九十四
所用から戻った病室に紗江子の姿はなかった。車椅子がないから風呂か? この前はいつだったろう、ボンヤリとした頭で俺はそんなことを考えていた。
仕事を辞め、病室と自宅の行来だけになっていた俺は、いつしか曜日感覚を失くしており、昼夜の区別なく痛みを訴えて目覚める紗江子の介抱に時間の感覚さえ奪い取られようとしていた。
タフで鳴らす俺だったが、睡眠不足と心労で疲弊していたことは否めない。紗江子の病状が進むにつれ俺が傍を離れる時間は短くなり、睡眠をとる場所はベッド脇に置かれたパイプ椅子が多くを占めるようになっていた。
俺の心配などしていられる状態ではなかったはずの紗江子だが、そんな俺を気遣って看護師に頼んだようで、部屋には折り畳み式の簡易ベッドが運び込まれていた。少し体を休めるだけのつもりで横になった俺は、あっという間に眠りに落ちてしまった。
「採血でーす」看護師の声に目覚める。紗江子が戻ったのか? そう思って送る視線の先――ベッドは空っぽのままだった。
「紗江子は?」「中尾さんはどちらに?」ほぼ同時に俺と看護師が声を発する。俺は跳ね起きた。腕時計を見ると午後五時を数分回ったところだった。小一時間は眠っていたらしい。
「入浴じゃなかったんですか?」
「昨日、済ませたばかりじゃないですか。中尾さんはどちらに?」
同じ質問を繰り返す看護師に「探して下さい!」と言い残し、俺は病室を飛び出した。
この薄らバカめ! 自らを罵る声に反論の余地はない。紗江子が消えた――。いま直面しているその現実が悠長に言い訳を考える暇など与えてはくれなかった。俺の頭の中は紗江子を見つけ出すことだけに埋め尽くされていた。
あんな体で一体どこへ? ひとりではベッドから車椅子に移る体力さえなくしていた紗江子だった。
上か? 下か? エレベーターの前で立ち止まって考える。屋上の重いスチールドアを思い出した、紗江子にあれが開けられるはずがない。〈2〉のランプが長く点いたままのエレベーターを待ちきれず、俺は階段室へと走った。
眠気は完全に消え去っていた。階下目指して駆け下っていた俺は若い技師と危うくぶつかりそうになる。咎める目を向けてくる技師に、すいません、と頭を下げ、俺は一気に一階まで駆け下りた。