表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
90/100

九十

 元々細かった紗江子の血管は抗がん剤の副作用で脆くなっており、点滴のため看護師は何度も針を差し直した。そして、はいったかと思えば血管が裂けたりもする。強い薬品である抗がん剤の点滴漏れは皮膚障害も起こすという。医師の勧めで大静脈からカテーテルを通す手術をすることになった。手術そのものは三十分程度の短いものだったため、出掛けていた俺が戻った時、既に紗江子は病室で小さな寝息をたてていた。

 インターネットで民間療法の情報を仕入れて医師に相談し、可もなし不可もなしと言われたフコイダンだかフダコインだかを探し求め、俺は薬局や健康食品の店を駆け回っていたのだ。

 点滴の跡が痛々しく変色をした前腕部をそっと撫でるようにすると、うーん、と紗江子の起きる気配がした。

「あ……、おかえり。あたし、眠ってたみたい」

「そうだな、眠れるならひと安心だ。少しは楽になったのか?」

「うん、こっちのほうが楽かも。点滴は痛くて仕方なかったんだもの。看護師さんも針をいれるのに苦労なさっていたわ。痛み止めもよく効いているような気がする」

「よかったな」

 紗江子の明るい声に、俺は心底嬉しくなった。

「元気だった頃にね、かおるちゃんに細くて羨ましいとか言われたけど、こんなになるとわかっていたら、もっと太っておけばよかったと思うわ」

 点滴の効果が思わしくなく、ここ数日はやむを得ずモルヒネに頼っていた紗江子だった。朦朧とする意識の中、紗江子は「いっそ死んでしまいたい」と譫言のように繰り返した。そんな時、俺は、自分の無力さを呪うしかなかった。はっきりとした口調で語る紗江子に、俺の気分も昂揚する。

「俺の好みは華奢な女性だ。君がたくましかったら付き添っていなかったろうな。いや、そもそも付き合ってすらいなかったかもしれない」

「いじわるっ! 喜んでいいのか悲しんでいいのか、わからないじゃない」

 紗江子は拗ねたような目で不満を訴えるが、ここ数日で一番の状態に思えた。

「いいから、早く良くなってくれよ。俺は、去年、約束したテーマパークに連れてってやれてないことが気になって仕方ないんだから。花見も行くぞ、薄墨桜に枝垂れ桜、君の勤め先の裏手から繋がっている堤防道路は、桜のトンネルを抜けるみたいで幻想的なんだ。奥琵琶湖にはニ千本の桜並木がある。花見だけで三日はかかりそうだな」

 春への期待が、未来への希望が、紗江子に生命力を注いでくれる。そう信じて退院後を話題にすることの多い俺だった。

「お揃いの革ジャンでバイクにも乗せてくれるのよね、テーマパークにはそれで行かない?」

「いいとも。但し、それは完全に体力が戻ってからだ。俺にしがみついているだけでも結構な体力が必要なんだぜ。バイクはゴールンウィークあたりまで待てよ。ボーリングの雪辱戦もしたいっていってたろう?」

「あっ、それを忘れてた。退院してもしばらくはズル休みしちゃおうかな。そうでないと予定がこなし切れないわ」

「おいおい、俺の休暇は二週間だけだぞ。先は長い、子どもができるまではふたりきりで遊び回れるさ、慌てるこたあない」

 紗江子に付き添うようになってとうに二週間は過ぎている。うっかり口にしてしまったが紗江子は追究してこなかった。入院生活はひとの時間感覚を狂わせる。時計の張りや三度の食事が時を告げるのではなく、移り変わる情景や空気が、過ぎた時間を知らせてくれるのだと、俺は悟っていた。

「だって、ジュンと一緒なら行きたいところもやりたいことも増えるに決まってるんですもの。急がないとあなたがおじいちゃんになっちゃうじゃない」

「ばかもの」

 拳骨を作って紗江子の頭に置いた。彼女は首をすくめて笑ったが、次の瞬間、なにかに気づいたような顔をする。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ