九十六
うっすらと雪が積もりかけた屋上の中程、車椅子が横倒しになっていた。
「さえこー!」
夜間、照明のない屋上の見通しは悪い。病院の裏手は山で他の建物から射してくる灯りもない。もう一度、大声で紗江子の名を呼びながら車椅子まで駆け寄った。酸素ボンベが架台から転げ落ちていた。
「さえこー!」
背後でドアの閉まる音がしたが俺の注意を惹くものは紗江子の安否以外なにもない。このフェンスを紗江子が乗り超えられるはずがない。そう思いつつも、そこに痕跡を探してしまう自分を腹立たしく思っていた。
「あっ! あそこに……」
声のするほうに眼を向けると先ほどの青年が立っていた。彼の持つ懐中電灯が、緑化庭園の煉瓦屏を照らすと、なにかがキラリと光った。俺は雪で滑る屋上の床に足を取られながら走り出す。煉瓦塀にもたれかかるように蹲った小さな塊を抱き起こした。
「紗江子っ! しっかりしろ!」
密度粗く雪に覆われた紗江子の体はすっかり冷たくなっており、額にかかった髪も濡れていた。ただ、僅かに開いた唇から洩れる吐息が、懸命に命の灯火を燃やし続けていることを俺に告げていた。紗江子の倒れていた場所に転がっていたのは鈍く銀色に光る音叉だった。屋上ライブの時に置き忘れていたらしい。さっきの反射はこれだったのか……
「先生を呼んできます!」
背後で青年の声と駆け出す足音が聞こえた。俺は紗江子を抱きかかえて階段へと向かう。青年が起こしておいてくれたようだ、車椅子が正立しボンベも架台へと戻されている。紗江子の体をあずけ、酸素のチューブを繋ぐ。透明だったチューブが白く曇った。
その時は気づきもしなかったが、重くドアストッパーの着いてないスチールドアは開放されていた。機転が効く成年のお陰だった。屋内へと紗江子の乗る車椅子を押入れた時、ドアに挟み込まれたスリッパが目に入った。
紗江子の手がゆっくりと動いた。俺は彼女の正面にしゃがんで顔を近づける。途切れ途切れの小さな声が聞こえた。
「――ごめん……ね――ゆび……わ、さが……して……たの。ちゃん……と、みつけ……」
いつからか紗江子の指にそれがないことは知っていた。指から抜け落ち、なくしてしまったならそれでいい。紗江子が忘れているなら思い出せるようなことは言うまいと思っていた。俺が贈った指輪は、いま、紗江子の中指で輝いている。
「うん、でも、もう二度と無茶はしないでくれ」
紗江子を抱いて一気に駆け降りるか――。そうなると酸素のチューブを外さねばならない。迷いは一瞬だった。俺は車椅子ごと紗江子を抱え上げ階段を下り始める。狭い踊り場で体を捻った際、右手に激痛が走ったが構わず階段を下りきった。
六階のフロアにたどり着いた俺と紗江子を、西尾医師と看護師が出迎える。
「小野木さんっ! その手」
看護師が叫んだ。どこかで挟んだのか、それとも車椅子のホイールにでも巻き込まれたのか右手の小指は皮一枚で繋がっていただけで、流れ出た液体が床に血溜まりを作っていく。ストレッチャーに乗せられた紗江子が薄目を開けた。
「ごめんね、でも、ありがとう」
俺には紗江子がそう言ったように思えていた。