感じます。だから意識のしっかりしているいまのうちに伝えたいことを残しておきます。
ICレコーダーを握る手に力がこもる。
――父に捨てられたあたしです。愛するひとがいなくなる哀しみはわかるつもりよ。あんなに深く愛してくれたジュンを哀しませるのが体の痛みよりも辛いです。でも約束して、あたしの分まで生きてくれるって。あなたにはお母様も祥子ちゃんも由里ちゃんも、そしてたくさんのお友達が居ます。妬けちゃうけど、永遠を誓ったひとだっているのでしょう?
枯れ果てたと思った涙が再び溢れ出てきた。
――ジュンの敬愛するエリック・クラプトンさんの歌をネットで調べました。あなたが心配するからいえなかったけど、右目がかすんでしまっているの。携帯の小さな文字は、読むのに苦労しちゃった。天国へ行ったお子さんに贈った曲だったのね。どうりであたしには聞かせてくれなかったはずだわ。『ここは自分のいるべき場所ではない。強くならなきゃ、しっかりしなきゃ』そんな歌詞だったわよね。だから、あたしを追いかけたりしてはだめ。
激痛と闘いながらなのか、朦朧とする意識を奮い起しながらなのか、或いは、その両方だったのだろう。途切れ途切れだったり空白が続いたりだったが、俺にはそこに紗江子が居て語りかけてきてくれるように感じられた。
――自惚れちゃったかな? ジュンは強いひとだからそんなことしないわよね。でも、どうしてもそれだけを伝えたくって……。
自惚れてなんかないさ。君の声がなければ俺はとっくにそこから飛び降りていた。在りし日の紗江子が眼の前でクッキリと像を結んでいた。