九十七
別れは突然にやってきた。
「敗血症のようです、カテーテルを入れ替える際、充分に注意は払っているのですが、白血球の数値が低すぎて免疫力が極端に下がっているための感染だと思われます。抗菌薬の投与で合併症は防げると思いますが、先日の無理がたたっているのでしょう。心臓への負担が大きいようです。予断は許しません、このまま熱が下がらないとなると……」
心電図モニタを見ながら西尾医師が言った。看護師にあれこれ指示を出し、懸命の処置を施す。短く浅い呼吸を繰り返す紗江子に意識はなかった。
「ご家族――、お母さんをお呼びになったらどうでしょう。他に逢わせてあげたい方はおられませんか?」
看護士の言葉に、俺はただ首を振ることしかできなかった。居合わせた祐二が「俺が」と言って病室を飛び出て行く。
処置の邪魔をするつもりはないが紗江子に触れていたい。俺が手を離した途端、彼女が遠くに行ってしまうように思われていた。忙しく動き回る医師と看護士の間に体を割り込ませて手を握り続け、紗江子が眼を開いてくれることを願っていた。
奇跡か――、紗江子が眼を開いた。微かだが指先にも力が感じられる。
「……」
看護師を押しのけ、震える唇に耳を近づけてみるが、声にはなっていない。
「なんだい? 聞こえないよ。辛かったら無理しなくていい。いま熱を下げてもらってるからな」
俺の言葉が紗江子に届いているのかどうかもわからなかったが、まだ終わらせない。それを病室の全員に宣言するかのように声を上げた。
「あ……り……がと」
再び紗栄子が唇を震わせる。小さな囁きだったがはっきり聞き取ることができた。紗江子の瞳からこめかみに涙が流れ落ちる。次の瞬間、俺の手を握り返す力が消え、紗江子の瞼は閉じられた。
「礼なんか……、言うな」
俺は最高に気の利かない文句しか言えなかった。
医師が退室し、看護師が紗江子に繋がっていたチューブやケーブルを外し始めても、怖くて心電図に目をやることができなかった。戻ってきた祐二が大声で「紗江ちゃん!」と叫んだのを、別世界の出来ごとのように感じていた。視界は涙でぼやけ、看護師が紗江子と俺の手を離した時も、されるがままにしていた。
まるで眠っているような――。ありきたりだが、そんな表現が相応しい。部屋から運び出される紗江子の表情は苦悶から開放され、とても安らかに見えた。しかし、そこに彼女の魂は感じられない。ほんの数分前、俺にありがとうと言った紗江子の意識はどこへ消えてしまったのだろう。
俺は立ちあがることもできなかった。医師の臨終を告げる言葉にも、看護師の慰めにも返事をすることさえしなかった。祐二がなにか言っていたが、その言葉がなんだったのかもわからない。
かつてこれほどの絶望感を味わったことはない。
親父が逝った時は葬儀の段取りや遺体搬送の手配に追われ、哀しみに浸っている余裕すらなかったな、あの時と何が違うのだろう――。俺はそんなことを考えていた。紗江子のいない未来を思考から閉め出すことができるのなら、それがなんであろうと構わなかった。