九十三
「君がいなくなったら、俺は一生哀しい眼をして過ごさなきゃならないんだぞ。どこにも行かないっていったじゃないか、約束を破るのか!」
いい歳をして情けない話だが嗚咽混じりになってしまい、ちゃんと紗江子に伝わっているのかどうかさえわからない。
「仕事も辞めちゃったんでしょう? あたし、ジュンの人生を滅茶苦茶にしたのね。とんだお荷物だわ」
それも知っていたのか……。紗江子の言う通り、俺は嘘が下手なようだ。
「――そんなふうに思ってるのか」
「思いたくないけど、現実がそうだもの」
「バカモノ」俺はそう言うと触れるか触れないかの力加減で、紗江子の頭に拳骨を置く。声に力がない分、言葉と所作だけでも普段通りに――。泣きべそをかいてしまった中年男がせめてもの抵抗を試みる。
「奈緒子と悦子を裏切り続け、せっかく芽生えた命まで摘んでしまった俺は、どう償っていいのかわからず途方に暮れてたんだ。君のお陰でそれがわかった。受け入れてもらえない謝罪は、君を幸せにすることでそれに代えてもらおうと思った。お荷物なんかであるもんか、悔しくて言えなかったけど……、紗江子は俺の宝物だ。何度でも言うぞ、どこへも行かせない。君のためだけじゃない、俺の贖罪の受け皿として傍にいろ」
話す言葉は傲慢でも端々で声が裏返る。笑みを消さない紗江子の頬に、幾筋もの涙の跡があるのに気づいた。
「泣きながら威張るのね、おかしいわ」
「君だって泣いてるじゃないか」
「あたしが望んであなたから去るんじゃないんだもの、怒らないでよ」
「いいや、怒る、泣く、死んでやる」
なんの余裕もなくなってしまった俺は、とうとうそんな禁句まで口にしてしまった。
「あたし……、いつまで生きられるのかな」
紗江子の肩が震えだした。
「決まってるだろう、俺がいいって言うまでだ」
「そうなりたい! ジュンが許してくれない限り死ねないあたしでいたい」
「じゃあ、そうしてやる」
「してよ! いますぐに」
俺達の想いは同じだったはずだ。なのに、何故、言い争ってるように感じるのだろう。
「するさ、してみせる。あの不味いパワーなんとかも、辛い治療もそのためじゃないか。俺は絶対に諦めないからな。だから君も諦めるな」
突っ立ったままの自分に気づき、ベッドの端に膝をついて紗江子を抱きしめる。
「だって……」
紗江子の言葉は続かない。俺の首筋に暖かい滴がこぼれ落ちてきた。
俺はただ抱きしめることしかできない自分に憤り、紗江子から未来を奪おうとする病魔に激しい憎悪を抱いていた。
紗江子の一日と俺の寿命の一年と引き換えてもいい。それがだめなら病巣をそっくり俺に移植してくれ。悪魔がここに現れてそんな取引を持ちかけてはくれないかと俺は願った。
神に祈る時期はとうに過ぎ去ったように思えていた。